この前のツーリングで、人生初めて箱根というものを味わったのだが、箱根を越える街道というのは結構色んなルートがあって、時代によってかなり違うらしい。
奈良時代や平安時代は、箱根の山塊の北側、足柄峠を越える道だった。
これを足柄坂と呼んだ。
この足柄坂を越えた東、ということで坂東、そしてそこに住む武士を武者武者と呼んだ。
これが坂東武者の始まり。
坂東が今の関東を意味するのは何となく知ってたけど、調べると、なるほどな、となる。
1つ勉強になった。
平安時代は箱根山が噴火していた時代で、延暦21年(802)に噴火で足柄峠経由の街道が閉鎖されてしまう。
そして、この代替路として開削されたのが箱根路。
1年ほどで足柄路も復旧したので、両方の街道は足柄路を主街道としつつ併用されたが、源頼朝が鎌倉に幕府を開くと、京との往来は最短距離の箱根路が次第に使われるようになった。
この頃の箱根路は、三島大社から今の国道1号線のやや北を並行するように進み、海ノ平へ出て芦ノ湖畔を回り、箱根権現を通って湯本へと下りるルートだった。
これは、推定平安鎌倉古道と呼ばれているらしく、室町時代には元山中に関所があったことが判っている。
そして戦国時代末になると、小田原北条氏が街道を取り入れる形で山中城を築くのだが、この頃には箱根の西側は今の国道1号線とほぼ同じルートになっていたみたい。
600年ほど変わってなかったルートが100年そこそこで付け替えられたのは、軍用道路化の為かもしれない。全く根拠はないんやけども。
さらに小田原征伐では、石垣山城を築いた豊臣秀吉が箱根の東側に関白道と呼ばれる道を開いた。
この道は今のターンパイクに近いルートだったらしい。
そして江戸時代に徳川幕府が須雲川沿いに進む旧東海道を開いた。
今で言う箱根新道のルート。
更に今の国道1号線では再び早川沿いのルートに戻った。
いやはや、変更が激しいな・・・
ちなみに、勾配がもっと影響する鉄道では、東海道線が当初は足柄峠よりも北の現在の御殿場線のルートで開業し、後に東海道の脇往還だった熱海道のルートに変わった。
つまりは、箱根山の勾配を克服できず、北や南に大きく迂回することになった。
そして新幹線も熱海ルート、東名高速は御殿場ルートと迂回路を採っている。
交通の大動脈がこれだけ変遷し、そしてルートが幾つもある例は珍しい。
それだけ箱根が難所であったということやね。
そして、これらの大動脈達は、三島沼津で1ヶ所に集められる。
それは富士山と駿河湾の成せる業。
しかし、地図でこの辺りを見てると、ホースで水を撒いてる時にホースを踏んだ小さい頃のいたずらを思い出すわ(笑)
この辺りで遮断されると交通がもう踏まれたホースのようにパンパンや~
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