偶然にも、この春にちょうど近くに行ったので寄ったんですよね。
おぉ、実にタイムリー(^^)
記事によると、地元の方は城跡として盛り上げたいが、周辺一帯が私有地なので、城跡に通じる道を造るわけにもいかず、市としても発掘調査をしていないので城跡と確定できておらず、静観するしかない状態、ということのようです。
高山右近関連で、高槻に紹介パンフレットを置かせてもらっている程度だとか。
お城の整備というのも、実際に土地が絡む話になりますから、色々としがらみが出てくるもんですね。
城の歴史を辿ると、築城者として高山右近重友の名が出てきますが、もともと室町時代に赤松氏が砦を築いたのが最初です。
室町時代の頃という大きな括りですが、恐らく嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の時でしょう。
城のすぐ北、西国街道の和坂(蟹坂)と言う場所で、幕府軍と、将軍足利義教を謀殺した赤松満祐の子教康率いる赤松軍が対峙してますが、その防衛線の一端だったかと思われます。
和坂は今の国道2号線と国道175号線の交点あたりですね。
明石から続く平地が西の台地に差し掛かる坂で、船上城からは約1kmという近さです。
次に船上城が歴史に登場するのは戦国時代。
秀吉の兵糧攻めで有名な三木の別所氏の一門、別所吉親が築いた林城や林ノ城という城がありました。
築城は永禄年間(1558-70)前後といわれています。
少し西に行くと、三木城で籠城した別所氏にせっせと兵糧を運んだ魚住氏の魚住城がありますね。
両城の距離は約7km。
船で連携したとすれば、かなり近い距離です。
ちなみに、吉親は三木籠城時の当主だった長治の叔父で、賀相という名でも知られていますが、別所山城の受領名の方が有名ですね。
別所氏の方針を決定する際には、強硬な毛利派として行動した武将でした。
当主の叔父というこもあって、家中随一の実力者だったわけです。
その武将が築いた城ということで、別所氏としてはかなり重要視していたのでしょう。
魚住氏と連携して、制海権や海上交通を掌握しようという意図があったと思われます。
ただ、別所氏の本拠である三木と瀬戸内海の間には明石氏という、これまた赤松家中で守護代まで務めた比較的大きな家の勢力圏があったので、どこまで影響力があったのかは不明ですが。
その後、城は三木合戦の際に落城し、蜂須賀正勝や生駒親正が城番として一時在城しました。
この別所氏が秀吉に敗れてからしばらくして、ようやく高山右近重友の名が出てきます。
三木城の落城後、播磨は秀吉の差配する国となりましたが、前述の明石氏の当主則実は秀吉に味方していた為、勢力を残すことができました。
この時点では高山右近重友はまだ秀吉の同僚に過ぎず、池田恒興や、織田信孝に付けられた丹羽長秀などが旗頭となっている、畿内方面軍の中にありました。
その後、天正10年(1582)の本能寺の変を経て秀吉が打倒明智光秀の一番手になると、秀吉の率いた中国方面軍に畿内方面軍が合流する形で弔い軍が形成され、そこに属した織田家臣の諸将は秀吉の家臣化していきます。
そして、四国征伐のあった3年後に配置転換が行われ、則実は但馬の豊岡に移り、明石郡は右近に与えられました。
右近は、明石氏の居城があった枝吉城に入ってから船上城を築いたとも、直接船上城を築いて入城したともいわれ、入部の詳細は不明ですが、キリスト教禁教に逆らって改易される2年後まで在城しています。
その後、城は秀吉の直轄地を経て江戸時代は姫路藩領となり、藩主池田輝政の家老池田利政や甥池田由之が入っていましたが、小笠原忠政の明石藩が成立するとその居城として明石城が築かれ、資材が明石城に転用されました。
こうして、船上城には何も無くなってしまったのです。
現在の船上城はと言うと、天守台跡と伝わる台地に城山大明神という小さな社があるだけとなっています。
この前に寄った時は全体の写真を撮らなかったので、小さくて古い写真をば。
今回撮ったのは、新しく建てられていた説明板だけ。
痕跡が少ない城ですからね。
説明板が新たに建てられていただけでもありがたい(^^)このまま、伝天守台だけでもなんとか残ってもらいたいものです。
参考:
船上城
枝吉城
地図付きはこちら
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