2015年8月18日火曜日

神出山城

昨年の秋、兵庫楽農生活センターという所に行ったついでに、神出山城があるとされる雌岡山に登ってきたので、その記録をちらりと。
 
雌岡山、地元ではめっこさんやめっこうさんなどと呼ばれてまして、神出富士という別名がある稜線の綺麗な山です。
この山頂に神出神社があり、いつも初詣で回る神社のひとつなんですが、今回は下から徒歩で登ってみました。
地図で見ると、登山道は四方にあるようで、楽農生活センターからの道は北西からのルートになりますね。
山の標高は249m。
しかし、比高で言えば、200mを切る程度でしょうか。
時間にして、20分ほどの行程でした。
山頂は神出神社の境内地で、本殿がある頂上部、北東側の小駐車場、さらに北東側の大駐車場という3つの大きな削平地があるのですが、城があったというような確実な痕跡は見付けられませんでした。

神出山城の歴史を辿ると、周囲一帯を領したであろう神出範次という武将の名が出てきます。
この武将は、播磨の守護大名となった赤松円心則村の曾孫で、則村の嫡子範資の系統でした。
範資は、室町幕府草創の功臣である則村の嫡子として、重要な摂津の守護を任され、父の死後は播磨守護も継承して2ヶ国の守護となりますが、父の死後、僅か1年で没してしまい、摂津守護は範資の嫡子範光が、播磨守護と赤松家惣領は範資の弟で則村の四男である則祐が継承しています。
しかし、重要国であった摂津は、実力者による争奪や政治的背景が作用したようで、後に光範は守護職を失い、赤松氏の本宗筋も則祐系へと名実共に移りました。
この光範の次男が神出範次なのです。
とは言え、神出の名が出てくるのはこの時のみで、神出山城に関する詳しい記述はありません。
しかも、神出城には山城と麓の城があったようで、それが詰城と里城の関係なのか、全く別個の城であったのかもよく判っていません。
なんとも不詳な城なんです。

というわけで、神出神社に城の痕跡が無くても何の不思議も無いわけですが、城好きはどんな土盛りにも反応してしまうという習性から、痕跡と見えなくも無い場所を見付けてみました。
まずは社務所の南側。

 
野面積の石垣!
でも、野面積の石垣だと戦国時代末期頃になるわけですが、三木合戦の諸記録にも城の存在が見えないんですよねぇ
三木城の南南東4.7km。
支城としては最適な距離ではあるんですが。
神社の為の石垣と考えると、石垣の技術が軍事技術から民間技術に降りてくるタイムラグを考えて豊臣政権末期から江戸時代初期。
ちょうど築城ラッシュの頃で、技術者が忙しかった事を考えると、もうちょっと遅くなるかも。
で、この時期を過ぎると打込矧、切込矧へ技術が進展すると共に、築城需要が一段落してしまうので民間への技術降下が早くなる印象ですな。
あくまで個人的な印象論なので微妙なんですが、民間需要で野面積となるとかなり時期が限られそう。
しかも、この片田舎まで技術者を呼ばないといけないし、かなり富裕な神社じゃないと無理っぽいんやけど・・・
判断に迷うところですわ(^^;)

次のポイントは、神社の今の正面ではない方向の削平地。

 
この地形、神社に入る昔の主参道と思われる登山道とは別で、登山道から分かれるように削平地があり、写真の階段を登ると元の登山道へと戻るというよく分からない構造。
特に何があるわけでもなく、現在は何にも使われていない不必要な地形。
ん~、帯郭を流用したようにも見えるんですが・・・

疑いの目で見れば、城の痕跡と見れなくも無い部分は上の2つだけでした。
最後に、神出神社の境内からの眺め。
絶景です!

 
ちょっと霞んでて見難いですが、中央部にひょこっと短い棒が薄っすら見えてるのが明石海峡大橋。
夜景も綺麗なんですが、通常の日は神社への車道が夜間に閉じられるので、暗い中を徒歩で登る事に。
肝試しにはいいかもしれません(笑)
大晦日は車で入れます(^^)
 
参考:
神出山城
地図付きはこちら
 

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