ついに「麒麟がくる」が完結しましたね。
降板騒ぎにコロナでの撮影中断と色々ありましたが、無事終了して何よりでした。
今作の最終回となった本能寺の変の要因には諸説があり、どのシナリオに沿って進むのかと興味を持って見ていましたが、最終的には巷間に伝わるシナリオのどれでもなく、光秀と信長の、主従でも友達でもない奇妙な距離感が、その要因として描かれましたね。
国盗り物語では、斎藤道三の弟子としてふたりが描かれ、その教えの咀嚼の仕方の違いがやがて本能寺の変での破滅的な結末に結びつきましたが、今作では、光秀には信長の道しるべ的な役割があり、道しるべを超えて暴走し始める信長を、光秀は麒麟と見做さなくなったが故の叛乱であるという結末でした。
ただ、光秀は信長を憎んだのではなく、信長も光秀がそう決断したのなら仕方ないと即座に諦観した。
だからこその「是非もなし」だったわけですね。
史実は、もっともっとドロドロとした権力やしがらみという現実に塗れていたはずですが、この描き方は、ドラマとしては非常に面白く、そして惹きつけられる光秀の葛藤でした。
本能寺の変の後を描かないのは賛否あるだろうとは思いますが、本能寺の変がこのような描き方である以上、そこから先、光秀自身が麒麟に成れるわけでもなく、信長に代わる新たな麒麟たる人物を担ぐこともできなかった史実というのは、苦悩と焦燥として描くことは可能ですが、蛇足ではありますな。
麒麟の可能性を持った人物として信長を補佐したものの、人生の秋でその夢は破れ、自ら積み上げたものを壊した。
それだけで十分悲劇なんですから。
ただ、一方で、光秀生存説を語らせ、光秀らしき人物が馬で疾走する場面でドラマは終わります。
個人的には、後ろ姿だけで本人かどうか分からないような、もっとぼかした表現でもよかったんではないかとも思いますが、これは、視聴者に「麒麟がくる」第二幕を想像できる余地を残したと言えるでしょう。
変直前の菊丸との会話で示唆されたように、光秀が生存していたならば、特別な関係性のある家康を補佐したのかもしれませんね。
南光坊天海として。
今作の家康であれば、光秀が頼って来れば間違いなく重用したでしょう。
光秀天海説が好きな自分としては、そういう想像をしてしまいます。
一方で、あれはただの空似で別人だと思う人もいるでしょうし、岐阜の山村に隠れ住んだという生存説に結びつける人もいるでしょう。
フィクションとノンフィクションの間に位置する歴史ドラマとしては大胆なラストですが、様々な説がある武将だからこそ、それぞれの思い入れで解釈できる余地を残してくれたのかもしれませんね。
最後にひとつだけ。
善助が官兵衛に出世しとるやん!
かつて大河で栗山善助を演じた濱田岳が、黒田官兵衛としてチョイ役で出演していましたね。
里見浩太朗が、助さんから水戸黄門に出世したのと同じ出世の仕方(笑)
思わずホンマか?と調べてしまいました^^;
ノーサイドゲームでも敵チームの一員のチョイ役で出てましたし、そういうちょっとした遊びが好きなんやろな~
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