2015年6月29日月曜日

阿蘇・佐賀ツーリング その10

前回のあらすじ

懐かしき嬉野温泉。
おっさん美人化計画完結。
 
3日目は、午後から帰路に就く予定。
なので、開館時間が決まっている佐賀城本丸歴史館から逆算し、佐賀周辺を回っておいてから歴史館の開店待ちという作戦。
そもそも、佐賀城に来たのは、前回訪れた時に佐賀城本丸歴史館の建設前の発掘調査を行っていたのを見て、完成したら来ようと思ったからです。
従って、今回は歴史館がその名の通り目的地の中でも本丸。
ついでにすぐ近くの龍造寺家兼所縁の水ヶ江城も見たい、鍋島直茂所縁の蓮池城も見たい、というのを入れ込んだプランなのです。
更に、前日に宿で佐賀周辺の城、つまり千葉氏の千葉城や少弐氏の勢福寺城、筑紫氏の勝山城などですが、ついでに寄れる所はないかとそれらを調べていると、宿の裏山が千葉城という事を知り、急遽寄る事にしました。
佐賀県で寄る城としては、佐賀城を含め、以上4城。
他の2城は本気登山になるので、ちょっと時間的に無理でしょう。
そして、この予定から逆算するに、起床はできれば6時前、温泉に入って6時半には宿を出たいという感じですか。
午後からの帰投を考えると、午前にどれだけ奮えるかが鍵やな、ということを考えつつ、目覚ましをセットして就寝。
そして、心地よい疲れの残る体を感じつつ、陽の光で目を覚ましてスマホの時計に目をやると、7:20。
し ち じ に じゅ っ ぷ ん 。
え゛?
うそん!
思わず二度見したっちゅうねん!
目覚まし掛けてたやん!と確認すると、ちゃんと目覚ましは作動した様子。
しかししかし、前日がフェリーの雑魚寝部屋だった為、音を鳴らすわけにもいかないのでバイブのみの目覚ましにしてたのですが、その設定を解除し忘れていた!
なんという失態・・・
疲れた体での深い眠りにバイブの微振動なんぞ無力!嗚呼無力!
結局、急いで温泉に入り、前日にP.A.で買っておいたカレーパンを食べて出発したの時には、8時前になっていました。
 
宿を出発し、取り合えず千葉城への登山ルートを探すべく、まずは山の北側の道を清水の滝方向へ向かいましたが、こちらには城の表示無し。
なのでUターンして祇園川沿いの細い道を走ってると、千葉公園の文字が。
そこからは道なりに進むと、千葉公園に到着しました。

 
写真では平地のように見えますが、ここはあくまで峰上で、駐車場の両サイドは崖になっています。
この千葉城は、最盛期には小城周辺3郡を支配した千葉氏の本拠で、祇園城や牛頭山城とも呼ばれました。
千葉氏自体は、佐賀藩の藩祖である鍋島直茂が一時養子に入っていた事で、戦国武将好きにも割と知られていますね。
ただ、養子に入っていた西千葉という家は、すでに少弐氏の血脈となっており、関東の名族である千葉氏の血脈というわけではありませんでした。
この辺り、探っていくと少弐氏と千葉氏に加えて肥前進出を図る大内氏が絡み、とてもとてもややこしいので、流れを理解するのに結構時間が掛かります。
ま、それは置くとして。
千葉公園となっている部分は、千葉城跡の中でも、中腹の部分です。
千葉城は山頂、中腹、麓の台地という3つの部分があり、麓は須賀神社、中腹は千葉公園になっていますが、山頂は通信塔などが建っているとのこと。
現地の案内板には、このような図が描かれていました。

 
駐車場となっている場所も写真のように平坦で、ここも恐らく郭跡でしょう。
ここから山側にもいくつか段状の地形があるのですが、こちらは植樹されていることもあり、削平地が当時のものか、林業に伴うものかは判断できませんでした。
土橋に近い鞍部となっている部分を過ぎて公園の奥へと入っていくと、櫓台のような小さな台地を含め、大きく3つの削平地に分かれています。
櫓台上の場所から頂上部の眺めはこんな感じ。

 
往時はあの山頂に本当の中核部があったんでしょうね。
公園として整備されていることもあり、このすぐ下の削平地には展望台もありました。
展望台からの小城市街の眺めは、秋晴れの朝というのもあって澄んでおり、非常に清々しかったですね。

 
いや~、爽快爽快!
これで寝坊さえしてなければ・・・
 
小城からは、国道203号線、国道207号線、国道208号線と渡って佐賀市街の南へ向かいます。
字で書くと何やらややこしそうですが、実際はほぼ道なりに真っ直ぐで、208号線へ入る交差点を曲がるだけ。
非常に楽なルートです。
そして、佐賀城の南から赤松小学校を目指して左折し、赤松小学校のところを右折すれば、水ヶ江城跡。
龍造寺家兼、龍造寺隆信という名将、猛将を輩出した水ヶ江龍造寺家の城です。

ちょうどこの日、その赤松小学校では運動会が行われていました。
よく見ると、整列してるのは大人ばかり。
どうやら地域の運動会のようです。
自分が幼い頃に住んでいたのは、かつての城下町で、小学校の運動会の中にもそういう地域対抗の種目がいくつかあったのですが、今住んでいる場所は新興住宅地で、そういうものはありませんでした。
なので、地域対抗というのが非常に懐かしい響きなんですね。
この地区は、更に小学校の運動会の中だけじゃなく、地域対抗の運動会が存続してるというのが古き良き時代を感じさせて非常にいいですな。
旧市街ならではの光景。
地域の繋がりがまだまだ残っているんですね。

運動会の喧騒を横目に、赤松小学校から東へ向かうと、細い道をほんの少し北に入った場所に公園があり、ここに水ヶ江城跡を示す痕跡があります。

 
龍造寺隆信公碑と大書された顕彰碑ですが、これがかなり巨大。
まさに、ででーん!という感じ。
肥前の熊さんだけに大きいんですね。
なんのこっちゃ。
この公碑の左奥、写真でもちょっと見えていますが、ここに龍造寺隆信胞衣塚というのがあります。

 
産湯の井戸などと意味的にはほぼ同じですな。
大きな公碑よりも、この塚の方が重みがあるように感じるのは気のせいでしょうか。
ちなみに、現地では城の縄張に関する説明は無く、宅地化されているのもあって辿りようも無いんですが、帰って調べてみたところ、市の資料にいいものがありました。
https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s26052_20101216041834.pdf
これを見ると、江戸時代は武家屋敷や寺院敷地に転用されていますが、佐賀城の総普請ではそれほど改変されず、城の原型は残っていたようですね。
 
念願の水ヶ江城に行けたので、機嫌良くバイクを止めていた公民館の駐輪場まで帰ってくると、ぞろぞろと小学校から楽器を抱えた学生が。
今からバスか何かでコンクールにでも向かうのかな?なんて思ってると、公民館の駐車場に雪崩れ込んでくる・・・
そうか、運動会に演奏しにきてたのか。
で、楽屋になってると思われる公民館に入っていくのか、と思いきや、なんと駐車場で思い思いに休憩してる・・・
数多の中学生の中にオッサンがぽつん。
出発準備しにくいわ!
 
つづく
 
参考:
千葉城
水ヶ江城

地図付きにこちら
 

2015年6月22日月曜日

阿蘇・佐賀ツーリング その9

前回のあらすじ

今回の柳川は雨が降ってなくてよかったわ(^^)
そういえば松田聖子って蒲池氏の末裔だっけ?
 
蒲池氏所縁の柳川城、蒲池城を訪れた所で、ついに日の入時刻。
さて、これからどうするか。
宿は素泊まりで予約してあって、島原半島経由の予定だったから、21時頃の到着予定と連絡してあるわけで。
でも、今から行ったら18時に着いてしまう・・・
ん~
よし、嬉野は行っとくか

と言うわけで、本来の予定では竹崎城の次に寄る予定だった嬉野温泉へ。
鹿島城も寄っとく?なんて思ったが、どう考えても暮れ切った時間になると思うので、そこは断念しました(^^;)
柳川付近は、有明海沿岸道が国道208号線のバイパスになっており、そこを有り難く利用。
最終の大川I.C.からは南下して県道18号線を使い、筑後川、早津江川を越えて国道444号線へ。
うむ。
444とはかっこいい。
いや、そんなどうでもいい印象は置くとして、この道、有明海の沿岸部の田園地帯を通っているのですが、雰囲気がいいですね。
車も少ないし。
薄暮の状態なので、ちゃんとは味わえなかったんですが、視界の広さもあり、昼間に是非走ってみたい道です。
あぁ勿体無い。
そうこうしている内に、国道207号線に出て、鹿島市街に入り、嬉野へ。
鹿島市街でご飯を食べておくかどうか迷いましたが、混む時間にも差し掛かってるのでスルー。
山道に入って暗闇で方向感覚を失いつつ、ひたすら走っていると、市街地らしき街明かりが。
山道から街が見えてくる演出が、人里離れた温泉と言う感じでいいですね。
実際には結構大きな温泉街で、あまり鄙びてないんですけども(笑)
嬉野温泉に泊まるわけではないので、目指すのは共同湯のシーボルトの湯。

 
到着したのが丁度19時だったので、すっかり夜の風景。
なかなか趣がありますな。
実は、嬉野温泉に来たのには理由があって、かれこれ20年以上前に1度来てるのですが、温泉に関しての記憶がほとんど無かったからなんです。
当時はまだまだ子供で、温泉に大して興味が無かったので仕方の無いことなんですが、行った事だけは記憶にあるので、自分の中の温泉の印象というのをアップデートしておきたかった。
そんな感じです。
浴感としては、湯自体は素直感じですが、重曹泉の特有のややぬるつきのある滑らかな湯。
日本三大美人湯ですからね。
これは自分も美人になってしまいますな。
・・・
・・・
(笑)、っと。
冗談はさて置き、この施設、周辺の店から出前が可能なようです。
休憩スペースもしっかり備えられていて、川沿いの景色も見れますし、かなりいい感じ。
昼間で時間があったなら、出前頼んでも良かったなぁ
 
嬉野温泉を出たのは20時前。
温泉から長崎道のI.C.まではすぐなので、そのまま長崎道に入り、多久西のP.A.で夕食。
ざっと見ると、「ありたどり」なるものが名物らしい。
うむ。
ありたどりの唐揚げ定食を食してみるとするか。
・・・
おい。
予想以上にうまいやないかい!
いや~、名物なんてスルー上等な旅行が多いんですが、これは当たり。
うまかったです。
なんと言うか、高級ぶってないというか、普通に1段上の美味しい唐揚げで、そこが良かった。

長崎道を多久I.C.で下りて、そのまま国道203号線を東進し、ひと山越えれば宿を取っている小城です。
宿泊するのは、小城温泉がある開泉閣という一軒宿の温泉。
鯉の洗いが名物らしいです。
ネットで取ったプランでは、男性専用という完全ビジネスプランで、どんな部屋なんかと逆に楽しみにしてたんですが、通されたのは普通の部屋。
確かトイレ洗面無しだった気がするけど、見たら普通にある。
どう考えても、プランの部屋じゃないよな・・・
宿の都合やろけど、取り合えず得したわ(^^)
そして、荷物の片付けも早々に、温泉へ。
加温の単純温泉だけに、シンプルな浴感ですが、みんな入るような時間は過ぎてるので完全に貸し切り。
グダグダしてても泳いでても自由だ!
いや、ええおっさんなんで泳ぎませんけどもね。
ちょっとしか。
 
つづく
 
参考:
嬉野温泉
小城温泉

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2015年6月18日木曜日

阿蘇・佐賀ツーリング その8

前回のあらすじ

13年越しの野望、鷹ノ原城 完結!
 
南関からは再び九州道に戻って北上し、みやま柳川I.C.へ。
下りてそのまま西へ進むと国道443号線に出るので、突き当りまで直進して、右折。
この突き当たりの部分は工事中で、有明海沿岸道路というのが建設中らしい。
確かに鳥栖や久留米を中心に十字の交通網は昔から要道として発展してるけど、筑後川という天然の遮蔽物もあって、沿岸を結ぶ道が国道208号線しかないっぽい。
国道3号線も九州道も内陸側。
そりゃ混みますわな。

ゆくゆくは側道になるであろう道を少し走り、国道208号線へと左折し、更に柳川市街地に向けて左折すると、柳川城跡の柳川高校と柳城中学校に面する道に出ます。
この道は広い道なのでバイクを止められず、一旦裏側に回って止め、柳川城の散策をば。
ただ、城の遺構は学校の敷地内にあって立ち入りに許可がいると思われるので、両校の間の道を歩いて石垣と天守台を確認しました。

 
こうやって見ると風情がありますが、縄張図を見る限り、本丸と二ノ丸は塀で区切られていたのみで、両校の間に少しだけある堀はどうも後世のものらしい。
風情ありすぎて騙されそう(笑)
柳川城の痕跡は、川下りに使われる水堀が主なもので、平地だけにそれ以外の遺構は都市化の為にほとんど残っていないようですが、前に来た時は堀沿いに○○城門跡といった石碑を見たので、細かく散策すれば色々と痕跡は示されていると思います。
でも、今回は前回見逃した天守台が目当てだったので、これだけでOK。
天守台といってもこんな風に低くなってしまってますけどね。

 
でも、実際に見たという感慨は十分ですな(^^)
 
さて、次は柳川城主だった蒲池氏の発祥となる蒲池城。
柳川とは、ご近所でありがたいですな。
しかも、柳川高校の東側の道を北上すると到着するという有り難い場所。
土地勘の無い人間には有り難いですな。
何回有り難い言うとんねん(笑)
でも、写真を見ると解りますが、夕景迫る中の城探しというのは焦るものなのです。
少し迷って時間を喰ったりすれば、散策も思うようにならないぐらいあっと言う間に暗くなる秋の夕刻。
探す手間が掛からないというのは、本当にありがたい。

柳川高校から北上する道は、国道208号線との交点を境に国道385号線となりますが、南北を結ぶ幹線国道として、現在は拡幅が図られているようです。
蒲池城の城址碑は、拡幅の為に旧道のすぐ横に造られた新たな国道385号線のすぐ東側にあります。

 
この城址碑の周辺をぶらっと走ってみると分かるんですが、辺りはクリークだらけ。
この城が蒲池氏の本城だった時代も、各郭をクリークが囲う佐賀平野特有の城の形態だったんでしょうね。
クリークと平地なんてどうとでも手が入れられるから、江戸時代には格好の開拓場所になったと思われ、遺構の類はありませんでした。
まだ、当時を連想できるだけの雰囲気は残っていますが、これも新しい国道が開通してしまうと、いずれ大規模店の出店が進んで景色が一変してしまいそう・・・
しょうが無いことなんですが、なんとはなしに寂しい感じがしますね。
 
つづく
 
参考:
柳川城
蒲池城

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2015年6月12日金曜日

阿蘇・佐賀ツーリング その7

前回のあらすじ

ふむ。
いつものごとく予定が押してフェリーの時間に間に合わず。
予定詰め込みすぎ!
 
九州道菊水I.C.からは、サクッと北上し、次の南関I.C.まで。
そして、1kmほど走れば、南関の旧市街に到着。
懐かしいですな。
13年前に来た時は1日中雨で、鷹ノ原城を探したものの探し当てられず、この近くで昼ご飯を食べた記憶が。
あれは道の駅おおむただったかな?
過去の旅日記を見返してみると逆で、昼ご飯を道の駅おおむたで食べて、鷹ノ原城を探したらしい。
おっさんにもなると記憶も適当やねぇ
びちゃびちゃのカッパで小奇麗なレンストランに入ったのだけは恥ずかしくて明瞭に覚えてるけども(笑)
とりあえず大まかな位置は把握してるので、適当に旧市街を走ってみると、鷹ノ原城やその麓の南関御茶屋という表示が何ヶ所かに出てきます。
あれ?これを見逃したん?
とは思ったが、あれから案内表示が整備されたのか。
それとも、雨で探す集中力が切れていたのか。
できれば前者と思いたい。
いや、思い込んでおこう(笑)

鷹ノ原城と南関御茶屋は、宿場町の面影を残す南関の町並の北西側にあります。
麓に江戸時代の参勤交代の際の休息場所であった御茶屋、そしてその後背に鷹ノ原城。
鷹ノ原城へ向かうと、まず南関御茶屋跡があります。
こちらはほぼ跡地のみ。

 
ここから登っていく途中には、石塁なんかもあります。
ただ、当時の石垣か後世のものかはちょっと判断がつきませんでした。
鷹ノ原城の築城は関が原の合戦後なので、城の石垣としてはローテク過ぎるような気も。
戦国時代中頃と言われれば納得できそうな感じやけど、その頃は城はまだ無いという。

 
鷹ノ原城は、一国一城令と、恐らく九州の諸城と同じように島原の乱の後にも破城を受けているので、綺麗さっぱり壊されたらしく、残る遺構は発掘されたものばかりです。
石垣の基壇部が発掘されたまま露出展示されているので、縄張を追うことが出来ます。
この桝形の石垣なんかは判り易いですね。
手前の岩と向こうの石垣基壇、そして隅部が見え、桝形の形が浮かびます。

 
圧巻は本丸と三ノ丸の間の堀跡。
総石垣だったはずの堀と、崩された石材が散乱していて、なかなかダイナミックです。

 
最後に城址碑。
城址碑が一番貧弱に見えるのは何故?
木製なのがいかんのか。

 
取り敢えずは、長年の行きそびれた心残りを解消できて満足ですわ(^^)
さて、これで熊本は終わり。
柳川へ向かうぞな。
 
つづく
 
参考:
鷹ノ原城

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2015年6月5日金曜日

阿蘇・佐賀ツーリング その6

前回のあらすじ

菊池城はちょっと物足りなかったぜぇ。
隈部館は想像以上だったぜぇ。
 
秋の日は釣瓶落としなんていいますが・・・
まだ14時台ってのに、視界が夕刻っぽい・・・黄色いんっすよ!
すぐ陽が落ちてしまうという脅迫観念があって、秋の午後のツーリングは妙に心が焦りますわ・・・

隈部館を出て、次に向かうのは城村城。
この城は隈部館のほぼ真西10kmほどのところにあり、それほど離れているわけではありません。
しかしながら、主要道で東西に走ってる道が無い。
なので、無理やり生活道路を縫って西へ進む事になるわけなんですが、これがねぇ、結構危ないんですよ。
今まで色んな場所で迷ってきましたが(オイッ)、こんなショートカットを試みた時が一番危ない。
最近はスマホですぐ現在位置を確認できるから大事故は少ないですが、昔は小一時間走った挙句に目的地から遠ざかってるなんてこともありました(苦笑)
今回は、五郎丸という小地名を手掛かりに、そこから西へ入り、県道と川を越え、結構長いトンネルを通る、という計画。
えらい大雑把な説明やな(笑)
でも、県道ですらない上にランドマークも無いので、こんな感じでしか頭に入れられません。
で、結果から言うと、
ほぼ迷わず!
ほぼかい!というツッコミは置くとして、トンネル、首石トンネルという名前らしいですが、ここまでは自画自賛したいくらい完璧!
何せ信号が無いので、途中でスマホを確認する事も無かったわけですが、完璧。
しかし、トンネルに到達した事で気が緩んだのか、トンネルを抜けた先の三叉路で間違って左折してしまいました・・・
どう考えても方向がおかしいと数100mで気付いてUターンしましたが、危なかった。
で、国道3号線を越えて、更に岩野川の向こう側に城村城があるわけですが、あとはアドリブで。
何せ事前に予習した範囲では、ほとんど道らしい道が無い。
周辺はみんな田園の農道レベル。
車のギリギリ通れる未舗装の道の可能性も考えてました。
ま、そういう道でも行けるバイクなんですがね。
幸い、近々に圃場整備されたのか、割と新しい舗装道だったので、躊躇せず当てずっぽうで農道を選んで川沿いの台地に入っていくと、城村城の案内板を発見できました。
いや~良かった良かった。
 
城村城主だった城氏は(ややこしいな・・・)、肥後守護の菊池氏の庶流で、隈部館の主だった隈部氏や同じく菊池一門だった赤星氏と並び、菊池三家老と称された家でした。
名前から解るように、この城村一帯が名字の地です。
後に菊池本家が衰退し、菊池家臣団は豊後大友氏から義武を当主に迎えるのですが、この義武が大友氏からの自立を図った為、菊池三家老は大友氏に味方し、義武と対立しました。
この義武の逐電以降、菊池氏の当主は立てられず、大友氏が肥後守護職をも務めるのですが、大友氏に味方した功で、城氏は隈本(熊本)へと移り、後に城村城は隈部氏の城となっています。
義武が本拠とした海側の拠点は城氏が、菊池氏歴代の拠点である山側の菊池城は赤星氏が封じられているのですが、これは大友氏が、菊池氏の庶流として両家を後継者的な位置付けに置いたということなんでしょうかね。
一方で、隈部家の大友氏における位置付けは気になるところでもありますが。
いずれにせよ、このような経緯で城村城は隈部氏の持ち城となり、紆余曲折を経て隈部氏は龍造寺、島津、豊臣と主を変えて生き残ります。
しかし、肥後の太守として赴任してきた佐々成政の検地には従わず、隈部氏の叛乱を契機として肥後の国人一揆が勃発するわけです。
当初、隈部氏は赤星氏と争って獲得した菊池城に籠もって戦ったのですが、やがて菊池城を放棄してこの城村城に入り、ここで領民と共に約4ヶ月に渡って籠城しました。
ここは、肥後国人一揆の争乱の中心たる城なのです。

現在の城村城は、廃城後に開墾された為、農地となっていましたが、今は耕地ではなくなっています。
草も刈られているので、地域の方が整備されているんでしょうかね。
前述の細い農道から農地へ斜めに上がる道があり、そこを登れば二ノ丸。
そこから振り返れば、先ほどの農道を挟んで三ノ丸が見えます。
写真で言えば、手前の農地が二ノ丸で、その向こうの畦っぽく見えるところが農道。
道は堀切を利用したっぽいですね。
そして、その向こう側が三ノ丸。

 
本丸と二ノ丸の間には段差があり、堀切跡の窪みも残っていました。

 
そして本丸。

 
中央に白い四角が見えますが、ここに城址碑と案内板があります。
案内板には、肥後国人一揆の際の陣図が載っていました。

 
ちょっと小さくて見難いですが、本丸~三ノ丸のほかに、太郎丸、五郎丸、出丸という郭があり、6つの虎口があったことが読み取れます。
そして、大手は南の原口で、桝形を持ち、今回通ってきた農道は、かつては岩地蔵口と呼ばれていたようです。
さすが1万8千が籠もったと言われる城だけに全体で見るとかなり大きいですね。
現在の城という集落全体が城地でした。
また、城村城は台地上にあるのですが、その中腹や麓にも腰郭と言うべき削平地があったようです。
案内板の近くに、下ノ段としてその表示はあります。

 
一応矢印はあるんですがねぇ
どこに道が?
こんな本格的な藪は久々に見ました(笑)
 
城村城を出たのは15時。
城村城の写真を見ても分かるように、夕暮れが近いような色模様。
兎にも角にも、取り合えず国道443号線に出て県道を縫いながら西へ。
予定、というか希望的観測では、時間があれば南関の鷹ノ原城に寄って長州からフェリーで島原へ、なんて事も考えてましたが、どう考えても長洲へ直行して尚、予定便にすら間に合わん・・・
毎度毎度の事ながら、予定が押します(^^;)
菊水I.C.まで来た所で、コンビニでフェリーの時間を確認。
んーー・・・
予定便は確実に間に合わないのはいいとしても、次の便すらかなり危うい・・・
諫早のギロチンや竹崎城リベンジは惜しいが、やむを得ぬ。
ここで急遽予定変更。
この辺りが一人旅の利点ですな。
島原や諫早は丸っと今後へ持ち越し、鷹ノ原城経由で明日寄る予定だった柳川城、蒲池城へ向かう事にしよう!
という訳で、Uターンして九州道だ。
 
つづく
 
参考:
城村城

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