先日、神戸新聞に明石市魚住の湊の遺物の年代が確定したというニュースが載ってました。
魚住、そう魚住。
個人的には非常に馴染みの深い場所ですな(笑)
なぜ馴染みが深いのかは置いておくとして、ぶっちゃけ、田舎です。
正確にカテゴライズするなら、郊外。
まぁ魚住という言葉から判るように、かつての中心部は海沿いだったんでしょう。
今はJR魚住駅が中心ですけどね。
そのかつての中心だったと思われる魚住の海沿いというのは、旧山陽道の町並みなんかも残ってて、ぶらっと散歩したりサイクリングしたりするのにかなり良いです。
そこに湊があったなんていうのは、自分も魚住城について調べて初めて知りました。
それぐらい、過去に湊があったという面影がない。
でも古代には確かに魚住泊という湊がありました。
この湊を開いたのは、あの有名な行基。
この人、大層な土木家で、全国各地、池を造るわ湊を造るわ寺を造るわ、探せば恐ろしいほどの伝説が出てくるという奈良時代の土木王。
いや、王と言っても鉄鋼王や石油王というような金持ちじゃないんですけどね(笑)
常にボランティア。
さすが坊主!現代の生臭坊主は見習いやがれ!
・・・という鬱憤はさて置き、行基が開いた摂播五泊というのがありまして、そのひとつが魚住泊なんですな。
東から並べてみると、河尻泊、大和田泊、魚住泊、韓泊、室生泊。
現在の地名に直すと、神崎川河口、兵庫港、魚住、姫路的形、室津です。
並べると、その後の格差が酷い・・・
神崎川河口部は言わば尼崎で、大物なんかも含まれます。
「オオモノ」じゃなく「ダイモツ」。
両細川の乱が終結した大物崩れと言うのが有名ですけど、その頃も大きな港湾都市で、今も尼崎の工業地帯として名残を留めてます。
大和田泊は兵庫津、今の兵庫港で、古代から中世にかけても日本有力な港湾都市でした。今も三菱重工、川崎重工のある船の町です。ただ、造船は昔に比べればちょっと勢いが無いですけど・・・
この2つが古代から現代までの現役組ですな。
次が近世まで栄えてた室津と韓泊。
平清盛の大河ドラマでも出てきてましたが、戦国時代には浦上氏の拠点があり、江戸時代にも繁栄してました。
韓泊も瀬戸内の重要な港で、鎌倉時代には兵庫に劣らず繁栄していたという記録が残ってます。
ただ、この2港は山がせり出して風避けになる天然の良港ではあるけど、規模が小さく、後背の平野が少ないという共通点があります。
近代の陸上交通の発達は平野部が有利となり、大規模輸送を可能とした物流手段の進化は船の優位性を奪いました。
こうして近代化に取り残され、いまは鄙びた町になっています。
正確に言えば、隣接する相生港や姫路港にそれぞれ吸われたんでしょうな。
鉄道と接続できない港は栄えることが出来なかった、と。
とは言っても、室津なんかはその頃の遺産で観光地化できてますけどね。
翻って魚住。
嗚呼魚住。
平安時代までの記録はあるけど、そこからが不明瞭・・・
戦国時代には魚住城があり、赤松さんの分家の小寺さんの、そのまた分家の魚住さんが住んでいました。
秀吉が三木城を攻めた時、魚住城に荷揚げされた兵糧が運ばれた話は有名で、三木城の有力な補給線のひとつでした。
包囲する秀吉軍から三木城の新鮮な明石鯛が見えた、なんて話もあります。
ただ、荷揚げということは、港湾施設はなんとかあったようだけど、物流でどの程度の重要性があったかというと、不明としか言いようが無い。
古代に比べれば確実に寂れていたでしょう。
というわけで、摂播五泊の中で、一番早く寂れてしまったのは魚住なのでした。
個人的には好きな所やけど、湊としては需要が無かったな・・・
ちなみに、魚住さんのその後はというと、補給線潰しで数の暴力に曝され、あっけなく落城して滅んでしまいます。
しかししかし、家老だった卜部さんがほとぼりが冷めた江戸時代に魚住へ戻ってきて、酒造業を始めます。
これが今の江井ヶ島酒造の原点。
没落したと言っても酒造業なんか資本が要るから、ある程度の利権は手放さんで済んだんやろな~
この世渡り上手!
話を戻すと、魚住泊というのは地質的なものなのか、壊れ易かったらしく、幾度か修復の記録が残っています。
今回、年代が測定された木材は、港湾の堤防の基礎を構成した部材と見られ、人による加工が見られるもの。
この部材の年代が、10世紀初頭に伐られた木材ということが判明しました。
記録上では、延喜14年(914)に魚住泊の修復が論じられており、この時の修復材とするなら年代が合致します。
これが出土したのは赤根川の河口で、これにより魚住泊の場所もほぼ特定できたとのことです。
なるほど、魚住泊の直系子孫にあたるのは江井ヶ島港か。
しかし、普通の漁港で、
やっぱり面影なし!
2013年11月11日月曜日
2013年11月5日火曜日
江戸時代と米 その2
長くなってしまった前回の続きで徒然に。
江戸時代となり、合戦をすることが無くなると、各藩は余ったリソースを開拓開墾に向けました。
こうして江戸時代前期から中期にかけて猛烈な新田開発が進むんですな。
各藩は、合戦に備えた動員体制をスリム化せずに行政組織へと転じたわけですから、仕事を創るという公共事業的な側面もあったと思います。
また、米本位制の武家社会では、新田開拓は事業拡大ですから、米を払う藩政府側としては収入が増えてありがたいわけです。
大名家の石高は表高(オモテダカ)と呼ばれていました。
これは江戸時代初期の石高です。
現在で言うところの地価の評価額が近いかな。
大名の実際の収入はと言うと、実高(ジツダカ)や内高(ウチダカ)と呼ばれていました。
地価で言えば実勢価格というやつです。
各藩は新田開発をしていましたから、大抵は表高より実高のほうが多かったのですが、山間部の小藩などでは、実高のほうが低かったという場合もありました。
大藩では新田開発の規模も大きく、江戸時代末期には表高と実高が2倍以上も違う藩すらありました。
幕末の長州藩なんかはその典型で、それが志士の活動の経済的バックボーンになったといわれています。
それはさておき、時は大増産時代。
「米穀王に、俺はなる!」
と言った藩主がいたかどうかは知りませんが、各藩は増産で得た米をせっせと大坂の米市場に送って金銀を得ていました。
前回で、武家社会は米本位制と言いましたが、商人の世界は違ってました。
商人の世界では、関西は銀中心、関東は金が中心の金銀本位制でした。
当然、米を給料としてもらう武士は、生活していく上で金銀を基にした貨幣に交換しなくてはなりません。
時は大増産時代。
「米k・・・(略)」
大坂の米相場に大量の米が送り込まれる時代になると、人口も増えたとは言え、供給が多いわけですから値崩れが起こります。
すると武士が手にする実質的な賃金は少なくなってしまいます。
これが江戸時代の貧乏武士形成の一端でした。
根本的には、市場経済や貨幣経済の発達で、一次産品である米本位制より金銀本位制が有利になったいったというのもあるんですがね。
江戸時代というのは、武士という支配者層の比率が高い時代でした。
そして、その生活はというと、被支配者層とあまり変わらない生活で、零細武家では内職や畑仕事というのが当たり前。
お金で威張れないから、名誉と誇りを重んじる。まさに、「武士は喰わねど高楊枝」。
江戸時代に完成した武士道という価値観には、こんな側面もあるわけです。
ヨーロッパの騎士道は、ナイトという領主層、言わば富裕者に課せられる義務のという側面があり、その名残がある欧米では、今でも富める者は寄付をして当たり前というような習慣があります。
金持ちなんだからそれなりの規律と社会貢献が求められる、と。
しかし、武士道では富裕でもない者にも規律や誇りが求められました。
そして、失敗や粗相をすけば切腹など、高潔な命をもって贖う。
こういう支配体制っていうのは、世界的に見てもかなり珍しいんじゃないんでしょうかね。
実際の経済的見返りが少ないのに、責任はとんでもなく重大なのです。
中には、やってらんねぇと武士を廃業する人も結構いたんですがね(笑)
経済体制を見ても、江戸時代は、米本位制と金銀本位制の2本立て、場合によっちゃ関東と関西での金本位制と銀本位制の並立を入れて3本立と考えることも可能で、江戸時代というのは色々面白い時代ですな~
江戸時代となり、合戦をすることが無くなると、各藩は余ったリソースを開拓開墾に向けました。
こうして江戸時代前期から中期にかけて猛烈な新田開発が進むんですな。
各藩は、合戦に備えた動員体制をスリム化せずに行政組織へと転じたわけですから、仕事を創るという公共事業的な側面もあったと思います。
また、米本位制の武家社会では、新田開拓は事業拡大ですから、米を払う藩政府側としては収入が増えてありがたいわけです。
大名家の石高は表高(オモテダカ)と呼ばれていました。
これは江戸時代初期の石高です。
現在で言うところの地価の評価額が近いかな。
大名の実際の収入はと言うと、実高(ジツダカ)や内高(ウチダカ)と呼ばれていました。
地価で言えば実勢価格というやつです。
各藩は新田開発をしていましたから、大抵は表高より実高のほうが多かったのですが、山間部の小藩などでは、実高のほうが低かったという場合もありました。
大藩では新田開発の規模も大きく、江戸時代末期には表高と実高が2倍以上も違う藩すらありました。
幕末の長州藩なんかはその典型で、それが志士の活動の経済的バックボーンになったといわれています。
それはさておき、時は大増産時代。
「米穀王に、俺はなる!」
と言った藩主がいたかどうかは知りませんが、各藩は増産で得た米をせっせと大坂の米市場に送って金銀を得ていました。
前回で、武家社会は米本位制と言いましたが、商人の世界は違ってました。
商人の世界では、関西は銀中心、関東は金が中心の金銀本位制でした。
当然、米を給料としてもらう武士は、生活していく上で金銀を基にした貨幣に交換しなくてはなりません。
時は大増産時代。
「米k・・・(略)」
大坂の米相場に大量の米が送り込まれる時代になると、人口も増えたとは言え、供給が多いわけですから値崩れが起こります。
すると武士が手にする実質的な賃金は少なくなってしまいます。
これが江戸時代の貧乏武士形成の一端でした。
根本的には、市場経済や貨幣経済の発達で、一次産品である米本位制より金銀本位制が有利になったいったというのもあるんですがね。
江戸時代というのは、武士という支配者層の比率が高い時代でした。
そして、その生活はというと、被支配者層とあまり変わらない生活で、零細武家では内職や畑仕事というのが当たり前。
お金で威張れないから、名誉と誇りを重んじる。まさに、「武士は喰わねど高楊枝」。
江戸時代に完成した武士道という価値観には、こんな側面もあるわけです。
ヨーロッパの騎士道は、ナイトという領主層、言わば富裕者に課せられる義務のという側面があり、その名残がある欧米では、今でも富める者は寄付をして当たり前というような習慣があります。
金持ちなんだからそれなりの規律と社会貢献が求められる、と。
しかし、武士道では富裕でもない者にも規律や誇りが求められました。
そして、失敗や粗相をすけば切腹など、高潔な命をもって贖う。
こういう支配体制っていうのは、世界的に見てもかなり珍しいんじゃないんでしょうかね。
実際の経済的見返りが少ないのに、責任はとんでもなく重大なのです。
中には、やってらんねぇと武士を廃業する人も結構いたんですがね(笑)
経済体制を見ても、江戸時代は、米本位制と金銀本位制の2本立て、場合によっちゃ関東と関西での金本位制と銀本位制の並立を入れて3本立と考えることも可能で、江戸時代というのは色々面白い時代ですな~
2013年10月31日木曜日
江戸時代と米 その1
今回は江戸時代の米について、少し思い付いたことを徒然に。
江戸時代の武士というのは、給料が米でした。
大名の家格も米。
米以外では、国持ち大名とか血筋の良い高家なんていう家格もありましたが、加賀100万石と言われたように基本は米。
まだ歴史に無知だった昔は、何万石というのは面積だと思ってたっけ。
小学生か中学生ぐらいの頃は。
しかし、石高というのは収穫高で、要は経済力の指標ですな。
俺んちは年間これだけの米が入ってくるんだぜ!という数字。
今で言う、年商何億円とか何十億円というのが感覚的に近いかもしれません。
なので、「三日月のまるくなるまで南部領」といわれた南部藩が10万石だったりします。
1800万石とも2000万石とも言われる全国の総石高の中で、岩手県程度の大きさがあったのにたった10万石。
さらに北海道松前の松前藩は無高!
石高無しです。
無高で1万石格とか3万石格として大名待遇でした。
北の地は寒冷地で、米の品種改良が進んでいたとは言え、石高ではやっぱり厳しい(^^;)
稲ってのは、もともと中国江南からベトナムにかけての暑い地方が原産やからねぇ
このように江戸時代の武士社会は米が中心、いわば米本位制だったわけです。
そんなわけで江戸時代初期の石高が、その後の身分社会の基準でした。
そしてこれは世襲されるわけです。
各藩はいわば会社で、社長も専務も常務も平社員もみな世襲。
そしてその社員の格が何石とか何俵とかの禄でした。
日本全体で見れば、いわば各藩は江戸幕府HDのグループ会社という感じで、江戸幕府はある程度の指針を示しますが、各会社の経営は各会社の社長や取締役会に完全に任されていました。
あまりに借金が膨らんだ場合や、取締役会のゴタゴタ、一揆を起こされるなど経営がうまく行ってない会社は、親会社の命令で取り潰されたりもしましたがね。
そして、有能、もしくは政治道楽が好きな子会社の社長は、藩主という立場を持ちながら、江戸幕府HDの取締役会に大老や老中などという立場で参画していました。
この辺りは珍しく世襲でない実力部分ですかね。
世襲ばっかりじゃ低位安定はしますが、やっぱり全体の指針を決める根幹部分は実力主義でないと回らないようです。
ぶっちゃけて言えば、大組織の幹部が自分の持つ組の組長でもあるという、ヤクザの組織がもっと近いかも・・・
まぁそんなこんなで石高というのが大事な身分社会だったわけです。
と言っても身分社会が厳密だったかと言えばそうではなく、農家の次男三男が丁稚奉公で商家に入り、商人になるという例もあったし、職人になる例もありました。
幕臣の勝海舟の先祖はもともと農家で、御家人の株を買って幕臣になったという家です。
意外と緩やかなんですな(笑)
なんか米の話が社会制度の話になってしまった(笑)
では改めて米の話は次回に。
江戸時代の武士というのは、給料が米でした。
大名の家格も米。
米以外では、国持ち大名とか血筋の良い高家なんていう家格もありましたが、加賀100万石と言われたように基本は米。
まだ歴史に無知だった昔は、何万石というのは面積だと思ってたっけ。
小学生か中学生ぐらいの頃は。
しかし、石高というのは収穫高で、要は経済力の指標ですな。
俺んちは年間これだけの米が入ってくるんだぜ!という数字。
今で言う、年商何億円とか何十億円というのが感覚的に近いかもしれません。
なので、「三日月のまるくなるまで南部領」といわれた南部藩が10万石だったりします。
1800万石とも2000万石とも言われる全国の総石高の中で、岩手県程度の大きさがあったのにたった10万石。
さらに北海道松前の松前藩は無高!
石高無しです。
無高で1万石格とか3万石格として大名待遇でした。
北の地は寒冷地で、米の品種改良が進んでいたとは言え、石高ではやっぱり厳しい(^^;)
稲ってのは、もともと中国江南からベトナムにかけての暑い地方が原産やからねぇ
このように江戸時代の武士社会は米が中心、いわば米本位制だったわけです。
そんなわけで江戸時代初期の石高が、その後の身分社会の基準でした。
そしてこれは世襲されるわけです。
各藩はいわば会社で、社長も専務も常務も平社員もみな世襲。
そしてその社員の格が何石とか何俵とかの禄でした。
日本全体で見れば、いわば各藩は江戸幕府HDのグループ会社という感じで、江戸幕府はある程度の指針を示しますが、各会社の経営は各会社の社長や取締役会に完全に任されていました。
あまりに借金が膨らんだ場合や、取締役会のゴタゴタ、一揆を起こされるなど経営がうまく行ってない会社は、親会社の命令で取り潰されたりもしましたがね。
そして、有能、もしくは政治道楽が好きな子会社の社長は、藩主という立場を持ちながら、江戸幕府HDの取締役会に大老や老中などという立場で参画していました。
この辺りは珍しく世襲でない実力部分ですかね。
世襲ばっかりじゃ低位安定はしますが、やっぱり全体の指針を決める根幹部分は実力主義でないと回らないようです。
ぶっちゃけて言えば、大組織の幹部が自分の持つ組の組長でもあるという、ヤクザの組織がもっと近いかも・・・
まぁそんなこんなで石高というのが大事な身分社会だったわけです。
と言っても身分社会が厳密だったかと言えばそうではなく、農家の次男三男が丁稚奉公で商家に入り、商人になるという例もあったし、職人になる例もありました。
幕臣の勝海舟の先祖はもともと農家で、御家人の株を買って幕臣になったという家です。
意外と緩やかなんですな(笑)
なんか米の話が社会制度の話になってしまった(笑)
では改めて米の話は次回に。
2013年10月24日木曜日
付き添い
友人が原付二種のバイクを買うらしい。
そういえば数年前に二輪の免許を取ってたが、バイクを買ったという話は聞かなかった。
で、色々相談された。
そして、今週日曜には付き添いでバイク屋さんへ。
お決まりのコースやな(^^;)
これがかわいいお姉さんならテンションも上がるんやけど(笑)
しかし、原付二種って、車の保険のファミリー特約で任意保険はカバーできるし、30km/h制限無いから流れに乗ってるのにお巡りさんのお世話になるなんてこともないし、税金も安いし、取り回しも楽。
長距離さえ走らなければ、いいとこ取りなバイクですな。
候補は、DIO、シグナス、リードの3車種らしい。
PCXは?と聞いたら、車体が大きいのと値段が高いからダメとのこと。
タイヤがデカいし、一番安定感があると思うんやけどな~
まぁ何にしろ、どれにするか迷ってる時期が一番楽しいかも(笑)
そういえば数年前に二輪の免許を取ってたが、バイクを買ったという話は聞かなかった。
で、色々相談された。
そして、今週日曜には付き添いでバイク屋さんへ。
お決まりのコースやな(^^;)
これがかわいいお姉さんならテンションも上がるんやけど(笑)
しかし、原付二種って、車の保険のファミリー特約で任意保険はカバーできるし、30km/h制限無いから流れに乗ってるのにお巡りさんのお世話になるなんてこともないし、税金も安いし、取り回しも楽。
長距離さえ走らなければ、いいとこ取りなバイクですな。
候補は、DIO、シグナス、リードの3車種らしい。
PCXは?と聞いたら、車体が大きいのと値段が高いからダメとのこと。
タイヤがデカいし、一番安定感があると思うんやけどな~
まぁ何にしろ、どれにするか迷ってる時期が一番楽しいかも(笑)
2013年10月17日木曜日
歴史的誤変換
大仰な題名ですが、何のことは無い、単なる誤変換のお話です。
歴史に関する文章をパソコンで書いていると、学習機能が勝手にバンバン歴史的な語句に誤変換しよる。
この一文でも、「文章」の第一候補が「文正」と出てきたり。
ちなみに文正とは、応仁の乱が起こった応仁年間の前の元号。
そのほかでは、
呪文の「詠唱」が「永正」に!
永正って細川政元が暗殺されて永正の錯乱が起きたり、関東で上杉同士の戦いである永正の乱が起きたりと、戦国史では熱い時代。考えると両方とも管領の家柄。永正の錯乱は両細川の乱とも呼ばれるから、関東も両上杉の乱とかにしてしまえば解り易いのに(笑)
「高福祉」が「降伏し」に!
割とメジャーな誤変換。お城の紹介をしているサイトでも、時々「降伏し」が「高福祉」に誤記されてたりする。これは逆バージョンやけど。
「灯台」が「当代」に!
ツーリングで岬を回ると直後にバンバン出てくる(笑)
「交渉」が「康正」に!
康正は応仁の乱の10年ほど前の元号。ぼちぼち越前辺りが怪しくなって朝倉孝景が台頭してくる頃ですな。ちなみに、行賞は論功行賞で変換するから出てこないみたい。
「回線」が「会戦」に!
カイセンと読む熟語は多いけど、第一候補に会戦が出てくるのは軍事マニアか歴史マニアぐらい?
「口頭」が「皇統」に!
戦前は皇統っていっぱい使われてたんやろな~
「一気」が「一揆」に!
最近、イッキというファミコンのゲームのキャラがイケメンになってたのを見た(笑)
「元気」が「元亀」に!
戦国時代を象徴する元亀天正の元亀。年号としては4年までで短いのは意外。
「工事」が「弘治」に!
これも戦国時代の元号。元亀と同じく短い。織豊系はこの時代に種まきしてる話が多い。小説で言う伏線が張られた時代。
まだまだまだまだあるけど、取りあえずこんな感じで学習機能が染められてます(笑)
と、書く間にも「感じ」が「寛治」に!
歴史に関する文章をパソコンで書いていると、学習機能が勝手にバンバン歴史的な語句に誤変換しよる。
この一文でも、「文章」の第一候補が「文正」と出てきたり。
ちなみに文正とは、応仁の乱が起こった応仁年間の前の元号。
そのほかでは、
呪文の「詠唱」が「永正」に!
永正って細川政元が暗殺されて永正の錯乱が起きたり、関東で上杉同士の戦いである永正の乱が起きたりと、戦国史では熱い時代。考えると両方とも管領の家柄。永正の錯乱は両細川の乱とも呼ばれるから、関東も両上杉の乱とかにしてしまえば解り易いのに(笑)
「高福祉」が「降伏し」に!
割とメジャーな誤変換。お城の紹介をしているサイトでも、時々「降伏し」が「高福祉」に誤記されてたりする。これは逆バージョンやけど。
「灯台」が「当代」に!
ツーリングで岬を回ると直後にバンバン出てくる(笑)
「交渉」が「康正」に!
康正は応仁の乱の10年ほど前の元号。ぼちぼち越前辺りが怪しくなって朝倉孝景が台頭してくる頃ですな。ちなみに、行賞は論功行賞で変換するから出てこないみたい。
「回線」が「会戦」に!
カイセンと読む熟語は多いけど、第一候補に会戦が出てくるのは軍事マニアか歴史マニアぐらい?
「口頭」が「皇統」に!
戦前は皇統っていっぱい使われてたんやろな~
「一気」が「一揆」に!
最近、イッキというファミコンのゲームのキャラがイケメンになってたのを見た(笑)
「元気」が「元亀」に!
戦国時代を象徴する元亀天正の元亀。年号としては4年までで短いのは意外。
「工事」が「弘治」に!
これも戦国時代の元号。元亀と同じく短い。織豊系はこの時代に種まきしてる話が多い。小説で言う伏線が張られた時代。
まだまだまだまだあるけど、取りあえずこんな感じで学習機能が染められてます(笑)
と、書く間にも「感じ」が「寛治」に!
2013年10月11日金曜日
箱にゴム足
春に完全体となったGIVI箱。
・・・は違う完全体か。
GIVI箱は、
http://oshiro-rider.blogspot.jp/2013/06/givi.html
が完全体の姿。
しかしながら、ちょっと気になるところがありまして。
箱を立てて置くと、下側の蝶番の部分が一番張り出してて、地面に当たります。
ん~
蝶番にはちょっと余分な負荷は掛けたくないな~
この蝶番からピンが脱落してパカーンと開きかけた、なんて同型箱のブログの記事を読むとなおさら。
まぁ外して立てる事は余り無いんですが、宿の駐車場がアスファルトだと、立てかけたままうっかり引きずってゴリゴリすり下ろす、なんてことも考えられるわけで。
そこでひと工夫。
箱に付いていた備品にこんなのがありました。
これはGIVI純正のトップ装着用のステーにはめるゴムのクッションです。
最初は用途が分からず、デイトナにわざわざ電話して聞きました(^^;)
これを、差し込む部分とクッション本体にカッターで切り分けます。
処理が甘いのは素人ならでは(笑)
それを箱の下に貼って出来上がり。
これで辛うじて蝶番は地面に付かなくなった(^^)
まぁデコボコが大きいと相変わらず付くんですがね・・・
トップケース使用時もゴム足はライダー側に来るので外観も損なわず。
安心して地面に置けるぜ!
・・・は違う完全体か。
GIVI箱は、
http://oshiro-rider.blogspot.jp/2013/06/givi.html
が完全体の姿。
しかしながら、ちょっと気になるところがありまして。
箱を立てて置くと、下側の蝶番の部分が一番張り出してて、地面に当たります。
ん~
蝶番にはちょっと余分な負荷は掛けたくないな~
この蝶番からピンが脱落してパカーンと開きかけた、なんて同型箱のブログの記事を読むとなおさら。
まぁ外して立てる事は余り無いんですが、宿の駐車場がアスファルトだと、立てかけたままうっかり引きずってゴリゴリすり下ろす、なんてことも考えられるわけで。
そこでひと工夫。
箱に付いていた備品にこんなのがありました。
これはGIVI純正のトップ装着用のステーにはめるゴムのクッションです。
最初は用途が分からず、デイトナにわざわざ電話して聞きました(^^;)
これを、差し込む部分とクッション本体にカッターで切り分けます。
処理が甘いのは素人ならでは(笑)
それを箱の下に貼って出来上がり。
これで辛うじて蝶番は地面に付かなくなった(^^)
まぁデコボコが大きいと相変わらず付くんですがね・・・
トップケース使用時もゴム足はライダー側に来るので外観も損なわず。
安心して地面に置けるぜ!
2013年10月5日土曜日
ちょいと国盗り
先週、国盗り合戦という位置ゲーの夏の陣というキャンペーンの為に、ちょいと国盗りしてきました。
一応、候補にあったのは、
・ 伊丹城-池田城-亀山城-福知山城-黒井城
・ 姫路城-竹田城-福知山城-黒井城
の2通り。
でも、伊丹から篠山へ今年の春に慣らしで行ったし、数年前には尼崎城から伊丹城、池田城、亀山城ってまんまのルートを早朝突撃してるし、結局は姫路ルートへ。
姫路までバイパスで100円、そこから播但自動車道で北へ。
生野峠って楽しいのか行ってみるかという感じで神崎北I.C.で下りると、なんと出口はETC未対応・・・
料金所で止まってエンジン切ってシートのけてカード出して料金払ってカード仕舞ってシート戻してエンジン掛けて
って面倒臭いわ!
こんな小さなI.C.で誰も来ないだろうと思ってたら後ろから来た車が並ぶし、あせりますわ(汗)
しかも、こんな要らぬ苦労をして下りたというのに、生野峠は割とアップダウンがあるだけの普通の道だったり・・・
もっとグネグネ曲がっといてくれ~
気を取り直して竹田城へ、と思ったら、朝来手前の国道312号線では、多重の玉突き事故で一部通行止め。
うわ~、結構酷い事故やなと思いながら誘導されるがままに進むと、農道の交差点でトレーラーと大型トラックが睨み合い・・・
幹線国道から広くもない農道に誘導したらこうなりますわな(^^;)
そんなこんなで竹田城到着は8時半。
雲海目当ての人と、観光客の間隙を縫う為に8時過ぎを目標にしてたから、ほぼ予定通りなんですが、なんとこの時点で駐車場は30分待ち!
並ぶ事無くUターンして引き上げました・・・
20年近く前に初めて来た時には自分ともう一組ぐらいしかいないような山城やったのに、こんなことになるとは。
8年ぐらい前はガラガラで、3年ぐらい前はまだ駐車場は一杯でも待つことは無かったのに。
なんかマチュピチュ的なポスターも時々見かけるし、当分はこんな状態ですかね。
良さを知ってもらうのは嬉しいけど、のんびり過ごせなくなるのは複雑やなぁ
後は国道312号線から9号線へと行くだけで、お城には直接行かず、淡々と走り、近付いたら淡々と国盗り。
そして福知山城が取れたら国道429号線へ。
この道の青垣へ抜ける峠部分は酷道状態ですが、前のバイクの時はかなり嫌だったのに、このバイクになってから、こんな道がなんか楽しい(^^)
視界の良さとサスが長くて安定してるってのは偉大ですわ。
しかし、早朝に出て帰るまで6時間。
ほぼ乗り続けたらめっちゃケツが痛い(笑)
視界の良さがこんな所に影響を与えるなんて・・・
今回の国盗り、ガラケーの皆さんのお役に立って欲しいですな。
ツレも国盗りをやってて、ガラゲー位置ゲーもう無理ゲーなんて韻を踏んでましたが、スマホとは言え旧式3Gの自分も大して変わりない。
現地攻略とあいのりにもっと差をつけていいから、人数制限は緩和してほしいですな。
人数制限方式から、宣言から5分だけ無制限であいのりできるみたいな時間制限方式にするとか。
マイナーな場所のあいのり失敗をずっと続けてると、さすがに飽きがきますわ・・・
参考:
竹田城
上記地図付きはこちら
一応、候補にあったのは、
・ 伊丹城-池田城-亀山城-福知山城-黒井城
・ 姫路城-竹田城-福知山城-黒井城
の2通り。
でも、伊丹から篠山へ今年の春に慣らしで行ったし、数年前には尼崎城から伊丹城、池田城、亀山城ってまんまのルートを早朝突撃してるし、結局は姫路ルートへ。
姫路までバイパスで100円、そこから播但自動車道で北へ。
生野峠って楽しいのか行ってみるかという感じで神崎北I.C.で下りると、なんと出口はETC未対応・・・
料金所で止まってエンジン切ってシートのけてカード出して料金払ってカード仕舞ってシート戻してエンジン掛けて
って面倒臭いわ!
こんな小さなI.C.で誰も来ないだろうと思ってたら後ろから来た車が並ぶし、あせりますわ(汗)
しかも、こんな要らぬ苦労をして下りたというのに、生野峠は割とアップダウンがあるだけの普通の道だったり・・・
もっとグネグネ曲がっといてくれ~
気を取り直して竹田城へ、と思ったら、朝来手前の国道312号線では、多重の玉突き事故で一部通行止め。
うわ~、結構酷い事故やなと思いながら誘導されるがままに進むと、農道の交差点でトレーラーと大型トラックが睨み合い・・・
幹線国道から広くもない農道に誘導したらこうなりますわな(^^;)
そんなこんなで竹田城到着は8時半。
雲海目当ての人と、観光客の間隙を縫う為に8時過ぎを目標にしてたから、ほぼ予定通りなんですが、なんとこの時点で駐車場は30分待ち!
並ぶ事無くUターンして引き上げました・・・
20年近く前に初めて来た時には自分ともう一組ぐらいしかいないような山城やったのに、こんなことになるとは。
8年ぐらい前はガラガラで、3年ぐらい前はまだ駐車場は一杯でも待つことは無かったのに。
なんかマチュピチュ的なポスターも時々見かけるし、当分はこんな状態ですかね。
良さを知ってもらうのは嬉しいけど、のんびり過ごせなくなるのは複雑やなぁ
後は国道312号線から9号線へと行くだけで、お城には直接行かず、淡々と走り、近付いたら淡々と国盗り。
そして福知山城が取れたら国道429号線へ。
この道の青垣へ抜ける峠部分は酷道状態ですが、前のバイクの時はかなり嫌だったのに、このバイクになってから、こんな道がなんか楽しい(^^)
視界の良さとサスが長くて安定してるってのは偉大ですわ。
しかし、早朝に出て帰るまで6時間。
ほぼ乗り続けたらめっちゃケツが痛い(笑)
視界の良さがこんな所に影響を与えるなんて・・・
今回の国盗り、ガラケーの皆さんのお役に立って欲しいですな。
ツレも国盗りをやってて、ガラゲー位置ゲーもう無理ゲーなんて韻を踏んでましたが、スマホとは言え旧式3Gの自分も大して変わりない。
現地攻略とあいのりにもっと差をつけていいから、人数制限は緩和してほしいですな。
人数制限方式から、宣言から5分だけ無制限であいのりできるみたいな時間制限方式にするとか。
マイナーな場所のあいのり失敗をずっと続けてると、さすがに飽きがきますわ・・・
参考:
竹田城
上記地図付きはこちら
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