2013年7月27日土曜日

黒田官兵衛の新史料

昨日、神戸新聞に黒田官兵衛が養子だったという新史料が発見されたと載っていました。
ただ、信憑性は低いようなそんな感じの書き方でしたね。

通説では、黒田家は近江源氏佐々木氏の一流で、近江国伊香郡黒田村を本貫の地とし、室町幕府の奉公衆として足利氏に仕えたとされています。

各代の事跡は、

高政・・・永正8年(1511)の船岡山の合戦で当主であった高政が将軍から叱責を受けて近江を退転。
   ↓
高政の子重隆・・・逼塞していた備前福岡から播磨に移り、広峯神社の神符を売り歩く御師と組んで家伝の目薬を売り歩き、財を成して頭角を現したという。そして小寺氏に仕える。
   ↓
重隆の子職隆・・・小寺政職の猶子となって家老を務め、その養女を娶って小寺姓となる。
  

で、職隆の子官兵衛孝高の登場と相成るわけです。
ただし、これは江戸時代に語られた家系の話で、信憑性にやや疑問符がつく。

江戸時代は家系を作成する専門の職業が成立するほど需要があり、その人達は作成といっても、作るではなく創ったわけです。
つまり、やや難しい言い方をすれば仮冒というやつですな。
「うちの先祖は何処其処の出身だし、そこに所縁がある有名人の○○の子孫ということにしておけばいいんじゃね?」
的なノリで。
まぁトップの徳川将軍家自体がどこの馬の骨かも分からないような出自で、無理やり源氏の世良田さんに繋げてることもあって、出自をどうするかに関しては緩かったみたい。
もちろん当時は公に徳川家を指差して、「あんなん嘘やん」って言えるわけはなかったはずですけども。

そんなこんなで、黒田家の系図もちょっと怪しい。
で、これとは別の系図が播磨にはあるんです。
黒田庄の黒田氏の系図が。
ここには重隆の子として孝高がおり、職隆は元々小寺の人で、職隆の猶子に孝高がなって孝高も小寺を称したとあるらしい。
猶子とは、人の名前じゃなくて(笑)、「猶、子の如し」という意味。
養子よりは弱いけど、子供として扱うよ~という感じですな。
秀吉と宇喜多秀家の関係が猶子で、姓も違ってるが、秀吉は秀家を可愛がり、秀家は秀吉のことを親同然に思っていたはず。
そんな関係。

それと、注目したいのが、重隆の母が佐々木高信の娘になっていること。
おや?
うっす~~いながら繋がりが出てきましたねぇ
佐々木高信がどんな人なのかわからなかったけど、恐らく近江源氏佐々木氏の末流。
性格の悪い自分は、後世の人が、「重隆のおかんの系統は多分佐々木の末流やから佐々木流黒田氏の子孫ってことでええんちゃう?」なんて相談してる姿が浮かびます。

今回の発表は、猶子と養子の違いはあれど、官兵衛の黒田庄黒田氏出身説を裏付ける史料となる可能性があります。
しかも他の新聞なども見てみると、職隆は孝高を子として養い・・・というような言い回し。
原文はどう書いてあるんだよ~~
猶子の概念が一般的に解り辛いので養子という表現にしたのかもしれませんな。
また、史料の出所が孝高の妹婿一柳直末に関する文献という近さもまた、信憑性のあるところです。

佐々木流黒田氏説には、近江から退転した高政という武将が他の史料に出てこないという問題点があり、黒田庄黒田氏説にも、名乗る必要の無い黒田姓で他の史料に職隆が登場するという問題点があります。
そもそも、黒田庄黒田氏は赤松氏の庶流で、赤松氏は源氏の上に室町時代の四職という家柄で申し分なく、確かに古さでは佐々木氏に劣りますが、四職という意味では同格で、仮冒の必要があったのか?という疑問点もあります。

江戸時代の系図作成者から、「そんな細かいところをつつくなよ(汗)」という苦笑いが聞こえてきそうですが、こんなおせっかいも歴史のロマンのひとつですな(笑)
大河ドラマの主役になることで、新たな史料の発掘が進むなら、歴史マニアとしては歓迎です(^^)


参考:
播磨屋

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