2018年5月15日火曜日

飛騨富山ツーリング その9

前回のあらすじ
 
古川国府盆地は大きな平坦地。
長閑な長閑な盆地でしたな。
 
山田川沿いの袖川の集落には、県道75号線と国道41号線の交差点があります。
ここで、旧越中東街道が国道41号線のルートになり、その道は神岡町、つまり高原郷へと続いていくわけですな。
その途中、寺林という集落があります。
ここには、政元城と同じく、江馬氏城館跡として国指定の史跡に登録されている1つの館と6つの城の内のひとつ、寺林城がありました。
堀之内から寺林にかけては、勾配を持った地形が続くんですが、高原郷へと出て行く街道の坂を監視するように、楔のように打ち込まれていたのが寺林城というわけですね。
寺林城というからには寺林の集落からだろうと、国道41号線から寺林地区へ右折し、緩やかな坂が続く田園を抜けていくと、突き当りの三叉路に着きました。
しかし、この辺りに何も城跡を示す表示がない。
右に曲がってみても、左に曲がってみても、表示は見つけられませんでした。
なかなか手強い・・・
しかし、今日は富山まで出なくてはいけません。
時間を考えると、じっくり探している時間はありませんでした。
止むを得ぬが、残念!
 
国道に戻って寺林から結構な坂を下って行くと、いよいよ神岡の市街に到着です。
国道から斜めに右折し、昭和的な雰囲気が色濃い今町通りから西里通りを抜けると、西里橋で神岡の中心を流れる高原川を渡り、神岡の中央公民館が見えてきました。
周辺は、坂ばかりのような町といった感じです。
下呂温泉の駐車場付近もこんな感じでしたね。
そういえば、長崎の亀山社中の近くもこんな感じでした。
坂のある風景ですな。
ここでトイレ休憩をし、地図を確認。
神岡城こと高原郷土館は近いぞ。
中央公民館からは、公民館の東側の、車じゃすれ違えないほどの細い道を通って神岡中学校方向へ進んで行ったんですが、中学校の西側は階段になっていたので、中学校の隣の神岡城へは行けませんでした。
なので、中学校の外周をぐるっと廻って神岡城へ到着。
神岡城は、中学校のお隣さんです。
いざ、神岡城へ・・・と行く前に、隣の鉱山資料館へ。
 
 
神岡鉱山がもう閉山してしまっているせいか、鉱山資料館の展示内容がかなり古いのは残念でしたが、逆手に取ると今では貴重なものかもしれませんね。
鉱山が熱かった頃の、当時の雰囲気を保管しているタイムカプセルとも言えます。
その鉱山資料館から神岡城の全景。
 
 
ここは、戦国時代には東町城と呼ばれた城があり、飛騨侵攻の総大将だった武田家重臣山県昌景の命で江馬氏によって築かれたとされています。
 
 
神岡城は、その遺構を利用して建てられていますが、写真をよく見てもらうと判るんですが、石垣部分は目が斜めの谷積のようになっているので、間違いなく当時のものではありません。
立地は、群馬に見られる武田系の城と同様に典型的な崖城ですし、それらの城も武田時代は土の城ですしね。
石垣は考えにくい。
こから20年ほど後の金森氏時代でも無さそうです。
増島城の石垣は豪壮な野面の高石垣でしたが、目はちゃんと横に通ってましたからね。
神岡城が建てられる前は、開墾されて畑だったのかそれとも住宅地だったのかは知りませんが、この石垣は少なくとも江戸時代後期以降のもので、一番可能性が高いのは神岡城が建てられた時に積まれたというところでしょうか。
ただ、城跡としては、下のように割と幅広の空堀が明確に残っているので、他の施設として整備された跡というのを考えると、思ったよりも散策して楽しかったです。
 
 
改めて、神岡城の前景。
 
 
内部から神岡市街。
 
 
上にも書きましたが、川筋の典型的な崖城です。
川筋の街ってのも、景色としていいですな(^^)
次に、同敷地内にある旧松葉家。
 
 
中には飛騨地方の民俗文化を知れる数々の品がありました。
特にびっくりしたのは神棚と仏壇。
どっちも贅を凝らしたもので、どこかの豪農のものでしょうね。
飛騨は天領でしたから、年貢も安かったはず。
その資本の蓄積を感じると共に、神仏の有難味、豪農本家の資本の重厚さというのが、なんだか凄く伝わってきました。
 
つづく
 
参考:
寺林城
東町城
高原郷土館
地図付きはこちら
 

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