先日、神戸新聞に船上城についての事が書かれてありました。
偶然にも、この春にちょうど近くに行ったので寄ったんですよね。
おぉ、実にタイムリー(^^)
記事によると、地元の方は城跡として盛り上げたいが、周辺一帯が私有地なので、城跡に通じる道を造るわけにもいかず、市としても発掘調査をしていないので城跡と確定できておらず、静観するしかない状態、ということのようです。
高山右近関連で、高槻に紹介パンフレットを置かせてもらっている程度だとか。
お城の整備というのも、実際に土地が絡む話になりますから、色々としがらみが出てくるもんですね。
城の歴史を辿ると、築城者として高山右近重友の名が出てきますが、もともと室町時代に赤松氏が砦を築いたのが最初です。
室町時代の頃という大きな括りですが、恐らく嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱の時でしょう。
城のすぐ北、西国街道の和坂(蟹坂)と言う場所で、幕府軍と、将軍足利義教を謀殺した赤松満祐の子教康率いる赤松軍が対峙してますが、その防衛線の一端だったかと思われます。
和坂は今の国道2号線と国道175号線の交点あたりですね。
明石から続く平地が西の台地に差し掛かる坂で、船上城からは約1kmという近さです。
次に船上城が歴史に登場するのは戦国時代。
秀吉の兵糧攻めで有名な三木の別所氏の一門、別所吉親が築いた林城や林ノ城という城がありました。
築城は永禄年間(1558-70)前後といわれています。
少し西に行くと、三木城で籠城した別所氏にせっせと兵糧を運んだ魚住氏の魚住城がありますね。
両城の距離は約7km。
船で連携したとすれば、かなり近い距離です。
ちなみに、吉親は三木籠城時の当主だった長治の叔父で、賀相という名でも知られていますが、別所山城の受領名の方が有名ですね。
別所氏の方針を決定する際には、強硬な毛利派として行動した武将でした。
当主の叔父というこもあって、家中随一の実力者だったわけです。
その武将が築いた城ということで、別所氏としてはかなり重要視していたのでしょう。
魚住氏と連携して、制海権や海上交通を掌握しようという意図があったと思われます。
ただ、別所氏の本拠である三木と瀬戸内海の間には明石氏という、これまた赤松家中で守護代まで務めた比較的大きな家の勢力圏があったので、どこまで影響力があったのかは不明ですが。
その後、城は三木合戦の際に落城し、蜂須賀正勝や生駒親正が城番として一時在城しました。
この別所氏が秀吉に敗れてからしばらくして、ようやく高山右近重友の名が出てきます。
三木城の落城後、播磨は秀吉の差配する国となりましたが、前述の明石氏の当主則実は秀吉に味方していた為、勢力を残すことができました。
この時点では高山右近重友はまだ秀吉の同僚に過ぎず、池田恒興や、織田信孝に付けられた丹羽長秀などが旗頭となっている、畿内方面軍の中にありました。
その後、天正10年(1582)の本能寺の変を経て秀吉が打倒明智光秀の一番手になると、秀吉の率いた中国方面軍に畿内方面軍が合流する形で弔い軍が形成され、そこに属した織田家臣の諸将は秀吉の家臣化していきます。
そして、四国征伐のあった3年後に配置転換が行われ、則実は但馬の豊岡に移り、明石郡は右近に与えられました。
右近は、明石氏の居城があった枝吉城に入ってから船上城を築いたとも、直接船上城を築いて入城したともいわれ、入部の詳細は不明ですが、キリスト教禁教に逆らって改易される2年後まで在城しています。
その後、城は秀吉の直轄地を経て江戸時代は姫路藩領となり、藩主池田輝政の家老池田利政や甥池田由之が入っていましたが、小笠原忠政の明石藩が成立するとその居城として明石城が築かれ、資材が明石城に転用されました。
こうして、船上城には何も無くなってしまったのです。
現在の船上城はと言うと、天守台跡と伝わる台地に城山大明神という小さな社があるだけとなっています。
この前に寄った時は全体の写真を撮らなかったので、小さくて古い写真をば。
2000年頃の写真ですが、比べてみるとこの頃よりも周辺の農地が宅地化されていて、いずれは住宅地に埋もれてしまいそうですね。
今回撮ったのは、新しく建てられていた説明板だけ。
痕跡が少ない城ですからね。
説明板が新たに建てられていただけでもありがたい(^^)
このまま、伝天守台だけでもなんとか残ってもらいたいものです。
参考:
船上城
枝吉城
地図付きは
こちら
ちょっとまた話題が戻るのですが、安保法制に関連ということで。
アメリカの大統領選挙の予備選が、現在行われていますね。
アメリカでは、共和党、民主党がそれぞれ大統領候補を出し、大統領選挙を行うというのが通例です。
もちろん、それ以外の党も大統領候補を出す事はできますが、実際上は二大政党以外で大統領になる事はほぼ不可能と言えるでしょう。
この二大政党の大統領候補という立場を得る為、党内でも選挙があり、それを勝ち抜かなくてはなりません。
党内の選挙を勝ち抜いた人間が党候補となり、大統領選挙に挑む。
これは、日本でも同じようなシステムがあって、党内で総裁もしくは代表を選び、国会で首班指名という首相選挙を行うわけですが、アメリカの場合はどちらも直接選挙なわけです。
アメリカ人は4年に1回民主主義を勉強する、と言われる事があるのも、この直接選挙という仕組みからですね。
で、今、共和党の大統領候補選挙がどうなっているかと言うと、ブッシュ一族のジェブ・ブッシュ氏とドナルド・トランプ氏が有力です。
最近、優勢になってきたのは、トランプさんですね。
暴言王との異名もありますが(笑)
この人、お金持ちなんです。
金の掛かる大統領候補選挙で、自前のお金でやってると公言できるのは強い。
支持層、支持勢力というのは、当然ながら資金的にも言える事で、その協力が無くてもやっていけるというのは、ブレない要素になる。
その辺りと、過激な発言が保守層に受けて、急速に支持を伸ばしています。
で、本題なんですが、トランプさんは日本に対しても発言をしました。
「日本が攻撃されたら我々は助けないといけないが、我々が攻撃されても日本は助けてくれない。こんな片務協定は良い協定ではない。」
と。
訳し方はメディアによって幅があるんですが、要は、お互い様の協定になってないし要る?という主旨ですね。
現実的なアメリカの戦略を考えると、日米安保の放棄というのはほぼ有り得ないですが、政権によって体制に変化が起こるということは十分有り得ます。
とある芸能人が、自衛隊の方もアメリカの為に命を落としたくないと思ってると思いますよ、と言ってましたが、その時に書いたように、アメリカにもそういう主張はあるわけです。
特にアメリカは、何かあるとモンロー主義という孤立外交主義の殻に閉じ籠ることがあるヤドカリ的な性格がありますからね。
このモンロー主義の元となる不干渉政策を提唱したのも、共和党のモンロー大統領。
ですので、伝統的に共和党は孤立外交主義と親和性があるわけです。
こっちの兵隊ばっかり命を落とす片務協定なんて損やからお互い不干渉で行こうや!なんて主張が出てくる可能性は無いとは言えません、というかそれに近い発言だったわけだけど。
この辺り、安保反対派はどう考えてるんかな~
ぶっちゃけ、現在の日米安保は日本が甘い汁を吸う立場ですからね。
もともとアメリカが押し付けた、という側面はあるにしても。
日米安保をやめて軍備を増強して独立独歩で行くならそれもいいし、ベルギーやルクセンブルクのように相手国の機嫌頼みで中立を宣言してもいいんです。
でも、それを現実に落とし込む対案ってのが全く無いのは問題外。
しっかりとした対案、それに沿った政策を提示して、国民の理解を得ようとしなければいけない。
なのに理想の夢物語ばっかり語ってるから、どうしようもないんですよねぇ
ほんまもうちょっと成熟してほしいわ・・・
昨年の秋、兵庫楽農生活センターという所に行ったついでに、神出山城があるとされる雌岡山に登ってきたので、その記録をちらりと。
雌岡山、地元ではめっこさんやめっこうさんなどと呼ばれてまして、神出富士という別名がある稜線の綺麗な山です。
この山頂に神出神社があり、いつも初詣で回る神社のひとつなんですが、今回は下から徒歩で登ってみました。
地図で見ると、登山道は四方にあるようで、楽農生活センターからの道は北西からのルートになりますね。
山の標高は249m。
しかし、比高で言えば、200mを切る程度でしょうか。
時間にして、20分ほどの行程でした。
山頂は神出神社の境内地で、本殿がある頂上部、北東側の小駐車場、さらに北東側の大駐車場という3つの大きな削平地があるのですが、城があったというような確実な痕跡は見付けられませんでした。
神出山城の歴史を辿ると、周囲一帯を領したであろう神出範次という武将の名が出てきます。
この武将は、播磨の守護大名となった赤松円心則村の曾孫で、則村の嫡子範資の系統でした。
範資は、室町幕府草創の功臣である則村の嫡子として、重要な摂津の守護を任され、父の死後は播磨守護も継承して2ヶ国の守護となりますが、父の死後、僅か1年で没してしまい、摂津守護は範資の嫡子範光が、播磨守護と赤松家惣領は範資の弟で則村の四男である則祐が継承しています。
しかし、重要国であった摂津は、実力者による争奪や政治的背景が作用したようで、後に光範は守護職を失い、赤松氏の本宗筋も則祐系へと名実共に移りました。
この光範の次男が神出範次なのです。
とは言え、神出の名が出てくるのはこの時のみで、神出山城に関する詳しい記述はありません。
しかも、神出城には山城と麓の城があったようで、それが詰城と里城の関係なのか、全く別個の城であったのかもよく判っていません。
なんとも不詳な城なんです。
というわけで、神出神社に城の痕跡が無くても何の不思議も無いわけですが、城好きはどんな土盛りにも反応してしまうという習性から、痕跡と見えなくも無い場所を見付けてみました。
まずは社務所の南側。
野面積の石垣!
でも、野面積の石垣だと戦国時代末期頃になるわけですが、三木合戦の諸記録にも城の存在が見えないんですよねぇ
三木城の南南東4.7km。
支城としては最適な距離ではあるんですが。
神社の為の石垣と考えると、石垣の技術が軍事技術から民間技術に降りてくるタイムラグを考えて豊臣政権末期から江戸時代初期。
ちょうど築城ラッシュの頃で、技術者が忙しかった事を考えると、もうちょっと遅くなるかも。
で、この時期を過ぎると打込矧、切込矧へ技術が進展すると共に、築城需要が一段落してしまうので民間への技術降下が早くなる印象ですな。
あくまで個人的な印象論なので微妙なんですが、民間需要で野面積となるとかなり時期が限られそう。
しかも、この片田舎まで技術者を呼ばないといけないし、かなり富裕な神社じゃないと無理っぽいんやけど・・・
判断に迷うところですわ(^^;)
次のポイントは、神社の今の正面ではない方向の削平地。
この地形、神社に入る昔の主参道と思われる登山道とは別で、登山道から分かれるように削平地があり、写真の階段を登ると元の登山道へと戻るというよく分からない構造。
特に何があるわけでもなく、現在は何にも使われていない不必要な地形。
ん~、帯郭を流用したようにも見えるんですが・・・
疑いの目で見れば、城の痕跡と見れなくも無い部分は上の2つだけでした。
最後に、神出神社の境内からの眺め。
絶景です!
ちょっと霞んでて見難いですが、中央部にひょこっと短い棒が薄っすら見えてるのが明石海峡大橋。
夜景も綺麗なんですが、通常の日は神社への車道が夜間に閉じられるので、暗い中を徒歩で登る事に。
肝試しにはいいかもしれません(笑)
大晦日は車で入れます(^^)
参考:
神出山城
地図付きは
こちら
かれこれ5年以上やってる位置ゲー、国盗り合戦ですが、今年も夏の陣が始まりました。
ただ、今年は近場で行けそうな場所が少ないんですよね~
兵庫県は、神戸と龍野と加東市の滝野町。
例年は京都の丹波地方にもポイントがあったりしたんですが、今年は無し。
夏場の早朝ツーリングにはちょうど良いターゲットやし、ぶらっと行ってきました(^^)
5時頃に出ようかななんて思ってましたが、出発は5:40過ぎ。
まぁ許容範囲内かな。
まずは龍野へ向かったんですが、山陽の大動脈の国道2号バイパスは土曜日でも6時を過ぎると通常営業ぐらいの交通量。
さすがですわ。
トラックも多いし、早朝便が主役の時間やね。
そんなバイパスも姫路を過ぎると空き出し、そのまますいすいと龍野に到着。
お城の位置は大体把握してるので、適当に曲がって旧市街に入り、これまた適当に進んで到着。
さすがに夏なんで、7時前でも十分陽が高いんですが、早朝独特の空気が旧市街の古い雰囲気と混ざって良い感じですな。
取り合えず隅櫓をパチリ。
違法駐車の車邪魔やねん・・・
でもよくナンバーを見ると、
777!
あぁ、そういう人がオーナーなのか。
さも有りなん、なんて思ってしまう自分も毒されてるな(^^;)
この場所には、家老屋敷の門ともうひとつ門があります。
ちょっと字が見難いですが、龍野小学校水練場との表札。
そう、プール!
隅櫓のほうら覗いてみると、プールサイドもかなり広いし大中小と3つもプールがあるしなかなか豪勢やなぁなんて思ったわけですが、何より水練場ってのが良かった(^^)
城の直下ですからね。
観光地らしい粋な表札にちょっとやられましたわ。
この水練場から少し東に行くと、龍野城の大手門である埋門があります。
しかし、早朝なので城門は閉まったまま。
龍野城も閉門するタイプの城やったんやねぇ
ちょっと散策しようかな、なんて思ってたけど・・・
仕方ないので、城下の方を散策。
隅櫓の脇にはこんな情景もありました。
隅櫓も見えて、旧市街らしい風景ですが、この辺りは普通の住宅もあります。
そういう造られた感じの無いところが路地好きの自分には心地よかったですね。
龍野からは、次の闘龍灘に向けて揖保川沿いを北上。
時間的に言えば、中国道に入って滝野社I.C.で下りればすぐなんですが、運転を楽しみたいので、山崎から国道29号線へ入り、安富から県道23号線を東へ。
この県道23号線という道は、延々と中国道と並走してまして、よく使われる道です。
途中、夢前でスマートI.C.の工事をしてました。
確かに福崎と山崎の間はかなり距離があるし多少は便利になるかも、とは思うんですが、完全に並走してるこの県道を考えるとI.C.からショートカットできるということも無いので、使う人は限られるかもしれませんね。
福崎を過ぎ、加西市の中心である北条を過ぎてから北へ。
ちなみに、この北条という町は個人的に縁があって、自分から数えて6代前の先祖がこの町で古着屋をしていたらしいです。
その頃の言い方だと、古手屋ですね。
古手屋そう兵衛、という方がご先祖様らしいです。
そうは宗なのか惣なのか。
死ぬまでには一度、係累なんかも調べてみたいものですな。
話が逸れましたが、北条を過ぎるとフラワーセンターという植物園があり、その角を前述のように北へ向かい、中国道をくぐってから東に向かうと、播磨中央公園があります。
Misiaやトータス松本が野外ライブをやる野外ステージがあるところですね。
ほぼ地元のトータス松本はともかく、Misiaがきた時には、なんでこんな田舎に?と相当びっくりした記憶があります(笑)
もうここまで来れば闘龍灘はすぐそこ。
バイクの乗り始めによくこの辺りまで来てましたな。
懐かしい(^^)
闘龍灘の全景はこんな感じです。
江戸時代までは、こんな岩場が川を分断している場所で、南北を結ぶ水運もここで途切れ、積み替えをしていたといいます。
そこで、江戸時代に掘割が掘られました。
こうして見るとかなり水深は浅いんですが、当時の喫水の浅い川舟だと、これでも十分だったんでしょう。
この上流にも数ヶ所、そういう岩場があったんですが、このように船を通せるようにした事で、加古川は南北の重要な物流を担うようになったのでした。
いつかの記事で書きましたが、江戸時代は米本位制度の経済。
米を大坂で売るということが、現金収入の主な手段でした。
その為には、地方地方から積み出して大坂へ運ばなきゃならない。
人や牛馬が運ぶにも限界がある。
じゃあ目一杯、大きな川の利点を使おうや、ということなんですね。
やがてそれが発展し、特産品生産の奨励と販売も加え、商品経済というのが発展していきますが、そのような物流を支えたのも、この加古川を始めとした各地の河川と国内海路で、この掘割の開削も、そのような物流量の増大の現れのひとつと言えます。
この日の闘龍灘は、晴れが続いてる割にそんなに水量は少なくなかったのですが、時々集中豪雨があった影響ですかね。
これが、台風後とかに来てみると、腹にまで響く轟音と岩場を覆い隠す水量でド迫力の場所になります。
あれはねぇ、なぜか心が躍る(笑)
台風が来るとウキウキしてる子供がいましたよね。
夕立もしかり。
それ、自分っす。
こういう無駄にテンション上がる事だけは変わらんな~(笑)
しかし、夏場は止まらず風に当たっててもやっぱり暑いですな。
8時ぐらいがオッサンの限界ライン。
昔は夏休みに野宿でツーリングとかしてたけど、今はすぐエアコンと布団が恋しくなりますわ(^^;)
参考:
龍野城
闘龍灘
地図付きは
こちら
ちょっと長くなってますが、前回の続きを徒然と。
戦争についての話に戻りますが、よく言われるように、戦争には正義なんか無い、というのは歴史から言える事です。
ある国とある国が戦争をする。
この時、ほぼ100%、両国は大義名分を掲げています。
それは片面から見ると邪悪であり、片面から見ると正義なわけです。
これは、国と国の戦争に限りません。
過去、実力者が斜陽の権力機構にクーデターを仕掛けるというのが、それはもう数多と言えるぐらい繰り返されてきましたが、クーデターですから、倒される権力者側にとってはもちらん限りなく邪悪なわけです。
でも、クーデターを起こす側も大義名分を掲げています。
古くは、君側の奸臣を除く、というのが定番でした。
主君は悪くないが、側近が悪いから政道が歪められている。
だからその側近を排除する為に兵を挙げたんだ、と。
ま、大概は軍事力で圧倒したクーデター側はやりたい放題なんで、君主を傀儡化し、後に禅譲を迫ったり暗殺したりして取って代わるわけですが。
しかし、挙兵した時には、それが大義名分、つまりクーデター側の正義論だったわけです。
体制を覆すというクーデターですらこんな感じですから、同じような事が、いや、それ以上の激しい正義の主張が、国同士なら発生します。
でも、どっちが正義とも言えない。
なので勝者側が正義論を押し通し、敗者は反論すら出来ず、悪にされる。
正に、勝てば官軍、というわけですな。
前述のクーデターで言うなら、妹喜、妲己、褒娰なんかの傾国の美女と人倫にもとる暴虐の王というテンプレートがありますね。
日本の豊臣秀次なんかもこれのテンプレートの流用と思われます。
どれも滅んで当然という論調で描かれていますが、実態は違ったでしょう。
でも、後世に残るのはあくまで勝者側の正義の主張なのです。
戦国時代の頃の戦争は、もちろん庶民に害もありましたが、局地戦でもあり、物見遊山の対象でもあったというのが史料に載っており、牧歌的な側面もあったようです。
しかし、兵器の発達した近代の戦争、特に国民国家による戦争というのは、とことん総力戦となります。
なので、庶民に塗炭の苦しみを与える。
だから、戦争はアカン。
これははっきり言える事です。
でも、そこに良いとか悪いとか、善とか悪とか、正義とか邪悪とかを持ってくると、途端に現実認識が怪しくなってしまう。
そうじゃないやろ、と。
かつて、アメリカのブッシュ大統領は、イラクを悪の枢軸と名指しし、大量破壊兵器の所持を疑い、アルカイダとの関係も疑って戦争に突入しました。
しかし、大量破壊兵器は無く、アルカイダとの関係を示す証拠も出てこなかった。
所詮、正義の戦争と言っても、こんな不安定なものなんです。
戦争を善とか悪とかで語るべきじゃない。
善とか正義とかって耳障りがいいですからね。
大義名分には使いやすい。
宗教とかもそうですけど、盲目的にさせる力がある。
でも、実際に社会に出てみると、善とか正義とか一面だけで片付けられる事象なんてほぼ無い事が身に沁みて解ります。
自分はこう思ってるが、対立する相手にも事情がある。
また、戦前と戦後の価値観が反転したように、正義も何かの拍子で反転することがある。
だからシンプルでいいと思います。
大変な思いをするから戦争はアカンと。
戦争はあくまで利権闘争の結果であって、善でも悪でも正義でもない。
敵対国を悪だと捉える人は、現実や置かれた環境を都合良く解釈しようとする。
かと言って、戦争自体を悪だと捉える人も、その時点で思考停止してしまう。だからこそ、戦争をしない為の、もしくは戦争になっても被害をできるだけ避ける為の、現実的な施策や備えというのが大切なのです。
事故と同じで、相手にやる気があれば、いくらでも戦争なんて起こせるんやから。
その辺りが、善悪だの正義だので戦争を語る人には足りない。
徒然ついで、アメリカという言葉が出てきたついでに、中国と対比させて考えてみましょうか。
日本は、世界においては重要なプレーヤーですが、超大国というような国ではありません。
現在の世界で、超大国と言えるのはアメリカだけでしょう。
しかし、超大国を目指す国が現れました。
それが中国。
中国は、過去、異民族王朝も含め、何度も超大国だった時代を持つ国です。
というか、隋唐も鮮卑族系の説があり、元や清は確実に異民族王朝ですから、異民族王朝の超大国時代がかなり長いという国でもあります。
これら征服異民族を、中華文明という普遍的な文化と人の数で吸収して今の中華民族があるわけですが、根本の部分が他の民族を吸収し得る多民族国家であるというのは、両国の共通点かもしれないですね。
それは興味ある視点ですが、ひとまず置くとして、歴史上、対立する超大国がある場合、影響を受ける中小国はどうなるか。
それは、必ずと言っていいほど、内部で意見が割れるんです。
どっちに付くか、という話で、親○○派、親××派といった派閥ができあがるんですね。
初期には中立派、独立派というのもあることが多いですが、事態が切迫してくると大抵霧消していきます。
今の大河ドラマは、ちょうど長州征伐の頃ですが、その頃の長州も同じです。
影響を及ぼす2つの勢力の武力が圧倒的という状況ではありませんが、幕府は武力が圧倒的で、朝廷は思想的な力が強いという状況でした。
この2つの勢力を前にして、どちらに付くかで勤皇派と佐幕派が対立したわけです。
長州征伐前後の情勢は、文久の政変と蛤御門の変によって勤皇派が立場を失い、幕府に恭順する佐幕派が勤皇派を弾圧して第一次長州征伐を乗り切ったものの、同じ頃に高杉晋作が挙兵し、佐幕派を一掃する、という流れを辿って行きます。
勤皇派も佐幕派も、どちらも長州を思っての事ではあるんですがね。
皆それぞれ、一番の策はこれだというのがあるだけに、藩論統一は難しかったんでしょう。
翻って現在の日本。
派閥という見方で見てみると、政府や与党が親アメリカ派、共産党や民主党は親中国派ということになりますか。
○○派なんていうと、なんか極端な見方のような気もしますが、これが意外と合ってるんですね。
個人的には同盟という言葉を使うのはどうなん?とすら思う片肺状態の日米同盟を、より通常の同盟関係に近付けようとしている政府や与党。
日本が軍事的に依存しているのはアメリカですから、これは紛う事無き親アメリカ派で解り易い。
一方、産経新聞の記事にありましたが、安保法制を支持している、今後の日本の役割に期待しているという意見が、中国韓国以外の国ではほとんどで、具体的に法制に反対しているのは、中国韓国のみでした。
韓国は外交的にはアメリカを離れて中国に付きつつありますから、日本に対してはほぼ中国と同じ立場と見て差し支えないでしょう。
そして、この中国の意見を代弁するかのように同じ主張をしているのが、共産党、民主党です。
上記のように、国際的に法制反対が一般的という状況でもないわけですから、今までありがちだった、世界では云々という理由も挙げられないですし、自覚があるか無いかは別として、二つに分けてみるならば親中国派ということになりますね。
これは、共産党は言わずもがなで、民主党も旧社会党や旧民社党の流れを汲む議員がいますから、中国と近しいのは当たり前と言えば当たり前かもしれません。
しかしながら、どうも親中国派という色がはっきりとしないですね。
事態がまだまだ逼迫していないからなのか、それとも中国側に付く、という現実論が足りないからでしょうか。
別に中国側に付くというのがダメなわけではありません。
長州藩の対立も、突き詰めれば、幕府の力がまだ強く敵わないと考えるか、これからは朝廷中心の世の中になるからそれに向けて動くべきと考えるか、の違いでしかありませんから。
日本でも、これからは中国が超大国になるから恩を売っておくべきだ、とか納得できる理由を提示すればいいんです。
なのに、憲法9条が守ってくれるとか、非武装中立とか、現実感の無いふわっとした言葉を持ってくるからおかしくなる。
政治は現実ですからね。
起こり得る事に対してきちんと対処できる、予防できる、という策を持たないといけない。
確かに、親中派という語感は今は悪いかもしれません。
でも、それを堂々と言えるだけの矜持と信念が野党には欲しいもんですな。