最近、大手芸能事務所の吉本興業のニュースがテレビを賑わせていますな。
事の発端から考えると、なんだか本質を見失っている感はあるんですが。
吉本興業と言えば、芸人を6000人も擁するというお笑い事務所の最大手であり、超巨大な事務所。
そんな大手の問題だけに、世間の興味を引くようですね。
事の顛末についてはワイドショーに詳しいんですが、個人的に気になったのは、契約の形態でしょうか。
芸人の方たちは、ウチの会社、ウチの会社なんて言い方をしますが、労働形態から考えて社員ではない事は間違いありません。
ギャラって言葉に端的に出ていますが、ギャランティであって給料ではないわけです。
もし給料だったなら、1円の明細なんて出した日には労基署直行ですしね(笑)
例の発端の問題では、契約解除という言葉が飛び交っていました。
となると、業務委託契約という類になるんでしょうか。
一方で、明石家さんまさんなんかは、個人事務所を持っていて、事務所同士の契約になっているようですね。
この辺りは、芸人としての実力やポジションなんかで、色々と変わる部分なんでしょう。
芸能人の契約は、一般には専属マネジメント契約などと呼ばれ、マネジメントは事務所に任せ、自分は個人事業主という形が多いようですね。
ただ、マネジメント契約だった場合、上の業務委託という形態とはまた微妙に違ってきます。
吉本興業の持っている仕事を外出しするのが業務委託契約ですので、劇場の仕事や吉本興業が受注した地方営業の仕事を依頼するのはこれに近いかもしれません。
一方、指名で入るテレビや地方営業の仕事なんかは、マネジメント契約かエージェント契約の範疇になりますね。
芸人の人が、諸々の事務や契約を代行してもらう為に吉本興業を利用する形です。
発注側との契約が、吉本興業になるのか芸人さん側になるのかで、マネジメント業務なのかエージェント業務なのか変わりますが、この辺りは受注の形態も色々あって、なかなか区分が難しいみたいですな。
ところで、吉本興業は資本金が1000万しかない為、下請法の対象にはなりませんので、芸人と吉本興業の間では、いわゆる三条書面という文書を交わす必要が無く、口頭での契約も可能です。
と言っても、吉本興業は口頭でも両者で合意をするということが無かったようですから、契約が成立したかは法的には微妙かもしれませんがね。
そういう法律的なものはともかくとして、吉本興業と芸人さん達は、どのような契約の「つもり」だったのか、そこが個人的に非常に気になる所です。
もし、専属ではないマネジメント契約と思っていたとしたら、そもそも事務所を通さない闇営業の問題は無かったわけですしね。
しかも、吉本興業自身も闇営業は黙認という形だったようですし。
ん~難しいなぁ
あと、個人的に思うのは、若手の芸人さんが安すぎると明細を上げてたりしますが、主要都市の一等地に劇場を構え、ある程度ライブなどの自由が利く吉本興業は、コスト的に考えると、芸人さんにとっては恵まれた環境だなというところですな。
個人でライブをしようと思えば、場所を確保して人を動かさないといけませんが、人を1日動かせばどんなに安くてもひとり1日2万程度は必要でしょうし、それにプラスしてハコと呼ばれる場所代が掛かるわけで、チケットの単価や売れ方によっては持ち出しすら十分有り得ると思います。
吉本興業の劇場の場合は、ベテランとミックスすることで公演全体では黒字になっているとは思いますが、客を呼べない若手芸人だけを切り取って厳密に計算した場合、恐らく会社的には持ち出しになっているでしょう。
逆に芸人さんから見ると、いくら劇場の仕事が安いとは言っても、交通費は別として公演の仕事単体では赤字にはならないですし、広告費要らずで名前を広く知ってもらえるわけなんですよね。
本気で安い安いと批判している芸人さんには、人を動かすことに対するコスト、場所に対するコスト、ある程度指名で仕事が入るまでの露出費用、この辺りをどこまで認識しているか聞いてみたいものではありますな。
2019年7月30日火曜日
2019年7月22日月曜日
2019参議院議員選挙
参議院議員選挙が終わりましたね。
年金問題や徴用工問題等ありましたが、マスコミが騒ぎ過ぎていただけのような感じで具体的な争点としては薄く、淡々と終わった選挙だったような気がします。
選挙結果を見ると、自民党が大幅に議席を減らし、立憲民主党が大幅に議席を伸ばしたように見えますが、6年前の前々回の選挙で自民党がどちらかと言えば勝ちすぎており、その反動と言えるでしょうか。
実際、前回3年前の選挙結果と比べても獲得議席は増えており、順当に評価されていることが窺えますね。
米中貿易摩擦で輸出企業の業績悪化が広がっていますが、まだそれほどの悪影響は実生活に表れていないですし、安倍政権はそこそこという意味での及第点を与えられたようです。
これに対し、野党第一党の立憲民主党は議席を大きく増やしました。
ただ、これはリベラル勢力の結集という意味でしかなく、その獲得数を見ても、大きな動きにはならないようですね。
要は、かつての民主党支持層の受け皿として認められつつあるものの、その器の大きさは民主党よりも小さくなってしまっているというところでしょう。
もう少し現実的な政策を掲げ、政策論争をしていかないと、揚げ足ばかり取っているようではダメですな。
今のままでは、批判勢力にすらなれていません。
個人的に注目したいのは、れいわ新選組とN国党、そして社民党。
山本太郎元議員は、なかなか面白い動きをしていました。
そこに賛否両論はあるものの、ああいう独自の動きをする党があってもいいと思います。
瓢箪から駒ではないですが、従前にない活動が何か新しいモノを生む可能性がありますしね。
もちろん、生まない可能性の方が高いんですが、多様性としてはアリですな。
それと、国会のバリアフリーが進むという副次効果もいいんじゃないでしょうか。
N国党については、政見放送もかなり突飛でしたが、それでもこれだけの得票を得て政党要件を成立させてしまったというところに、NHKに対する潜在的意見を見た気がします。
新社屋に3700億円とか、現役層の支持を失いつつあるレガシーメディアに対する投資としては異常に高いですしね。
望めばネットから情報を得られる人がどんどん増える中で、もう公共放送としての役割は終えたんではないでしょうか。
ドラマや海外スポーツなどは無くすかペイパービューにし、国会中継や政府広報を淡々と流すスモールな国営放送に組織改編するべきかと。
最後に、社民党。
この党も、NHKと同じく役目は終わっていると個人的には思うんですが、55年体制時代のかつての支持層が根強く投票しているようですね。
そこに、シルバー民主主義の一端を見た気がします。
さて、選挙を安定的にこなした安倍政権は、対韓国、対アメリカ、それに加えて貿易などの外部環境の悪化にどのように対応していくのでしょうか。
まだまだ山場は続きますな。
年金問題や徴用工問題等ありましたが、マスコミが騒ぎ過ぎていただけのような感じで具体的な争点としては薄く、淡々と終わった選挙だったような気がします。
選挙結果を見ると、自民党が大幅に議席を減らし、立憲民主党が大幅に議席を伸ばしたように見えますが、6年前の前々回の選挙で自民党がどちらかと言えば勝ちすぎており、その反動と言えるでしょうか。
実際、前回3年前の選挙結果と比べても獲得議席は増えており、順当に評価されていることが窺えますね。
米中貿易摩擦で輸出企業の業績悪化が広がっていますが、まだそれほどの悪影響は実生活に表れていないですし、安倍政権はそこそこという意味での及第点を与えられたようです。
これに対し、野党第一党の立憲民主党は議席を大きく増やしました。
ただ、これはリベラル勢力の結集という意味でしかなく、その獲得数を見ても、大きな動きにはならないようですね。
要は、かつての民主党支持層の受け皿として認められつつあるものの、その器の大きさは民主党よりも小さくなってしまっているというところでしょう。
もう少し現実的な政策を掲げ、政策論争をしていかないと、揚げ足ばかり取っているようではダメですな。
今のままでは、批判勢力にすらなれていません。
個人的に注目したいのは、れいわ新選組とN国党、そして社民党。
山本太郎元議員は、なかなか面白い動きをしていました。
そこに賛否両論はあるものの、ああいう独自の動きをする党があってもいいと思います。
瓢箪から駒ではないですが、従前にない活動が何か新しいモノを生む可能性がありますしね。
もちろん、生まない可能性の方が高いんですが、多様性としてはアリですな。
それと、国会のバリアフリーが進むという副次効果もいいんじゃないでしょうか。
N国党については、政見放送もかなり突飛でしたが、それでもこれだけの得票を得て政党要件を成立させてしまったというところに、NHKに対する潜在的意見を見た気がします。
新社屋に3700億円とか、現役層の支持を失いつつあるレガシーメディアに対する投資としては異常に高いですしね。
望めばネットから情報を得られる人がどんどん増える中で、もう公共放送としての役割は終えたんではないでしょうか。
ドラマや海外スポーツなどは無くすかペイパービューにし、国会中継や政府広報を淡々と流すスモールな国営放送に組織改編するべきかと。
最後に、社民党。
この党も、NHKと同じく役目は終わっていると個人的には思うんですが、55年体制時代のかつての支持層が根強く投票しているようですね。
そこに、シルバー民主主義の一端を見た気がします。
さて、選挙を安定的にこなした安倍政権は、対韓国、対アメリカ、それに加えて貿易などの外部環境の悪化にどのように対応していくのでしょうか。
まだまだ山場は続きますな。
2019年7月16日火曜日
北陸北信ツーリング その11
前回のあらすじ
ああ懐かしき白馬。
春の姿もまた良し!
白馬連峰を右手に見ながら心地よく南下を続けると、その先に見えてくるのは青木湖・・・のはずなんですが、残念ながら青木湖まで行く時間が無い。
かれこれ20年ほど前、サンアルピナ鹿島槍のスキー場に行き、青木湖まで滑って行った懐かしさもあって、青木湖には寄りたかったんですけどねぇ
そういえばあの時、白馬さのさかまでスノーボードで行ってひたすらスケーティングという大変な目に遭いましたけど、スキー場の脇に鉄道が走ってる事に感動もしました。
関西に住んでいると、雪原の上に2本の線路だけが見える状況なんてそう無いですし、スキーをしながら列車が雪の上を滑って行く様子を見るなんてことなんか絶対に無いですからね。
元鉄ちゃんとしては、あれは良かった(^^)
ま、余談は置くとして、白馬から青木湖まで行かず、次の目的地である長野市の善光寺へと向かうわけなんですが、最短距離っぽい国道406号線は、地図で見るとかなりの峠道のようなので、時間が掛かりそう。
なので、その1本南のオリンピック道路と呼ばれる県道33号線で行くことにしました。
この選択はなかなか良かったですね。
オリンピック道路というだけあってかなりの快走路で、スイスイと走れました。
そして日高トンネルを抜けて国道19号線へ入り、長野市街を北上すれば簡単に善光寺へと到着です。
善光寺へは、東側から入りました。
まずは、その東から本堂をば。
横からでも判る異様な巨大さ。
これが善光寺か!
屋根が独特でまた良し。
正面に回ってみると、それはもう建造物の域を超えたかと思えるほど巨大。
迫力が並の寺社とは違いますわ。
なんか本堂自体が、大仏であるかのような感覚にすらなります。
言葉にすると、鎮座。
それほどの存在感ですな。
山門まで歩いてみると、これまたデカい。
なんじゃこの寺は。
何もかもスケールが違う。
いや~感動しましたわ(^^)
ただ、大いに賑わっているという門前町は、17時という時間だったので、閉店している店が多かったですね。
善光寺も、門前町も、本日の営業は終了致しましたという雰囲気がプンプンと漂う中、慌てて引いたおみくじは、
なんと凶!
わざわざここまで遠征してきて凶を引くんかい!
遠さ以上にアウェイ感半端ないな。
そういえば昔、東京まで遠征して浅草寺で凶を引いたこともあったような。
寺のおみくじとは相性が悪いのか・・・
善光寺を後にして、夕闇が迫ってくる中、長野市街を南へ。
真新しい北陸新幹線をくぐり、国道18号線に入って有名な犀川を越え、川中島へと向かいます。
八幡原は、言わずと知れた川中島の古戦場で、川中島古戦場史跡公園という名の緑地公園になっています。
ここも2度目の訪問ですが、かれこれ22年振りになるかなぁ
当時、信州大の上田キャンパスに通っていた同級生がいまして、その家を拠点に長野を回ったんですが、川中島に行くと言ったら、
「川中島?軽井沢なら解るけど川中島行くやつなんかおらんで」
と言われました。
そりゃまぁそうやろな。
二十歳そこそこで史跡巡りしてる奴なんて珍しいと思うわ。
その頃からちょっと嗜好が変わってましたな(^^;)
思い出話は置くとして、陽がもう落ちてしまったこの時間では、もちろん博物館は閉まっているので、武田信玄と上杉謙信の一騎討ちの像を中心に散策していきます。
まずは、やはり一騎討ちの像から。
実際には、この一騎討ちは無かった可能性が高いと思いますが、第4次の川中島の戦いは数ある戦国時代の合戦の中でも、稀に見る死傷率の高い戦いと言われることもありますので、乱戦また乱戦という状況なら可能性はあったかも知れませんね。
ただ、実際には、合戦の様子は甲陽軍鑑や他の軍記物にあるだけで、一次史料には少なく、本当の所はよく判っていません。
また、この頃の謙信は、直前に上杉家を継承して政虎と名乗っていた時代で、僧形ではないんですよね。
めっちゃ有名な像なんやけど、そこはフィクション。
これも歴史の面白さでしょうか。
この一騎討ちの像の近辺には、本当かどうかは別として、その第4次川中島の合戦に関連する色々な史跡があります。
先ほどの像と同じ伝承のものですが、三太刀七太刀の碑。
碑の横に八幡社の本殿が写っていますが、この八幡社が八幡平の地名の元になっているんですね。
小さい社殿ながらも、その名前は広く使われています。
次に、執念の石。
一騎討ちに気付いて謙信に槍で突き掛けたものの討ち漏らしてしまった原大隅が、悔しさのあまりこの石を槍で突き通したという伝承が残っています。
そして、首塚。
戦死した将兵を弔った塚ですが、これは本物ではないでしょうか。
なんなら、この首塚から派生する形で、他の伝承物が増殖したのかも知れませんね。
付近には、両軍の布陣図もあります。
これを見ると、すごく解り易い。
しかし、この布陣図で謙信自ら現在地とある敵本陣まで切り込むとなると、相当突出するか乱戦を極めるかという状況になりますな。
もはや初期の布陣なんて関係無い勢いで。
実際にはどんな戦いだったのか、史料が発掘されたら面白いのになぁ
最後に、時代が下った江戸時代の松代藩の開明派であった佐久間象山の像をば・・・と思ったら、その像の土台で高校生のカップルが仲良くおしゃべりしてました。
そんな状態で・・・
写真なんか撮れるかい!
まるで盗撮みたいに思われるのも嫌やけど、せっかくやから佐久間象山を撮りたかったですわ(> <)
八幡原の川中島古戦場史跡公園を後にして、ちょっと南に行けばすぐ宿泊予定の長野グランドホテルですが、素泊まりなので、ちょっと戻ってステーキ宮で腹ごしらえ。
ツーリング最後の晩餐ということで、ちょっと贅沢に注文したら、結構高くなりました。
うむ。
ファミレスとは言え、ステーキは侮れない。
お腹も満足したところで、宿へと向かいます。
この日の宿泊プランは、ホテルお任せのプラン。
どんな部屋になるんかと入ってみたら・・・
広いツインの部屋でした(^^)
平日やし、優遇してくれたんやろね。
素泊まりには勿体ないぐらい。
この日は平日ということもあって日本人は少なく、外国人の団体さんが多かったんですが、幸い温泉の方は空いていて、落ち着いて入ることができました。
それほど広くない露天風呂に中華系の家族連れの方が入っていましたが、迷惑にならないように静かに入っておられてたようで、こちらもゆっくりできましたね。
マナーが良い人達で良かった(^^)
つづく
参考:
善光寺
川中島古戦場
地図付きはこちら
ああ懐かしき白馬。
春の姿もまた良し!
白馬連峰を右手に見ながら心地よく南下を続けると、その先に見えてくるのは青木湖・・・のはずなんですが、残念ながら青木湖まで行く時間が無い。
かれこれ20年ほど前、サンアルピナ鹿島槍のスキー場に行き、青木湖まで滑って行った懐かしさもあって、青木湖には寄りたかったんですけどねぇ
そういえばあの時、白馬さのさかまでスノーボードで行ってひたすらスケーティングという大変な目に遭いましたけど、スキー場の脇に鉄道が走ってる事に感動もしました。
関西に住んでいると、雪原の上に2本の線路だけが見える状況なんてそう無いですし、スキーをしながら列車が雪の上を滑って行く様子を見るなんてことなんか絶対に無いですからね。
元鉄ちゃんとしては、あれは良かった(^^)
ま、余談は置くとして、白馬から青木湖まで行かず、次の目的地である長野市の善光寺へと向かうわけなんですが、最短距離っぽい国道406号線は、地図で見るとかなりの峠道のようなので、時間が掛かりそう。
なので、その1本南のオリンピック道路と呼ばれる県道33号線で行くことにしました。
この選択はなかなか良かったですね。
オリンピック道路というだけあってかなりの快走路で、スイスイと走れました。
そして日高トンネルを抜けて国道19号線へ入り、長野市街を北上すれば簡単に善光寺へと到着です。
善光寺へは、東側から入りました。
まずは、その東から本堂をば。
横からでも判る異様な巨大さ。
これが善光寺か!
屋根が独特でまた良し。
正面に回ってみると、それはもう建造物の域を超えたかと思えるほど巨大。
迫力が並の寺社とは違いますわ。
なんか本堂自体が、大仏であるかのような感覚にすらなります。
言葉にすると、鎮座。
それほどの存在感ですな。
山門まで歩いてみると、これまたデカい。
なんじゃこの寺は。
何もかもスケールが違う。
いや~感動しましたわ(^^)
ただ、大いに賑わっているという門前町は、17時という時間だったので、閉店している店が多かったですね。
善光寺も、門前町も、本日の営業は終了致しましたという雰囲気がプンプンと漂う中、慌てて引いたおみくじは、

なんと凶!
わざわざここまで遠征してきて凶を引くんかい!
遠さ以上にアウェイ感半端ないな。
そういえば昔、東京まで遠征して浅草寺で凶を引いたこともあったような。
寺のおみくじとは相性が悪いのか・・・
善光寺を後にして、夕闇が迫ってくる中、長野市街を南へ。
真新しい北陸新幹線をくぐり、国道18号線に入って有名な犀川を越え、川中島へと向かいます。
八幡原は、言わずと知れた川中島の古戦場で、川中島古戦場史跡公園という名の緑地公園になっています。
ここも2度目の訪問ですが、かれこれ22年振りになるかなぁ
当時、信州大の上田キャンパスに通っていた同級生がいまして、その家を拠点に長野を回ったんですが、川中島に行くと言ったら、
「川中島?軽井沢なら解るけど川中島行くやつなんかおらんで」
と言われました。
そりゃまぁそうやろな。
二十歳そこそこで史跡巡りしてる奴なんて珍しいと思うわ。
その頃からちょっと嗜好が変わってましたな(^^;)
思い出話は置くとして、陽がもう落ちてしまったこの時間では、もちろん博物館は閉まっているので、武田信玄と上杉謙信の一騎討ちの像を中心に散策していきます。
まずは、やはり一騎討ちの像から。
実際には、この一騎討ちは無かった可能性が高いと思いますが、第4次の川中島の戦いは数ある戦国時代の合戦の中でも、稀に見る死傷率の高い戦いと言われることもありますので、乱戦また乱戦という状況なら可能性はあったかも知れませんね。
ただ、実際には、合戦の様子は甲陽軍鑑や他の軍記物にあるだけで、一次史料には少なく、本当の所はよく判っていません。
また、この頃の謙信は、直前に上杉家を継承して政虎と名乗っていた時代で、僧形ではないんですよね。
めっちゃ有名な像なんやけど、そこはフィクション。
これも歴史の面白さでしょうか。
この一騎討ちの像の近辺には、本当かどうかは別として、その第4次川中島の合戦に関連する色々な史跡があります。
先ほどの像と同じ伝承のものですが、三太刀七太刀の碑。
碑の横に八幡社の本殿が写っていますが、この八幡社が八幡平の地名の元になっているんですね。
小さい社殿ながらも、その名前は広く使われています。
次に、執念の石。
一騎討ちに気付いて謙信に槍で突き掛けたものの討ち漏らしてしまった原大隅が、悔しさのあまりこの石を槍で突き通したという伝承が残っています。
そして、首塚。
戦死した将兵を弔った塚ですが、これは本物ではないでしょうか。
なんなら、この首塚から派生する形で、他の伝承物が増殖したのかも知れませんね。
付近には、両軍の布陣図もあります。
これを見ると、すごく解り易い。
しかし、この布陣図で謙信自ら現在地とある敵本陣まで切り込むとなると、相当突出するか乱戦を極めるかという状況になりますな。
もはや初期の布陣なんて関係無い勢いで。
実際にはどんな戦いだったのか、史料が発掘されたら面白いのになぁ
最後に、時代が下った江戸時代の松代藩の開明派であった佐久間象山の像をば・・・と思ったら、その像の土台で高校生のカップルが仲良くおしゃべりしてました。
そんな状態で・・・
写真なんか撮れるかい!
まるで盗撮みたいに思われるのも嫌やけど、せっかくやから佐久間象山を撮りたかったですわ(> <)
八幡原の川中島古戦場史跡公園を後にして、ちょっと南に行けばすぐ宿泊予定の長野グランドホテルですが、素泊まりなので、ちょっと戻ってステーキ宮で腹ごしらえ。
ツーリング最後の晩餐ということで、ちょっと贅沢に注文したら、結構高くなりました。
うむ。
ファミレスとは言え、ステーキは侮れない。
お腹も満足したところで、宿へと向かいます。
この日の宿泊プランは、ホテルお任せのプラン。
どんな部屋になるんかと入ってみたら・・・
広いツインの部屋でした(^^)
平日やし、優遇してくれたんやろね。
素泊まりには勿体ないぐらい。
この日は平日ということもあって日本人は少なく、外国人の団体さんが多かったんですが、幸い温泉の方は空いていて、落ち着いて入ることができました。
それほど広くない露天風呂に中華系の家族連れの方が入っていましたが、迷惑にならないように静かに入っておられてたようで、こちらもゆっくりできましたね。
マナーが良い人達で良かった(^^)
つづく
参考:
善光寺
川中島古戦場
地図付きはこちら
2019年7月10日水曜日
韓国のWTOでの批判
韓国への戦略物資3品目の輸出管理厳格化に関するニュースが、ここ1週間メディアを騒がせていますね。
そして今日、WTOの理事会で、韓国が日本を批判しました。
韓国、WTOで対日批判=輸出規制「政治目的の報復」
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019071000186&g=int
基本的にWTOは、2国間の貿易紛争は2国間協議が優先され、WTOとして取り上げるのは、それが終わってからということになります。
ですので、理事会で批判しても実際的な効果は何もないんですが、韓国側としてはWTOへの提訴が視野に入っているという日本へのアピールと、他国に対するアピールもあるんでしょう。
日本に対しても、WTOのルールに則って2国間協議を呼び掛けていますが、日本のスタンスとしては、あくまでWTOでも認められている安全保障上の運用の問題であり、貿易紛争ではないという立場で、実際に、2国間協議の回答として課長級の会合を開いて説明するという対応しか予定しておりません。
これで違反だの何だのと言われたら、通常の申請でやっている台湾やインドなども違反と言っていいことになりますが、そんなのはあり得ないですから。
今でも強硬な姿勢を示していますが、対応できる策がWTOへの提訴ぐらいで、何一つ有効策がありません。
あれだけ様々な問題を起こしておきながら、日本は何もしないと高をくくってたんでしょうか。
政治というのは現実ですから、主義主張はともかく、常に色んな可能性を考えてアタリを付けておくべきなんですが、どうもそういうのはしていなかったようですね。
この辺り、文大統領の書生っぽさが、政権の態度や策にも表れているようです。
また、今回の件で、WTOやGATT、NDAAやECRAといった仕組みに関しての報道が少し増えたのは、個人的には良かったですね。
以前からちょこちょこ調べてはいましたが、多少一般化したことで調べやすくなりました。
さて、これから韓国がどういう対策を打ってくるのか、日本政府がどこを落としどころとして想定しているのか、その辺りを考えつつ、今後をゆっくり見守っていきたいですね。
そして今日、WTOの理事会で、韓国が日本を批判しました。
韓国、WTOで対日批判=輸出規制「政治目的の報復」
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019071000186&g=int
基本的にWTOは、2国間の貿易紛争は2国間協議が優先され、WTOとして取り上げるのは、それが終わってからということになります。
ですので、理事会で批判しても実際的な効果は何もないんですが、韓国側としてはWTOへの提訴が視野に入っているという日本へのアピールと、他国に対するアピールもあるんでしょう。
日本に対しても、WTOのルールに則って2国間協議を呼び掛けていますが、日本のスタンスとしては、あくまでWTOでも認められている安全保障上の運用の問題であり、貿易紛争ではないという立場で、実際に、2国間協議の回答として課長級の会合を開いて説明するという対応しか予定しておりません。
前回の記事で韓国メディアのソースしか無かった違法輸出激増の件について触れましたが、FNNがその文書を入手して報道し、実際にどういう運用であったかが日本国内で大っぴらになりましたから、一般の人にも厳格化の妥当性が認識されつつあって良かったと思います。
まぁ何と言っても、優遇から通常状態にするだけですからね。これで違反だの何だのと言われたら、通常の申請でやっている台湾やインドなども違反と言っていいことになりますが、そんなのはあり得ないですから。
ただ、10日ほど経って、韓国側のヒステリックな反応は収まっていないものの、ちょっと状況は進んだように感じますね。
どういう方向に向かっていくのかは、まだ分りませんが。
それにしても、韓国側の無策ぶりがちょっと目に余ります。今でも強硬な姿勢を示していますが、対応できる策がWTOへの提訴ぐらいで、何一つ有効策がありません。
あれだけ様々な問題を起こしておきながら、日本は何もしないと高をくくってたんでしょうか。
政治というのは現実ですから、主義主張はともかく、常に色んな可能性を考えてアタリを付けておくべきなんですが、どうもそういうのはしていなかったようですね。
この辺り、文大統領の書生っぽさが、政権の態度や策にも表れているようです。
また、今回の件で、WTOやGATT、NDAAやECRAといった仕組みに関しての報道が少し増えたのは、個人的には良かったですね。
以前からちょこちょこ調べてはいましたが、多少一般化したことで調べやすくなりました。
さて、これから韓国がどういう対策を打ってくるのか、日本政府がどこを落としどころとして想定しているのか、その辺りを考えつつ、今後をゆっくり見守っていきたいですね。
2019年7月3日水曜日
G20の後で
先週から今週に掛けて、非常に政治的に慌ただしかったですね。
G20に関連する首脳会談に始まり、G20の本番、そして急遽設定された米朝首脳会談、そして日本から韓国向けの輸出の優遇廃止。
色々ダイナミックに動きました。
個人的には、G20による交通規制で、神戸も交通量が減って移動が快適な週末だったんですけどね(^^;)
しかし、トランプ大統領には驚きました。
事前準備があったか無かったかは、情報が無いのでちょっと分からないですが、ツイッターでの呼び掛けで首脳会談を実現してしまうというのは凄い。
大統領選からツイッターが重要な情報発信ツールではあったんですが、その道具の重要性も極まった感があります。
直接発信できるメリットは、芸能人だけではないんですね。
日本では、影響力のある政治家の中では、トランプ大統領のようにダイナミックに使う人はまだいませんが、今後は出てくる可能性が高そうです。
今現在で言えば、河野太郎外相なんかは最も効果的に使っている印象ですね。
そして、今話題の日韓関係。
たくさんのニュースソースで解説されていますが、韓国側は徴用工裁判の報復だというヒステリックな反応が最初に来ました。
それに対し、日本政府は安全保障上の問題によって運用を厳格化するという文言しか出していません。
そもそも、海自の哨戒機に対してロックオンまでしておいて、輸出の優遇処置や安全保障上信頼できるホワイト国のままにしろというのも筋が通らない話なんですが、徴用工云々という話だけではない雰囲気もありますね。
ちょっとニュースソースが期限切れで削除されてしまっているんですが、5/17の朝鮮日報の記事に、軍事転用できる戦略物資の違法輸出が3年で3倍になっているという記事がありました。
韓国は作為不作為は別として、文大統領就任以降、そういう監視体制が揺らいでいるということが言えそうです。
また、これらは、化学兵器関連が最多ですが、核兵器関連もあります。
そして、今回優遇を廃止された品目にフッ化水素というのがあるんですが、これは先進的な半導体の製造には欠かせない物質ですが、同時にウラン精製に使用される戦略物資なわけなんですね。
つまり、北朝鮮やイラン向けにフッ化水素が不正輸出された疑いによって優遇を廃止された可能性があると。
この辺り、何らかの発表が無い限り、確認しようがないんですが、今後の情報が待たれますな。
G20に関連する首脳会談に始まり、G20の本番、そして急遽設定された米朝首脳会談、そして日本から韓国向けの輸出の優遇廃止。
色々ダイナミックに動きました。
個人的には、G20による交通規制で、神戸も交通量が減って移動が快適な週末だったんですけどね(^^;)
しかし、トランプ大統領には驚きました。
事前準備があったか無かったかは、情報が無いのでちょっと分からないですが、ツイッターでの呼び掛けで首脳会談を実現してしまうというのは凄い。
大統領選からツイッターが重要な情報発信ツールではあったんですが、その道具の重要性も極まった感があります。
直接発信できるメリットは、芸能人だけではないんですね。
日本では、影響力のある政治家の中では、トランプ大統領のようにダイナミックに使う人はまだいませんが、今後は出てくる可能性が高そうです。
今現在で言えば、河野太郎外相なんかは最も効果的に使っている印象ですね。
そして、今話題の日韓関係。
たくさんのニュースソースで解説されていますが、韓国側は徴用工裁判の報復だというヒステリックな反応が最初に来ました。
それに対し、日本政府は安全保障上の問題によって運用を厳格化するという文言しか出していません。
そもそも、海自の哨戒機に対してロックオンまでしておいて、輸出の優遇処置や安全保障上信頼できるホワイト国のままにしろというのも筋が通らない話なんですが、徴用工云々という話だけではない雰囲気もありますね。
ちょっとニュースソースが期限切れで削除されてしまっているんですが、5/17の朝鮮日報の記事に、軍事転用できる戦略物資の違法輸出が3年で3倍になっているという記事がありました。
韓国は作為不作為は別として、文大統領就任以降、そういう監視体制が揺らいでいるということが言えそうです。
また、これらは、化学兵器関連が最多ですが、核兵器関連もあります。
そして、今回優遇を廃止された品目にフッ化水素というのがあるんですが、これは先進的な半導体の製造には欠かせない物質ですが、同時にウラン精製に使用される戦略物資なわけなんですね。
つまり、北朝鮮やイラン向けにフッ化水素が不正輸出された疑いによって優遇を廃止された可能性があると。
この辺り、何らかの発表が無い限り、確認しようがないんですが、今後の情報が待たれますな。
2019年6月28日金曜日
北陸北信ツーリング その10
前回のあらすじ
森寺城は越中三大山城に劣らない見所満載の城ですわ。
予想以上に広大だった森寺城に満足し、次の目的地へ歩を進めていきます。
森寺城は越中三大山城に劣らない見所満載の城ですわ。
予想以上に広大だった森寺城に満足し、次の目的地へ歩を進めていきます。
というわけで、一旦氷見の市街地に戻り、国道160号線を富山市方向へ。
この辺りは車線も多くて交通量もそれほど多くなく、走っていても快適ですな。
この辺りは車線も多くて交通量もそれほど多くなく、走っていても快適ですな。
次の目的地は、越中三大山城のひとつ、守山城。
守山城は、氷見と高岡の市境にある二上山にあり、当時の越中一流の湊であった放生津から5kmほどの所にあります。
守山城や放生津と言えば、守護代の神保氏の根拠地で、平時は放生津や国府があった小矢部川流域を拠点とし、戦時は守山城が詰の役割を果たしていたのでしょう。
守山城の歴史を見てみる、ほぼ一貫して神保氏が没落する際に落城し、神保氏が城主に復帰するとこの城を拠点に勢力を回復させています。
神保氏にとっては象徴のような城ですね。
城へのアクセスは非常に簡単で、万葉ラインという2車線道路が城まで通っており、その道をひたすら上って行くだけです。
快走路・・・というほどではなく、路傍の木々や草がもっとおとなしければ清々しい道やのにという残念感はありましたが、走りやすい道でした。
この万葉ラインを上り切った先に駐車場があり、そこはもう城内です。
城の縄張は、全体としては小文字の「y」のような形をしており、峰筋に沿って築かれた直線状の長辺と、そこから派生する段郭の短辺で構成されていますが、長辺の部分は公園として開発されてしまっているので、古城という趣は薄かったですね。
駐車場からすぐ公園の入口です。
公園には東屋があり、登山を楽しんだと思しき中高年の方が談笑していました。
市街地にも近いし、高さ的に考えても、日帰り登山するにはちょうど良さそうですね。
その東屋の脇には案内板がありました。
公園は、非常に長い削平地となっています。
この辺りは、さすがに越中三大山城らしい大きさと言えるでしょうか。
先端のやや幅が太くなった場所には、でっかい像が。
なんか威圧感が半端ない・・・(^^;)
この付近はなかなか広い区画なので、居住施設があったのかもしれませんね。
先端から眼下の景色を眺めてみました。
まずは、高岡城方向。
うむ。
眺望が開けん。
中央の色の濃い部分が高岡城の緑だと思うんですがね。
ついで小矢部川流域。
こちらは万葉ラインで木々に切れ目があるので、眺望はそこそこですな。
次いで、y字の短辺である段郭を巡って行きます。
段郭は主郭部から見ると、こんな感じで下に繋がっていました。
写真では判りにくいですが、いかにも山城という感じの典型的な段郭で、しかも、それぞれの郭の規模が大きかったですね。
この辺りはさすがと言ったところでしょうか。
それぞれはこんな感じの郭です。
一応は公園として整備されているんですが、今はあまり人も入っていない感じ。
最後に、主郭部の切岸をば。
こういう所を見ると、完全に山城ですね。
いかにも城という感じの場所は少ないですが、探せば見所のある城でした。
守山城は高岡市街の端になりますが、このまま東進しても、そこはつい1年前に走った景色。
となれば、時間短縮でショートカットですな。
すぐ近くの高岡北I.C.から能越道に入り、そのまま、やや遠回りながら北陸道へ入って行きます。
途中、去年ウロウロした松倉城やその支城網の付近にある有磯海S.A.で、1年とは早いもんだと懐かしく思いながら軽くパンを食べ、更に東進。
しかし、時間があれば上越まで行きたいなと思っていたんですが、その野望は時間が許してくれませんでした。
意外と新潟まで遠いよなぁ(> <)
というわけで、糸魚川で高速を降り、国道148号線を南下していきます。
この国道、静岡糸魚川構造線の上を通っているせいもあって、覆道とトンネルが延々と続いていました。
これはこれでこの地域独特の景色よなぁ
あんまり景色は見えんけど、走って良かった(^^)
国道148号線の覆道の合間を縫って対岸に目をやると、鉄路が走っていますが、これは大糸線です。
高校生の頃に、シュプール号でこの線路を走ったはず。
この辺りを通るのは真夜中やし、景色は当然全く記憶に無いけど、感慨深いものがありますな。
そうこうしている内に、道は小谷に入ってきました。
白馬連峰を右手に見ながら、時折その残雪を目で追いつつ、高原状の道路を走るのはとても気持ちが良いですな。
毎年白馬栂池に行ってた頃を思い出します。
あちこちのスキー場に行きましたけど、この白馬に限らず、冬以外にスキー場への道を走ってみると、スキーに向かう時の景色と全く違ってて面白いですわ。
これも自分なりのバイクの楽しみのひとつですな。
いや~、写真も忘れて久しぶりにひたすら走りましたわ(^^)
つづく
守山城や放生津と言えば、守護代の神保氏の根拠地で、平時は放生津や国府があった小矢部川流域を拠点とし、戦時は守山城が詰の役割を果たしていたのでしょう。
守山城の歴史を見てみる、ほぼ一貫して神保氏が没落する際に落城し、神保氏が城主に復帰するとこの城を拠点に勢力を回復させています。
神保氏にとっては象徴のような城ですね。
城へのアクセスは非常に簡単で、万葉ラインという2車線道路が城まで通っており、その道をひたすら上って行くだけです。
快走路・・・というほどではなく、路傍の木々や草がもっとおとなしければ清々しい道やのにという残念感はありましたが、走りやすい道でした。
この万葉ラインを上り切った先に駐車場があり、そこはもう城内です。
城の縄張は、全体としては小文字の「y」のような形をしており、峰筋に沿って築かれた直線状の長辺と、そこから派生する段郭の短辺で構成されていますが、長辺の部分は公園として開発されてしまっているので、古城という趣は薄かったですね。
駐車場からすぐ公園の入口です。
公園には東屋があり、登山を楽しんだと思しき中高年の方が談笑していました。
市街地にも近いし、高さ的に考えても、日帰り登山するにはちょうど良さそうですね。
その東屋の脇には案内板がありました。
公園は、非常に長い削平地となっています。
この辺りは、さすがに越中三大山城らしい大きさと言えるでしょうか。
先端のやや幅が太くなった場所には、でっかい像が。
なんか威圧感が半端ない・・・(^^;)
この付近はなかなか広い区画なので、居住施設があったのかもしれませんね。
先端から眼下の景色を眺めてみました。
まずは、高岡城方向。
うむ。
眺望が開けん。
中央の色の濃い部分が高岡城の緑だと思うんですがね。
ついで小矢部川流域。
こちらは万葉ラインで木々に切れ目があるので、眺望はそこそこですな。
次いで、y字の短辺である段郭を巡って行きます。
段郭は主郭部から見ると、こんな感じで下に繋がっていました。
写真では判りにくいですが、いかにも山城という感じの典型的な段郭で、しかも、それぞれの郭の規模が大きかったですね。
この辺りはさすがと言ったところでしょうか。
それぞれはこんな感じの郭です。
一応は公園として整備されているんですが、今はあまり人も入っていない感じ。
最後に、主郭部の切岸をば。
こういう所を見ると、完全に山城ですね。
いかにも城という感じの場所は少ないですが、探せば見所のある城でした。
守山城は高岡市街の端になりますが、このまま東進しても、そこはつい1年前に走った景色。
となれば、時間短縮でショートカットですな。
すぐ近くの高岡北I.C.から能越道に入り、そのまま、やや遠回りながら北陸道へ入って行きます。
途中、去年ウロウロした松倉城やその支城網の付近にある有磯海S.A.で、1年とは早いもんだと懐かしく思いながら軽くパンを食べ、更に東進。
しかし、時間があれば上越まで行きたいなと思っていたんですが、その野望は時間が許してくれませんでした。
意外と新潟まで遠いよなぁ(> <)
というわけで、糸魚川で高速を降り、国道148号線を南下していきます。
この国道、静岡糸魚川構造線の上を通っているせいもあって、覆道とトンネルが延々と続いていました。
これはこれでこの地域独特の景色よなぁ
あんまり景色は見えんけど、走って良かった(^^)
国道148号線の覆道の合間を縫って対岸に目をやると、鉄路が走っていますが、これは大糸線です。
高校生の頃に、シュプール号でこの線路を走ったはず。
この辺りを通るのは真夜中やし、景色は当然全く記憶に無いけど、感慨深いものがありますな。
そうこうしている内に、道は小谷に入ってきました。
白馬連峰を右手に見ながら、時折その残雪を目で追いつつ、高原状の道路を走るのはとても気持ちが良いですな。
毎年白馬栂池に行ってた頃を思い出します。
あちこちのスキー場に行きましたけど、この白馬に限らず、冬以外にスキー場への道を走ってみると、スキーに向かう時の景色と全く違ってて面白いですわ。
これも自分なりのバイクの楽しみのひとつですな。
いや~、写真も忘れて久しぶりにひたすら走りましたわ(^^)
つづく
参考:
守山城
地図付きはこちら
2019年6月22日土曜日
北陸北信ツーリング その9
前回のあらすじ
阿尾城を知ってから17年目の到達でした。
いや~長かった(^^;)
氷見の市街から見ると、北側の外れ辺りに前回の阿尾城があるんですが、そこから北西へと走ると森寺城があります。
次の目的地はその森寺城。
往時は湯山城と言ったようですね。
温泉でも出てたんでしょうか。
阿尾城から森寺城へ向かうのは簡単で、阿尾城のすぐ近くの阿尾城跡口の交差点から北西へ道を真っすぐ行くだけです。
国道160号線を越えてしばらく進むと、その名も森寺という交差点があり、そこから東側の集落に入って更に農道を1kmちょっと北西へ進むと城に到着するんですが、城から更に北西へ進むと荒山峠で、古くはこの荒山街道が越中と能登を結ぶ主要道のひとつでした。
戦国時代の初期頃である15世紀後半頃の情勢は、能登には能登畠山氏が守護としてデンと構えていましたが、越中はその本家である河内畠山氏の守護国で、実際の支配はその守護代である神保氏や椎名氏が行っていた為、守護代に力が集中し、守護の河内畠山氏も抑え切れなくなっていったようです。
この守護と守護代の対立というのは全国各地が見られましたが、越中に関してはちょっと状況が違いました。
なんてったってお隣に有力な親戚がいるわけです。
これを利用しない手は無い。
そんなわけで、河内畠山氏は隣国能登の能登畠山氏を通して越中の支配強化に乗り出し、これを受けて能登から越中への橋頭保として造られたのが森寺城なんですね。
なので、越中側に在る国境の城ではあるんですが、どちらかと言えば越中方向が正面となるような構造になっています。
そして、こうした経緯から、能登畠山氏は越中の氷見地方とは縁が深くなったようで、氷見の八代荘の国人と思われる八代氏が、弘治の内乱以降に能登畠山氏の中枢に参画したりしていますね。
越中とは言え、この森寺城や氷見は、能登畠山氏の分国に近い様相だったのかも知れません。
さて、その森寺城ですが、なかなか整備されている城でしたね。
車ではちょっとすれ違えないような細い農道をしばらく進んで行くと、左手の山へと入るような感じになり、割と大きな駐車場が用意されています。
案内板もバッチリ!
こういう縄張図があれば、散策には最高ですね(^^)
下は百間馬場の搦手側にあった堀切。
同じく搦手側の土塁と食違い。
そして百間馬場。
ここから先は、いよいよ主郭部分です。
百間馬場の先から二ノ丸の搦手への道が続いていました。
この折れ曲がった重層的な構造は、なんとも言えない良さがありますね(^^)
その途中には石垣も残っていました。
七尾城もそうだったんですが、畠山氏の築城術は割と石垣を多用するようです。
さすがに管領の一族ということで、畿内の技術が取り入れられていたのかも知れませんね。
搦手から二ノ丸に入ると、そこは広大な平地でした。
正面が二ノ丸大手で、右側の低い石垣が本丸です。
二ノ丸には巨大な井戸があり、水ノ手も確保されていました。
奥の本丸の石垣を近くから。
本丸は、石垣と堀で区画された四角い郭ですな。
次は、二ノ丸を出て、大手口から下って行きます。
ここも石垣の痕跡がかなりありました。
当時はなかなか威圧感のある大手だったんでしょうね。
大手道を下って行くと、カンジャ屋敷から連なる郭群があり、道は再び街道へと戻って行きます。
その周辺には、サイダ屋敷、野崎屋敷など、有力家臣の屋敷地を兼ねる郭が幾つもありました。
屋敷地の多さから、越中に威勢を示すべく畠山氏がこの森寺城に出張ってきた時には、その軍制そのままこの城に移ってきたような印象だったのかもしれません。
下は、そんな屋敷地のひとつ、サイダ屋敷。
屋敷地ということもあって、このサイダ屋敷を始め、それぞれがなかなか広い郭でした。
高低差はあまり無い城でしたが、城地が広大で、本気で兵を籠めたら相当な拠点になったでしょうな。
いや~満足満足(^^)
参考:
森寺城
地図付きはこちら
阿尾城を知ってから17年目の到達でした。
いや~長かった(^^;)
氷見の市街から見ると、北側の外れ辺りに前回の阿尾城があるんですが、そこから北西へと走ると森寺城があります。
次の目的地はその森寺城。
往時は湯山城と言ったようですね。
温泉でも出てたんでしょうか。
阿尾城から森寺城へ向かうのは簡単で、阿尾城のすぐ近くの阿尾城跡口の交差点から北西へ道を真っすぐ行くだけです。
国道160号線を越えてしばらく進むと、その名も森寺という交差点があり、そこから東側の集落に入って更に農道を1kmちょっと北西へ進むと城に到着するんですが、城から更に北西へ進むと荒山峠で、古くはこの荒山街道が越中と能登を結ぶ主要道のひとつでした。
戦国時代の初期頃である15世紀後半頃の情勢は、能登には能登畠山氏が守護としてデンと構えていましたが、越中はその本家である河内畠山氏の守護国で、実際の支配はその守護代である神保氏や椎名氏が行っていた為、守護代に力が集中し、守護の河内畠山氏も抑え切れなくなっていったようです。
この守護と守護代の対立というのは全国各地が見られましたが、越中に関してはちょっと状況が違いました。
なんてったってお隣に有力な親戚がいるわけです。
これを利用しない手は無い。
そんなわけで、河内畠山氏は隣国能登の能登畠山氏を通して越中の支配強化に乗り出し、これを受けて能登から越中への橋頭保として造られたのが森寺城なんですね。
なので、越中側に在る国境の城ではあるんですが、どちらかと言えば越中方向が正面となるような構造になっています。
そして、こうした経緯から、能登畠山氏は越中の氷見地方とは縁が深くなったようで、氷見の八代荘の国人と思われる八代氏が、弘治の内乱以降に能登畠山氏の中枢に参画したりしていますね。
越中とは言え、この森寺城や氷見は、能登畠山氏の分国に近い様相だったのかも知れません。
さて、その森寺城ですが、なかなか整備されている城でしたね。
車ではちょっとすれ違えないような細い農道をしばらく進んで行くと、左手の山へと入るような感じになり、割と大きな駐車場が用意されています。
案内板もバッチリ!
こういう縄張図があれば、散策には最高ですね(^^)
駐車場はもう城内の一角で、家臣の屋敷跡か何かだったんでしょう。
すぐ北は、背の高い雑草がびっしり生えてて立ち入れませんが、寺坂屋敷という区画です。
寺坂という家臣の配下の屋敷だったのか、それとも寺坂氏に近しい武将の屋敷というところでしょうか。
ここから、いよいよ山、というか丘陵に入って行くわけですが、登山道は能登側の搦手方向へと一旦回り、昔の街道の道に繋がります。
荒山街道がこの城内を通る道だったのか、それとも西側の麓に街道が通っていて城内は傍道だったのかはよく分かりませんでしたが、城内の道としてはかなり広い部類に入るでしょう。
この道沿いに、牛ヶ窪、百貫馬場という細長い削平地があり、その間にはそれぞれ土塁と堀切が明確に残っていました。下は百間馬場の搦手側にあった堀切。
同じく搦手側の土塁と食違い。
そして百間馬場。
ここから先は、いよいよ主郭部分です。
百間馬場の先から二ノ丸の搦手への道が続いていました。
この折れ曲がった重層的な構造は、なんとも言えない良さがありますね(^^)
その途中には石垣も残っていました。
七尾城もそうだったんですが、畠山氏の築城術は割と石垣を多用するようです。
さすがに管領の一族ということで、畿内の技術が取り入れられていたのかも知れませんね。
搦手から二ノ丸に入ると、そこは広大な平地でした。
正面が二ノ丸大手で、右側の低い石垣が本丸です。
二ノ丸には巨大な井戸があり、水ノ手も確保されていました。
奥の本丸の石垣を近くから。
本丸は、石垣と堀で区画された四角い郭ですな。
次は、二ノ丸を出て、大手口から下って行きます。
ここも石垣の痕跡がかなりありました。
当時はなかなか威圧感のある大手だったんでしょうね。
大手道を下って行くと、カンジャ屋敷から連なる郭群があり、道は再び街道へと戻って行きます。
その周辺には、サイダ屋敷、野崎屋敷など、有力家臣の屋敷地を兼ねる郭が幾つもありました。
屋敷地の多さから、越中に威勢を示すべく畠山氏がこの森寺城に出張ってきた時には、その軍制そのままこの城に移ってきたような印象だったのかもしれません。
下は、そんな屋敷地のひとつ、サイダ屋敷。
屋敷地ということもあって、このサイダ屋敷を始め、それぞれがなかなか広い郭でした。
高低差はあまり無い城でしたが、城地が広大で、本気で兵を籠めたら相当な拠点になったでしょうな。
いや~満足満足(^^)
森寺城
地図付きはこちら
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