数日前の新聞に、神吉城跡に建つ真宗寺の本堂が立て替えになるとの記事があった。
この本堂は真宗寺の本堂として使われる前はどこか別の場所にあったらしく、真宗寺の本堂として移築されたらしい。
歴史としては400年程度は遡ることができるとのこと。
400年前と言えば江戸時代が始まった頃。
神吉城が三木合戦で秀吉を始めとする織田軍によって落城したのが天正6年(1578)なので、戦の記憶も朧気になって、そろそろ城跡の有効活用でも考えようかという頃ですかね。
400年という古さは結構なもので、各地の寺社を見て回ると、古そうに見えても江戸時代ぐらいに建った建物というのが多い印象です。
あくまでも個人的感覚ですが。
ヨーロッパと違って木造の宿命か、どうしても落雷や戦火で焼失というのが多い。
そして、必然的に平和な時代の建物が多くなる、と。
何が言いたいかというと、こんな無名の寺にも400年遡ることができる歴史が無造作にある日本って凄いな、ということですね。
神吉城も場所はずっと前から知ってるし、近くを何度も何度も数え切れないくらい通ってるのに行ったことが無いですな~
志方城と合わせて、いずれ訪れねばならぬ!
2013年8月30日金曜日
2013年8月24日土曜日
100人のブロガー大募集 続報
応募からしばらく経った昨日、事務局から返信がありました。
結果は・・・
当選!
いやいやいや、まさか当たってしまうとは!
こんなペーペーブロガーが当たってもいいのでしょうか(笑)
旅行エリアは淡路!
こんなことがないとなかなか行けない淡路。
いい機会かもしれませんな~
提案したのは、丹波鬼・丹波の青鬼・丹波の赤鬼・荒木鬼という戦後時代の鬼を網羅する丹波の山城弾丸登山ツアーだったんですが、それはまたの機会ということで・・・
いや~、これからプラン作りに取り掛からなくては!!
結果は・・・
当選!
いやいやいや、まさか当たってしまうとは!
こんなペーペーブロガーが当たってもいいのでしょうか(笑)
旅行エリアは淡路!
こんなことがないとなかなか行けない淡路。
いい機会かもしれませんな~
提案したのは、丹波鬼・丹波の青鬼・丹波の赤鬼・荒木鬼という戦後時代の鬼を網羅する丹波の山城弾丸登山ツアーだったんですが、それはまたの機会ということで・・・
いや~、これからプラン作りに取り掛からなくては!!
2013年8月17日土曜日
ペルセウス座流星群
夏のバイクは、それはもう暑いわけです。
「バイク乗ってたら涼しいやろな~」
「夏は気持ちええやろ?」
夏のツーリングで何度と無く掛けられた言葉。
さにあらず。
走ってる時は、まぁ暑くはないかな?という程度。
止まると地獄。
渋滞なら周りの排気熱も混ざって煉獄。
緩衝材兼断熱材のヘルメットを頭に装着し、胴体の下には爆発機構を備える物体に乗るのだから、暑くないわけはない。
ということで、夏は早朝の涼しい時期に乗るのが快適です(笑)
しかも今年は、月も無くてペルセウス座流星群の観測には最適らしい。
これを理由にしない手は無い!
8月13日。午前3時半。
寝坊した・・・
観測しやすい北へ向かう間に見えるかもと期待したが、それも叶わず・・・
結局、西脇の日本のへそ公園で観測できたのは1個だけ・・・
夜明けが早いっすわ~
ま、気持ち良く走れたので良しとするか(笑)
「バイク乗ってたら涼しいやろな~」
「夏は気持ちええやろ?」
夏のツーリングで何度と無く掛けられた言葉。
さにあらず。
走ってる時は、まぁ暑くはないかな?という程度。
止まると地獄。
渋滞なら周りの排気熱も混ざって煉獄。
緩衝材兼断熱材のヘルメットを頭に装着し、胴体の下には爆発機構を備える物体に乗るのだから、暑くないわけはない。
ということで、夏は早朝の涼しい時期に乗るのが快適です(笑)
しかも今年は、月も無くてペルセウス座流星群の観測には最適らしい。
これを理由にしない手は無い!
8月13日。午前3時半。
寝坊した・・・
観測しやすい北へ向かう間に見えるかもと期待したが、それも叶わず・・・
結局、西脇の日本のへそ公園で観測できたのは1個だけ・・・
夜明けが早いっすわ~
ま、気持ち良く走れたので良しとするか(笑)
2013年8月12日月曜日
100人のブロガー大募集
新聞でこんな記事を発見。
兵庫のお城を巡るブロガー大募集!
なぬ!?
なんと、お城を巡ってブログに書くと補助や特典が頂けるとな?
なんて俺得な企画!
しかし、問題点が・・・
俺ってばブロガーとしてはペーペー(笑)
まだ始めて4ヶ月しか経ってない・・・
Mottyの旅日記では週3000PV程度はあるというのに!!
まぁ当たるも八卦、当たらぬも八卦(違)という感じで応募だけはしてみますかね~
兵庫のお城を巡るブロガー大募集!
なぬ!?
なんと、お城を巡ってブログに書くと補助や特典が頂けるとな?
なんて俺得な企画!
しかし、問題点が・・・
俺ってばブロガーとしてはペーペー(笑)
まだ始めて4ヶ月しか経ってない・・・
Mottyの旅日記では週3000PV程度はあるというのに!!
まぁ当たるも八卦、当たらぬも八卦(違)という感じで応募だけはしてみますかね~
2013年8月7日水曜日
知らぬ間に
この前の日曜、V-StromにGIVI箱を載せて、大会の助っ人に呼ばれたので体育館に行ってたんですが、その帰りに駐輪場で声を掛けられました。
「これ650ですよね?」
俺 「はい。そうです。」
「V-Stromっていうやつですよね?」
俺 「そうですよ。」
「大きいですね。」
俺 「そうですね。車格はデカいですね。」
ま、それだけの会話だったんですが、ドマイナードナイナーと言われてるのに、国内販売で結構知名度が上がってるようですな。
ネットを見ると、昔はマイナー過ぎて、見たら雨が降るだの幸運になれるだのV-Strom同士がすれ違ったら何かが起こるんじゃないかとまでネタにされてたバイクが、まさかご指名で声を掛けられるまでになっているとは、驚きです(笑)
「これ650ですよね?」
俺 「はい。そうです。」
「V-Stromっていうやつですよね?」
俺 「そうですよ。」
「大きいですね。」
俺 「そうですね。車格はデカいですね。」
ま、それだけの会話だったんですが、ドマイナードナイナーと言われてるのに、国内販売で結構知名度が上がってるようですな。
ネットを見ると、昔はマイナー過ぎて、見たら雨が降るだの幸運になれるだのV-Strom同士がすれ違ったら何かが起こるんじゃないかとまでネタにされてたバイクが、まさかご指名で声を掛けられるまでになっているとは、驚きです(笑)
2013年8月3日土曜日
国盗り合戦 夏の陣
もう5年ほど、いわゆる位置ゲーと呼ばれる「国盗り合戦」というものをやっとるわけですが、この夏もまた夏の陣が始まりました。
始まりましたと言ってもかれこれ2週間ほど経つわけですが、この夏の陣というのは、決められた全国100のスポットを制覇していくキャンペーンなのです。
で、行けないひとには「あいのり」という機能があって、行く人に相乗りして到達した際のアイテムが貰えるという仕掛け。
しかし、今回は仕事で移動する範囲にスポットが無い。
今回はスポットが城なわけですが、姫路城、伊丹城、黒井城がスポットになってて、ちょうどこの三角形の内側でしか普段は移動しないんです。
ん~~
ひたすら「あいのり」の日々ですな。
でも周りの行けそうな城を拾うべく、ぶらっとツーリングする理由付けにはなるかもね(^^)
始まりましたと言ってもかれこれ2週間ほど経つわけですが、この夏の陣というのは、決められた全国100のスポットを制覇していくキャンペーンなのです。
で、行けないひとには「あいのり」という機能があって、行く人に相乗りして到達した際のアイテムが貰えるという仕掛け。
しかし、今回は仕事で移動する範囲にスポットが無い。
今回はスポットが城なわけですが、姫路城、伊丹城、黒井城がスポットになってて、ちょうどこの三角形の内側でしか普段は移動しないんです。
ん~~
ひたすら「あいのり」の日々ですな。
でも周りの行けそうな城を拾うべく、ぶらっとツーリングする理由付けにはなるかもね(^^)
2013年7月27日土曜日
黒田官兵衛の新史料
昨日、神戸新聞に黒田官兵衛が養子だったという新史料が発見されたと載っていました。
ただ、信憑性は低いようなそんな感じの書き方でしたね。
通説では、黒田家は近江源氏佐々木氏の一流で、近江国伊香郡黒田村を本貫の地とし、室町幕府の奉公衆として足利氏に仕えたとされています。
各代の事跡は、
高政・・・永正8年(1511)の船岡山の合戦で当主であった高政が将軍から叱責を受けて近江を退転。
↓
高政の子重隆・・・逼塞していた備前福岡から播磨に移り、広峯神社の神符を売り歩く御師と組んで家伝の目薬を売り歩き、財を成して頭角を現したという。そして小寺氏に仕える。
↓
重隆の子職隆・・・小寺政職の猶子となって家老を務め、その養女を娶って小寺姓となる。
で、職隆の子官兵衛孝高の登場と相成るわけです。
ただし、これは江戸時代に語られた家系の話で、信憑性にやや疑問符がつく。
江戸時代は家系を作成する専門の職業が成立するほど需要があり、その人達は作成といっても、作るではなく創ったわけです。
つまり、やや難しい言い方をすれば仮冒というやつですな。
「うちの先祖は何処其処の出身だし、そこに所縁がある有名人の○○の子孫ということにしておけばいいんじゃね?」
的なノリで。
まぁトップの徳川将軍家自体がどこの馬の骨かも分からないような出自で、無理やり源氏の世良田さんに繋げてることもあって、出自をどうするかに関しては緩かったみたい。
もちろん当時は公に徳川家を指差して、「あんなん嘘やん」って言えるわけはなかったはずですけども。
そんなこんなで、黒田家の系図もちょっと怪しい。
で、これとは別の系図が播磨にはあるんです。
黒田庄の黒田氏の系図が。
ここには重隆の子として孝高がおり、職隆は元々小寺の人で、職隆の猶子に孝高がなって孝高も小寺を称したとあるらしい。
猶子とは、人の名前じゃなくて(笑)、「猶、子の如し」という意味。
養子よりは弱いけど、子供として扱うよ~という感じですな。
秀吉と宇喜多秀家の関係が猶子で、姓も違ってるが、秀吉は秀家を可愛がり、秀家は秀吉のことを親同然に思っていたはず。
そんな関係。
それと、注目したいのが、重隆の母が佐々木高信の娘になっていること。
おや?
うっす~~いながら繋がりが出てきましたねぇ
佐々木高信がどんな人なのかわからなかったけど、恐らく近江源氏佐々木氏の末流。
性格の悪い自分は、後世の人が、「重隆のおかんの系統は多分佐々木の末流やから佐々木流黒田氏の子孫ってことでええんちゃう?」なんて相談してる姿が浮かびます。
今回の発表は、猶子と養子の違いはあれど、官兵衛の黒田庄黒田氏出身説を裏付ける史料となる可能性があります。
しかも他の新聞なども見てみると、職隆は孝高を子として養い・・・というような言い回し。
原文はどう書いてあるんだよ~~
猶子の概念が一般的に解り辛いので養子という表現にしたのかもしれませんな。
また、史料の出所が孝高の妹婿一柳直末に関する文献という近さもまた、信憑性のあるところです。
佐々木流黒田氏説には、近江から退転した高政という武将が他の史料に出てこないという問題点があり、黒田庄黒田氏説にも、名乗る必要の無い黒田姓で他の史料に職隆が登場するという問題点があります。
そもそも、黒田庄黒田氏は赤松氏の庶流で、赤松氏は源氏の上に室町時代の四職という家柄で申し分なく、確かに古さでは佐々木氏に劣りますが、四職という意味では同格で、仮冒の必要があったのか?という疑問点もあります。
江戸時代の系図作成者から、「そんな細かいところをつつくなよ(汗)」という苦笑いが聞こえてきそうですが、こんなおせっかいも歴史のロマンのひとつですな(笑)
大河ドラマの主役になることで、新たな史料の発掘が進むなら、歴史マニアとしては歓迎です(^^)
参考:
播磨屋
ただ、信憑性は低いようなそんな感じの書き方でしたね。
通説では、黒田家は近江源氏佐々木氏の一流で、近江国伊香郡黒田村を本貫の地とし、室町幕府の奉公衆として足利氏に仕えたとされています。
各代の事跡は、
高政・・・永正8年(1511)の船岡山の合戦で当主であった高政が将軍から叱責を受けて近江を退転。
↓
高政の子重隆・・・逼塞していた備前福岡から播磨に移り、広峯神社の神符を売り歩く御師と組んで家伝の目薬を売り歩き、財を成して頭角を現したという。そして小寺氏に仕える。
↓
重隆の子職隆・・・小寺政職の猶子となって家老を務め、その養女を娶って小寺姓となる。
で、職隆の子官兵衛孝高の登場と相成るわけです。
ただし、これは江戸時代に語られた家系の話で、信憑性にやや疑問符がつく。
江戸時代は家系を作成する専門の職業が成立するほど需要があり、その人達は作成といっても、作るではなく創ったわけです。
つまり、やや難しい言い方をすれば仮冒というやつですな。
「うちの先祖は何処其処の出身だし、そこに所縁がある有名人の○○の子孫ということにしておけばいいんじゃね?」
的なノリで。
まぁトップの徳川将軍家自体がどこの馬の骨かも分からないような出自で、無理やり源氏の世良田さんに繋げてることもあって、出自をどうするかに関しては緩かったみたい。
もちろん当時は公に徳川家を指差して、「あんなん嘘やん」って言えるわけはなかったはずですけども。
そんなこんなで、黒田家の系図もちょっと怪しい。
で、これとは別の系図が播磨にはあるんです。
黒田庄の黒田氏の系図が。
ここには重隆の子として孝高がおり、職隆は元々小寺の人で、職隆の猶子に孝高がなって孝高も小寺を称したとあるらしい。
猶子とは、人の名前じゃなくて(笑)、「猶、子の如し」という意味。
養子よりは弱いけど、子供として扱うよ~という感じですな。
秀吉と宇喜多秀家の関係が猶子で、姓も違ってるが、秀吉は秀家を可愛がり、秀家は秀吉のことを親同然に思っていたはず。
そんな関係。
それと、注目したいのが、重隆の母が佐々木高信の娘になっていること。
おや?
うっす~~いながら繋がりが出てきましたねぇ
佐々木高信がどんな人なのかわからなかったけど、恐らく近江源氏佐々木氏の末流。
性格の悪い自分は、後世の人が、「重隆のおかんの系統は多分佐々木の末流やから佐々木流黒田氏の子孫ってことでええんちゃう?」なんて相談してる姿が浮かびます。
今回の発表は、猶子と養子の違いはあれど、官兵衛の黒田庄黒田氏出身説を裏付ける史料となる可能性があります。
しかも他の新聞なども見てみると、職隆は孝高を子として養い・・・というような言い回し。
原文はどう書いてあるんだよ~~
猶子の概念が一般的に解り辛いので養子という表現にしたのかもしれませんな。
また、史料の出所が孝高の妹婿一柳直末に関する文献という近さもまた、信憑性のあるところです。
佐々木流黒田氏説には、近江から退転した高政という武将が他の史料に出てこないという問題点があり、黒田庄黒田氏説にも、名乗る必要の無い黒田姓で他の史料に職隆が登場するという問題点があります。
そもそも、黒田庄黒田氏は赤松氏の庶流で、赤松氏は源氏の上に室町時代の四職という家柄で申し分なく、確かに古さでは佐々木氏に劣りますが、四職という意味では同格で、仮冒の必要があったのか?という疑問点もあります。
江戸時代の系図作成者から、「そんな細かいところをつつくなよ(汗)」という苦笑いが聞こえてきそうですが、こんなおせっかいも歴史のロマンのひとつですな(笑)
大河ドラマの主役になることで、新たな史料の発掘が進むなら、歴史マニアとしては歓迎です(^^)
参考:
播磨屋
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