2013年11月26日火曜日

大返し飯

このブログ最初のコメントが、西播磨観光協議会からのコメントだったわけですが、お誘いいただいたブロガーツアーは、ツアー予定日に私用があって申し込めませんでした。
23日の勤労感謝の日のバーモンドファミリーウォークなるものに当選した為、23日を空けるべく17日に私用を入れたんですが、それが仇となってしまうとは・・・
ウォーキングイベントは姫路なので、西播磨観光協議会の趣旨には合う?
合うなら次回のウォーキングイベントのブログで勘弁してもらいますか(^^;)

こんな過疎ブログにコメントしていただいたのに申し訳ないなぁと思いつつ、ツアーの予定表を見ると、姫路、龍野の観光がメインだったようですね。
姫路や龍野はもう何回も行ってるのでヨシとして、気になるのは昼食の「大返し飯」・・・
大返し飯だと?
まさか・・・大返しの時の飯を再現したのか?
んなわけない(笑)
握り飯とお茶という、日の丸弁当に匹敵する昼食では半分罰ゲームや・・・
当時の武士のご飯を再現したものなら食べてみたいんですが、残念ながらちょっとググった程度では出てこなかった。

この昼食のモチーフとなった秀吉の大返し。
結構謎に包まれてます。
現在の自衛隊が武器を装備した状態で再現しても出来ないとかなんとか。
まぁ移動手段が足だった時代、江戸時代でも普通の人は1日10時間40kmを歩いたといいますから、頑強な兵士なら可能なのかも知れません。
沿道の農民に炊き出しをさせる、足の速い部隊を先に出して行軍の渋滞を避けつつ後続部隊の為の準備をさせる、なんかの工夫はもちろん有ったはずですけどね。

秀吉は、過去の奇策を何回か用いるということをしており、墨俣一夜城を成功体験に九州の益富城や小田原の石垣山城で一夜城を演出しています。
そして、この大返しも、賤ヶ岳の合戦の際に岐阜から賤ヶ岳まで軍を戻した時に使っており、佐久間盛政を慌てさせて序盤の優勢を得ています。
どちらも、事前準備をきっちりやって電光石火に実行、というのは同じで、秀吉の管理能力の凄さが解る事跡ですね。

2013年11月19日火曜日

民間議員

昨日、楽天の三木谷社長が産業競争力会議の民間議員の辞意を撤回するという記事がありました。
この辺りの事情は、

三木谷さん 「医薬品のネット販売全面解禁を!」
政府     「う~ん、やっぱ一部規制するわ・・・」
三木谷さん 「もう民間議員辞めるわ(怒) あと、ケンコーコムと共闘して裁判するで」

という流れがあって、首相が慰留した結果の辞意撤回です。

まぁなんと言うか、ちょっと違和感がありますな。
民間の有能な人間を会議に招聘するのはもちろんいいのですが、様々な議題の中で利害関係者となる議題に関しては参加すべきでないように思います。
傍から見れば、民間議員という立場を利用した、ただのごり押しにしか見えませんし、そういう利害関係者が参加した会議の結論はどうも中立性というのに疑いの目を向けざるを得ない。
しかも反対するだけならまだしも、訴訟をチラつかせるとか、ちょっとやり方があくどい。

ネット通販は非常に便利かつ合理的で、これからもどんどん拡がっていくのは間違いないと思われます。
合理性が無いのなら問題外ですが、そういう機能的な裏付けがあるのだから、もっと正攻法で行ってもらたいですな。
合理的なものには世論の後押しがあるんやから。

2013年11月18日月曜日

バブル後の対応

近頃、また株価がやや乱高下の気配を見せていますな。
為替、株、共に少し動きが荒い。
金融危機の出口理論とリンクして、思惑が交錯しているようで。

バブルとバブルの崩壊というのは、グリーンスパン元FRB議長も書いてましたが、それ自体は避けるのが非常に難しく、大事なのは事後処理といわれています。
日本では90年代のバブルの崩壊が象徴ですが、直近ではアメリカのサブプライム問題もバブル崩壊ですね。
2006年頃から、すでに崩壊は近いんじゃないかとネットではちらほら言われていました。
このサブプライム問題でFRBの舵を取ったのがバーナンキ議長で、この人はヘリコプターベンという異名を持っています。
なぜそんな異名なのか?

バーナンキ元議長の師匠はフリードマンという学者で、バーナンキもフリードマンも世界恐慌の研究者です。
で、その論はというと、おおまかには、世界恐慌の時にはもっとお札を刷って供給すべきだった、という理論。
この理論に基づき、バーナンキはある席で、恐慌になりそうだったらヘリコプターからお札をばら撒けばいいと言ったとされています。
ここから、ヘリコプターという冠を名前に付けられることに(笑)
実際、サブプライム問題以降のアメリカの金融政策は、QEという量的緩和を推し進めており、その政策はFRB議長だったバーナンキ元議長が主導しました。

日本はバブル崩壊時にどういう対策を行ったかと言うと、簡略的に言えば、財政政策が主ですね。
ハコモノ行政だのなんだのと言われて評判の悪い公共事業です。
ただ、投資としては乗数効果、つまり投資した何倍の国民所得が得られるかという数字が高く、悪い選択ではありません。
日本人の国民性からして、直接給付金としてばら撒いたのに貯め込まれるよりは遥かにマシです。
ただ、それに頼りすぎたきらいはあります。
また、色々批判されたのは、政治的な絡みも多かったようにも思います。

財政と金融。
経済学の素人である自分には、なかなか理解するのも難しいですが、バブルで上がりすぎた不動産や株に対し、アメリカはサブプライム問題でお札の価値を減らして物価などを上げるという金融中心の政策を採り、日本は実体経済を底上げしようと財政中心の政策を採った、というところでしょうか。
上がりすぎた値は、適正価格まで崩れるのが摂理。
崩れれば、その差額が不良債権となります。
逆資産効果という言葉もありますが、売却損や含み損は個人消費などを冷え込ませてしまいます。
その適正価格を、貨幣の希薄化でバブルの基準近くまで上げようとしたアメリカ、実体経済の底上げで値を支えようとした日本。
端的に言えば、こんな感じですかね。
バブルの頃に株に投資していた日本人はそう多くは無く、アメリカでは一般の人々が単純な投資以外でも個人年金などで突っ込んでるという場合も多い、という違いもあります。

財政と金融のバランスというのは難しいはずなんですけど、アメリカがこの年月で回復の道筋が見えるところまで漕ぎつけていることを考えると、それなりに最善に近い政策を打って来れたのではないかと感じます。
ただ、時間は不可逆で、違う方法を試すことは不可能であり、最善だったかどうかは不明です。
未だに金融危機を先延ばしして揉めている欧州なんかを見ると、震源地のくせにさすがだなと思わずにはおれません。
日本は前例が少ないというハンデがあったにせよ、バブルの後処理に関しては、金融の経験も知識も豊富だったアメリカが日本や欧州よりも優秀ですな。

2013年11月11日月曜日

魚住泊

先日、神戸新聞に明石市魚住の湊の遺物の年代が確定したというニュースが載ってました。

魚住、そう魚住。
個人的には非常に馴染みの深い場所ですな(笑)
なぜ馴染みが深いのかは置いておくとして、ぶっちゃけ、田舎です。
正確にカテゴライズするなら、郊外。
まぁ魚住という言葉から判るように、かつての中心部は海沿いだったんでしょう。
今はJR魚住駅が中心ですけどね。
そのかつての中心だったと思われる魚住の海沿いというのは、旧山陽道の町並みなんかも残ってて、ぶらっと散歩したりサイクリングしたりするのにかなり良いです。

そこに湊があったなんていうのは、自分も魚住城について調べて初めて知りました。
それぐらい、過去に湊があったという面影がない。
でも古代には確かに魚住泊という湊がありました。
この湊を開いたのは、あの有名な行基。
この人、大層な土木家で、全国各地、池を造るわ湊を造るわ寺を造るわ、探せば恐ろしいほどの伝説が出てくるという奈良時代の土木王。
いや、王と言っても鉄鋼王や石油王というような金持ちじゃないんですけどね(笑)
常にボランティア。
さすが坊主!現代の生臭坊主は見習いやがれ!
・・・という鬱憤はさて置き、行基が開いた摂播五泊というのがありまして、そのひとつが魚住泊なんですな。
東から並べてみると、河尻泊、大和田泊、魚住泊、韓泊、室生泊。
現在の地名に直すと、神崎川河口、兵庫港、魚住、姫路的形、室津です。
並べると、その後の格差が酷い・・・
神崎川河口部は言わば尼崎で、大物なんかも含まれます。
「オオモノ」じゃなく「ダイモツ」。
両細川の乱が終結した大物崩れと言うのが有名ですけど、その頃も大きな港湾都市で、今も尼崎の工業地帯として名残を留めてます。
大和田泊は兵庫津、今の兵庫港で、古代から中世にかけても日本有力な港湾都市でした。今も三菱重工、川崎重工のある船の町です。ただ、造船は昔に比べればちょっと勢いが無いですけど・・・
この2つが古代から現代までの現役組ですな。
次が近世まで栄えてた室津と韓泊。
平清盛の大河ドラマでも出てきてましたが、戦国時代には浦上氏の拠点があり、江戸時代にも繁栄してました。
韓泊も瀬戸内の重要な港で、鎌倉時代には兵庫に劣らず繁栄していたという記録が残ってます。
ただ、この2港は山がせり出して風避けになる天然の良港ではあるけど、規模が小さく、後背の平野が少ないという共通点があります。
近代の陸上交通の発達は平野部が有利となり、大規模輸送を可能とした物流手段の進化は船の優位性を奪いました。
こうして近代化に取り残され、いまは鄙びた町になっています。
正確に言えば、隣接する相生港や姫路港にそれぞれ吸われたんでしょうな。
鉄道と接続できない港は栄えることが出来なかった、と。
とは言っても、室津なんかはその頃の遺産で観光地化できてますけどね。

翻って魚住。
嗚呼魚住。
平安時代までの記録はあるけど、そこからが不明瞭・・・
戦国時代には魚住城があり、赤松さんの分家の小寺さんの、そのまた分家の魚住さんが住んでいました。
秀吉が三木城を攻めた時、魚住城に荷揚げされた兵糧が運ばれた話は有名で、三木城の有力な補給線のひとつでした。
包囲する秀吉軍から三木城の新鮮な明石鯛が見えた、なんて話もあります。
ただ、荷揚げということは、港湾施設はなんとかあったようだけど、物流でどの程度の重要性があったかというと、不明としか言いようが無い。
古代に比べれば確実に寂れていたでしょう。
というわけで、摂播五泊の中で、一番早く寂れてしまったのは魚住なのでした。
個人的には好きな所やけど、湊としては需要が無かったな・・・
ちなみに、魚住さんのその後はというと、補給線潰しで数の暴力に曝され、あっけなく落城して滅んでしまいます。
しかししかし、家老だった卜部さんがほとぼりが冷めた江戸時代に魚住へ戻ってきて、酒造業を始めます。
これが今の江井ヶ島酒造の原点。
没落したと言っても酒造業なんか資本が要るから、ある程度の利権は手放さんで済んだんやろな~
この世渡り上手!

話を戻すと、魚住泊というのは地質的なものなのか、壊れ易かったらしく、幾度か修復の記録が残っています。
今回、年代が測定された木材は、港湾の堤防の基礎を構成した部材と見られ、人による加工が見られるもの。
この部材の年代が、10世紀初頭に伐られた木材ということが判明しました。
記録上では、延喜14年(914)に魚住泊の修復が論じられており、この時の修復材とするなら年代が合致します。
これが出土したのは赤根川の河口で、これにより魚住泊の場所もほぼ特定できたとのことです。
なるほど、魚住泊の直系子孫にあたるのは江井ヶ島港か。
しかし、普通の漁港で、
やっぱり面影なし!

2013年11月5日火曜日

江戸時代と米 その2

長くなってしまった前回の続きで徒然に。


江戸時代となり、合戦をすることが無くなると、各藩は余ったリソースを開拓開墾に向けました。
こうして江戸時代前期から中期にかけて猛烈な新田開発が進むんですな。
各藩は、合戦に備えた動員体制をスリム化せずに行政組織へと転じたわけですから、仕事を創るという公共事業的な側面もあったと思います。
また、米本位制の武家社会では、新田開拓は事業拡大ですから、米を払う藩政府側としては収入が増えてありがたいわけです。

大名家の石高は表高(オモテダカ)と呼ばれていました。
これは江戸時代初期の石高です。
現在で言うところの地価の評価額が近いかな。
大名の実際の収入はと言うと、実高(ジツダカ)や内高(ウチダカ)と呼ばれていました。
地価で言えば実勢価格というやつです。
各藩は新田開発をしていましたから、大抵は表高より実高のほうが多かったのですが、山間部の小藩などでは、実高のほうが低かったという場合もありました。
大藩では新田開発の規模も大きく、江戸時代末期には表高と実高が2倍以上も違う藩すらありました。
幕末の長州藩なんかはその典型で、それが志士の活動の経済的バックボーンになったといわれています。
それはさておき、時は大増産時代。
「米穀王に、俺はなる!」
と言った藩主がいたかどうかは知りませんが、各藩は増産で得た米をせっせと大坂の米市場に送って金銀を得ていました。

前回で、武家社会は米本位制と言いましたが、商人の世界は違ってました。
商人の世界では、関西は銀中心、関東は金が中心の金銀本位制でした。
当然、米を給料としてもらう武士は、生活していく上で金銀を基にした貨幣に交換しなくてはなりません。
時は大増産時代。
「米k・・・(略)」
大坂の米相場に大量の米が送り込まれる時代になると、人口も増えたとは言え、供給が多いわけですから値崩れが起こります。
すると武士が手にする実質的な賃金は少なくなってしまいます。
これが江戸時代の貧乏武士形成の一端でした。
根本的には、市場経済や貨幣経済の発達で、一次産品である米本位制より金銀本位制が有利になったいったというのもあるんですがね。

江戸時代というのは、武士という支配者層の比率が高い時代でした。
そして、その生活はというと、被支配者層とあまり変わらない生活で、零細武家では内職や畑仕事というのが当たり前。
お金で威張れないから、名誉と誇りを重んじる。まさに、「武士は喰わねど高楊枝」。
江戸時代に完成した武士道という価値観には、こんな側面もあるわけです。
ヨーロッパの騎士道は、ナイトという領主層、言わば富裕者に課せられる義務のという側面があり、その名残がある欧米では、今でも富める者は寄付をして当たり前というような習慣があります。
金持ちなんだからそれなりの規律と社会貢献が求められる、と。
しかし、武士道では富裕でもない者にも規律や誇りが求められました。
そして、失敗や粗相をすけば切腹など、高潔な命をもって贖う。
こういう支配体制っていうのは、世界的に見てもかなり珍しいんじゃないんでしょうかね。
実際の経済的見返りが少ないのに、責任はとんでもなく重大なのです。
中には、やってらんねぇと武士を廃業する人も結構いたんですがね(笑)
経済体制を見ても、江戸時代は、米本位制と金銀本位制の2本立て、場合によっちゃ関東と関西での金本位制と銀本位制の並立を入れて3本立と考えることも可能で、江戸時代というのは色々面白い時代ですな~