2018年8月17日金曜日

飛騨富山ツーリング その15

前回のあらすじ
 
さすがさすがの松倉城!
 
松倉城を存分に堪能して車道を下りてくると、獄門原は祭りの真っ最中で、ちびっこ達がステージでダンスを披露していたり、なかなか盛り上がっていました。
 
 
しかし、こんな山の奥で、これだけの人が来るなんて、なかなか凄い祭りですな。
人の多さに感心しながら、お土産に何か買おうと露店を回ると、松倉饅頭なるものを発見。
お祭りの日の限定品らしい。
何気に饅頭下さいと言ってみると、なんと6個セットしか無い模様。
汗をかいた後に饅頭6個も食べたら唾液全部取られて窒息するわ
バイクに載せても、こんな天気のいい日はホカホカに熱せられて腐敗一直線な気もするので諦めようとした時、店主の人がバラで1個売ってくれました。
ありがたや~
というわけで、今回の戦利品。
 
 
ひと通り歩いて汗をかいた後の甘い物って、美味しいですよねぇ
満足満足(^^)
 
松倉城と祭り会場を後にして、山道を下って行くわけですが、まだ祭りも序盤、狭い山道で次々と上がって来る対向車とすれ違うのも面倒くさいので、違う道から下ることに。
流石に午前中に帰る人も少ないので、スイスイと山道を下って行くと、懐かしい武隈屋敷こと小菅沼城のところに出てきました。
16年前は、松倉城に行けなかったので、この小菅沼城まで来て、気持ちに一区切り付けて満足して帰りましたが、松倉城から下って来ると意外と近く、松倉城の支城、いや、出城というのがよく解りますな。
入口には案内板があります。
 
 
下の案内板にあるように、この城の主であった武隈氏は、椎名氏の家老でした。
 
 
椎名氏は、桓武平氏千葉氏流とされ、名越流北条氏の家臣であったようで、鎌倉時代に越中守護だった名越氏の代官という形で越中に入部したと言われています。
また、一説には、南北朝時代の入部とも言われていますね。
武隈氏は、その入部の頃から椎名氏に仕えていた古参の家臣で、子孫は武隈家記という野史を残しました。
そこには、戦国時代の武隈元員は武田家の支援を受ける為、甲斐まで赴いたことがなどが記されているようです。
真偽はともかくとして、椎名家中ではかなりの家格だったのでしょうな。
その武隈氏は、小菅沼城の場所に近代まで住んでいたそうで、そう考えると囲っている石垣は後世のものとも考えられるのですが、積み方を見ると不規則で相当古そうな感じですし、石自体が大きくて、人数を掛けて造ってそう、つまりは当時の石垣っぽいんですよね。
ただ、本城である松倉城に石垣の痕跡があまりにも少ない割に、支城出城にこれだけの石垣が築かれているという整合性の部分でイマイチすっきりとしないですな。
小菅沼城に足を踏み入れてみると、内部は方形で、典型的な居館城郭でした。
 
 
この右手には土塁があります。
 
 
一番高い所では3mほどもある立派な土塁ですな。
また、虎口にも石垣の痕跡がありました。
 
 
規模は決して大きくはないですが、古城らしい良い城ですね(^^)
 
小菅沼城から更に山道を下って行くと、松倉小学校方向へと行くことができる道に出ますが、地図を見ると、反対側に行けば北山城へ行けるようですね。
この辺り、さすが支城ということで連携が利いています。
今の道は、当時の連携用の道をほぼそのまま使っているんでしょう。
松倉城から見ると、小菅沼城は北東方向の峰筋の先、そして谷筋を挟んでその先に北山城という配置になります。
そして、その谷筋には、城下町の端があったようですね。
角川沿いに最初の城下町が形成され、それが北山と小菅沼の間の谷筋にも広がっていったと推測されています。
そして、角川の奥の奥には松倉金山。
今はただの辺鄙な山奥ですが、当時の松倉城下の一帯は、想像もできないぐらい賑わっていたんでしょうな。
一方、その角川から反対側の西側はどうなっていたかと言うと、そちらにも松倉城の支城がありました。
当時は早月川から松倉城下へ入る街道があり、それを押さえるように角川と早月川に挟まれた丘陵地に、水尾城、石ノ門、升方城などが構えられていましたが、その最も古いのは水尾城でしょうか。
水尾城に関しては、南北朝時代にはすでに文献に登場しています。
ただ、後世に構えられた城の方が規模は大きくなったようで、升方城は、南に付随する郭群を含め、かなりの規模を持っていました。
これには、椎名氏の後の支配者による改修もあったようです。
佐々氏、前田氏時代には、松倉城はあまりにも山奥過ぎて融通が利かず、升方城が主な拠点として使用されたのかもしれません。
というわけで、次はその升方城へ。
これで道標として出てきた城はすべて制覇ですな。
升方城へは、角川沿いを一度下り、丘陵をひとつ西へ越え、早月川東岸の農道から行けます。
農道に城への案内が出ており、それに沿って丘陵へと入る入口辺りに私道のような道があり、その先に登山道がありました。
自分は、私道につき車両を乗り入れるな的な立て看板があったので、私道の入口から徒歩で登りましたが、登山道入口には公園もあります。
 
 
ここまでちゃんとした公園があるんやし、バイクで行っても問題無かったのかな?
ただ、この道や公園の整備の際に、遺構の一部が失われたようです。
そこは少し残念。
この公園の向かいに登山道はあります。
そこから城へ。
入口に説明板がありました。
 
 
登山道に入るとすぐ出迎えてくれるのは横堀。
三ノ丸の防御用の堀ですな。
 
 
登山道の付近には、よく見ると石垣の痕跡が残っていますね。 
 
 
ただ、このすぐ上の三ノ丸は藪化していて、ほとんど散策できない状態でした。
そこから更に登って行くと、二ノ丸があります。
下は最も広い二ノ丸の北側。
 
 
升方城の本丸と二ノ丸はすこし変わっていて、楕円形の本丸の周囲を囲うように二ノ丸があり、円郭式という感じの縄張になっていますね。
高原諏訪城もこんな感じでしたが、何か技術的な繋がりがあるんでしょうか。
この本丸や二ノ丸と比べると、下の三ノ丸は巧緻的な感じで、椎名氏時代以降に付け加えられた部分なのかもしれません。
二ノ丸には井戸も残っています。
 
 
さらに、ぐるっと回って行って、東側。
 
 
本丸の鋭い切岸と共に、土塁もきっちり残っていました。
 
 
そして北西側。
 
 
ただ、二ノ丸の外側にあるはずの竪堀群は、完全に藪化していて確認できませんでした。
二ノ丸を散策した後は、いよいよ本丸へ。
本丸の奥には城址碑。
  
 
反対方向には東屋があります。
 
 
升方城案内板もありました。
 
 
この3D鳥瞰図が一番地形を把握しやすかったですね。
 
 
うむ。
支城ながら、しっかりと形を残していて、なかなか満足できる城でしたな(^^)
 
つづく
 
参考:
松倉城
小菅沼城
升方城
地図付きはこちら
 

2018年8月12日日曜日

飛騨富山ツーリング その14

前回のあらすじ
 
お猿さんとウッキッキー
 
宇奈月、黒部という、この5月に最も人気を集める観光地の手前まで行きながら、いつものように観光地に踏み入れること無く涼しい顔で黒部川を後にし、この日の最大の目標である松倉城へ。
北陸道を黒部I.C.から魚津I.C.まで走り、国道8号線を経由して県道33号線に入ればあとは真っすぐ・・・のはずが、国道8号線と県道33号線は立体交差という想定外の事態。
一瞬、焦りましたが、2つ先の交差点から細いながら真っすぐな市道を走って県道33号線に入り直し、事無きを得ました。
バイパスはこういうのがあるから、油断ならないなぁ
目標とする松倉城ですが、16年前にアタックを掛けたものの、その時はダムの工事による通行止めで、登城を断念した経緯があります。
今回は、リベンジってわけですな。
県道33号線を南下して行くと、北陸道の高架をくぐった先の交差点で、いくつかの城の案内に出くわしました。
そういえば、16年前にも北山城や升方城、舟見城の案内を見た記憶が。
古城の案内がまだまだ少なかった時代に、富山県は城好きにはなんて親切な所なんやろうと思ったものでした。
時間を考えれば、松倉城を散策しても、まだまだ余裕があるはず。
今回はこれらも着実に巡って行きますか。
というわけで、まずは東に位置する北山城から。
北陸道に並走する立派な道を少し東に行き、ひとつ目の交差点を右折して山へ入って行くと、北山鉱泉の案内が出てきます。
北山城は、この北山鉱泉の裏山と言える位置にありました。
松倉城の支城のひとつで、当然のように山城なんですが、最高部の直下まで狭いながら舗装された車道が通っていて、非常に楽に行くことができる城でしたね。
駐車場にバイクを止め、遊歩道を少し登ると、そこはもう主郭部です。
まずは案内板。
 
 
城の中心は、標高的にも最も高くなっていて重層的な構造にもなっている図の右側の部分と思われるのですが、綺麗に整備されているのは、物見台跡の基壇だったと思われる部分がある図の左側でした
 
 
細長い削平地の先にやや高い部分があるのが判るでしょうか。
その物見台跡と思しき場所は、今も同じ役目を負って展望台となっています。
 
 
日本海まで一望できて、眺望は素晴らしかったですね(^^)
さて、中心部はというと・・・
 
 
藪。
藪としては、まだ比較的マシな部類ですが(^^;)
奥にも段が見えますね。
 
 
こっちは完璧な藪。
少し歩き回りましたが、ここが最高部のようです。
従って、恐らく本丸というわけですな。
竪堀もたくさんあるみたいですが、藪で確認はできませんでした。
城としては、片面が整備されているだけに、惜しいなぁ
 
北山城を下り、来た道を戻って再び県道33号線へ。
後は案内に従って城へ行くだけ・・・と思いきや、この日はやたらと車が多い。
山道のブラインドコーナーなんかは先導の車があって楽ですが、そんなに人気のあるスポットなのか?
そんな疑問を抱きつつ、獄門原と呼ばれる大きな削平地が幾段かある所に来てみると、謎が氷解しました。
この日は、戦国のろし祭りというイベントの日だったんですな。
車がわんさかでびっくり(^^;)
バイクなので、警備員の人もバイクならそこに入るわってな感じで、空いた隙間に止めさせてもらいましたが、車はどんどん上に回されている様子。
この止めやすさがバイクのいい所やね~
しかし、後で分かったんですが、上に回された方が良かった・・・
バイクを止めて城へ向けて歩き始めたんですが、獄門原は主郭部とは結構距離がありまして、ひたすら車道を登って行くハメに。
主郭部へ続く車道の半分が駐車車両で占められていたんですが、こっちのほうが城には断然近かったやん・・・
それでも汗をかきかき登って行くと、主郭部が見えてきました。
車道は本丸こと一ノ郭の下まで通っているようですが、散策しながら登りたいので、遊歩道へと入ります。
まずは四ノ郭。
 
 
四ノ郭の奥部は広く、低いながら土塁も残っていました。
 
 
松倉城の主郭部は、尾根筋に展開されていて、それほど高低差が無いのもあって、各郭の間には堀切が掘られているんですが、それがまた鋭いんですな。
いかにも堅城という感じです。
下は、ちょっと見にくいですが、四の郭と三ノ郭の間の堀切を上から撮ったもの。
底まで7~8mはありました。
 
 
次に三ノ郭の下段の虎口。
 
 
その上には、これまた広い削平地がありました。
 
 
その三ノ郭の土塁。
 
 
なかなか立派な形で残ってますな。
続いて、二ノ郭と三ノ郭の間の堀切。
 
 
この堀切は木々が払われていて、V字ラインがはっきりと判りますね。
 
 
ここも広い。
二ノ郭も段で分かれています。
変則的な形になっている部分もありました。
 
 
そして二ノ郭最高部。
 
 
ここまで来ると、整備されていて陽光が眩しいですね。
この次はいよいよ本丸こと一ノ郭。
その前に、他と同じく堀切があります。
 
 
ここも形状がよく判りますね。
いよいよ一ノ郭。
 
 
一ノ郭は3段に分かれていて、その2段目と3段目は少し変わった形で、細長い段が鉤型に組み合わさっているような形状となっていました。
続いて1段目。
 
 
城址碑は二ノ郭にもあり、実はこれが2つ目です。
更に奥には立派な石碑が。
 
 
これで3つ目ですな。
近くには周辺の案内板が。
 
 
そして松倉城の説明板。
 
 
東屋には地形の模型もありました。
 
 
一ノ郭の先には、もちろんのことながら堀切を介して、城の鎮守であったと思われる八幡堂が。
 
 
いや~、規模の大きい城ですわ。
越中三大山城の筆頭格ですな。
おまけ。
 
 
車道の突き当りにも碑がありました。
城址碑ではなく、松倉城主の碑ですが、標としては4つ目ですな。
 
つづく
 
参考:
北山城
松倉城
地図付きはこちら
 

2018年8月5日日曜日

飛騨富山ツーリング その13

前回のあらすじ
 
念願の魚津城を見付けた!
しかし、何も無ぇ!
 
この日はツーリング最終日。
帰りの行程を考えて、昼過ぎには帰路につかなければなりません。
泊まった宿は温泉ではありませんでしたが、幸い、朝にもお風呂に入れる宿だったので、早朝から寝床を抜け出し、筋肉痛の体を引きずりながら朝風呂へ。
そして、前日に買い込んでいた朝ごはんを掻き込んで、出発です。
前日、隣にバイクが止まっていたのは知っていましたが、出る時間が一緒になり、一言ふた言あいさつを交わして出発しました。
福島のライダーと神戸のライダーが富山県の東側で出会うというのも、なんだか面白い話ですね。
福島も久々に行きたいけど、すこぶる遠いんよな~
 
早朝で車通りもほとんど無い入膳市街を出発し、まず向かうのは舟見城。
入膳一帯は、黒部川の扇状地ですから、黒部川が平野に出た場所から放射状に道が延びています。
その内の1本の県道を辿ってほぼ直線で宇奈月の方向へ向かうと、宇奈月町に入る直前の左手に舟見城がありました。
でっかい模擬天守が建っているので、遠くからでもよく判りますし、案内も多かったですね。
城跡への道も整備されていましたし、休みの日には家族連れで賑わってそうな雰囲気もあります。
ただ、整備され過ぎて、元の城の形状がほぼ判らなかったのは残念・・・
カッチリ整備され過ぎた史跡によくあるパターンですな。
城に到着したのが早朝ということもあって、模擬天守の周りには野生の猿が(笑)
親子なのか、小さな猿も含めて7~8匹も!
人間がいない城跡は、これだけ整備されていても、野生動物のものですな(^^)
 
ただ1台、駐車場に堂々とバイクを止め、まずは模擬天守へ。
 
 
うむ、綺麗すぎるな・・・
その手前には、説明板。
 
 
ただ、当然ながら時間的に入館できませんでした。
裏手に回ると、崖の下に海まで平地が広がっていて、城の地勢やどういう目的で築かれたのかがよく解ります。
 
 
次いで、自分が来たことで逃げ散った猿たちを追うように、突端の方向へ。
 
 
この道沿いに郭や構造物の痕跡があるかと思ってよく見てみましたが、それらしいものはありませんでした。
ただ、突端は物見台として使われていたように思われます。
模擬天守に戻って南の方向へ歩くと、この模擬天守がある周辺がかなり広い平地であったことが解りますな。
 
 
当時は第2の郭だったようです。
恐らく居住空間として使われていたのでしょう。
更にその北には公園がありました。
 
 
ここが本丸とされます。
模擬天守のある平地よりもやや高くなっており、奥まった本丸というわけですね。
ちょっと整備され過ぎてはいますが、景色の良い清々しい城でした。
 
舟見城を下り、県道13号線を黒部川の方向へ向かうと、愛本橋を越えて県道14号線との三叉路になります。
ここを左に行けば、宇奈月温泉へ一直線ですが、その途中の内山駅の後背辺りに内山城という城がありました。
南北朝時代の北陸の著名な武将であった井上俊清が、南朝に寝返って松倉城を北朝方に攻められ、松倉城を失陥した後に本拠とした城です。
ただ、世間的には全くの無名ですな。
内山駅から愛本駅、下立駅の辺りまでトロトロと走りながら探してみましたが、見付けられませんでした。
ん~残念。
後で調べてみても、どうもちゃんとした登山道は無いみたいですね。
地図で見ると、愛本駅の南西300mぐらいのところに比較的広い平坦な地形があるようで、その更に南側のピークには林道が通じてるみたいですが、明確にどこが城跡なのかはちょっと不明のようです。
またいつか宇奈月温泉に来た時に探してみようかな~
 
つづく
 
参考:
舟見城
内山城
地図付きはこちら
 

2018年7月29日日曜日

宮崎フェリー

今年の春のツーリングどころか、去年の春のツーリングもまだまだ纏まっていませんが、秋はどこへ行こうかなと検索していると、こんな記事を見付けました。
 
宮崎カーフェリー新会社 来年3月発足
https://miyabiz.com/economics/category_16/item_24610.html
 
秋は、日の入り時間が早いので、ツーリングは西に向かうのが定番なんですが、幸いにも関西からは九州向けのフェリーが充実しています。
その中で、神戸発着のフェリーがいくつかあり、宮崎フェリーもそのひとつなんですが、ここ数年は常に経営が懸念されていました。
新たに新会社を設立し、旧会社の債務は債務放棄などで清算されるので、新会社はかなり身軽になりますね。
焦点は、22年を目途とする新造船でしょうか。
新造船は、投資としてはかなり大きいですからね。
その資金を計画通り集められるかが肝になりそうです。
さんふらわぁの大阪~志布志航路にも新造船が投入されていますから、関西発九州行のフェリーに、しばらく楽しみが増えますね(^^)
 

2018年7月22日日曜日

お城手ぬぐい

先日、神戸新聞で下のような記事がありました。
 
全国100名城、手ぬぐいに残し 城郭絵師の代表作や復元画公開
https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/201807/0011459728.shtml
 
城郭画家の荻原一青氏が描いた城郭手ぬぐいが尼崎市の総合文化センター美術ホールで展示されているそうです。
その数、100城、103種類。
城郭専門の復元図ほ描く城郭画家という存在を初めて知りました。
この荻原さんもお城が好きだったんでしょうね。
8/19までという事ですが、バイクでぷらっと行・・・けるか!!
連日36℃、37℃を連発やぞ!
市街地で渋滞にハマった日にゃ、熱中症一直線ですわ・・・
この時期は仕方ないねぇ
電車で行くとしますか・・・
 

2018年7月16日月曜日

飛騨富山ツーリング その12

前回のあらすじ
 
富山よ!私は帰って来た!
 
富山城で、徐々に夕景になりつつある時間に差し掛かって来ましたが、ここから向かうのは、宿を取っている東の入膳ではなく西。
富山市の平野部の西側に、平野部を分断するように呉羽丘陵が北東から南東へと伸びていますが、その一角に白鳥城というのがあります。
その城が次の目的地。
この城は、秀吉が天正13年(1585)に富山城を本拠としていた佐々成政を討伐した際に、その本陣として使われる予定であった城で、富山城を眼下に収めることができるほど近い場所にあります。
直線距離にして4kmほどですな。
ただ、実際には秀吉本人が来る前に成政が降伏してしまったので、城に秀吉が立ち寄ったとも立ち寄ってないとも言われ、諸説あるようですね。
今残っている縄張は、その時の改修をベースに、前田家によって更に改修されたものでしょう。
成政は降伏し、新川郡以外の越中の領土を没収されたとは言え、新川郡自体が越中国の東半分を占めるというように巨大で、まだまだ侮れなかったわけですから。
ただ、それも天正15年(1587)に成政が肥後へ移されると、城の実質上の役目は終えたようです。
今の呉羽丘陵は、結構な富山市民の身近なレクリエーションの場として開発されているようで、北側には公園があり、南側には立山を一望できる展望台が設置され、宿泊施設もあるようですね。
また、丘陵を縦断するように立派な道が通っており、富山城の南側の道である県道44号線を進んで行くと、大きく入口の案内が出ており、簡単に行くことができました。
丘陵縦断の道がなかなか良い道で、気分良く快調に上って行くと、南西側の城山と呼ばれる部分の、展望台からほど近い場所に駐車場があり、駐車スペースもたっぷりあって止めやすい。
また、その駐車場に城址碑もありました。
 
 
ここから城へはすぐです。
が、城へは行かず、まずは反対側の展望台へ。
立山の残雪が見えるかな~なんて思ってましたが、春霞で立山も朧気でした。
残念・・・
 
 
気を取り直して城へ。
まず出てくるのは東出丸。
 
 
東出丸は、主郭部から少し離れており、主郭部との間には堀切がありました。
 
 
藪だらけで通路と化してる三ノ丸を過ぎて二ノ丸。
 
 
写真は二ノ丸の東側ですね。
全体としてはもっと大きい郭でした。
続いて2段構成の本丸。
 
 
写真右手の本丸上段は、天守台と推測されています。
なので、大きさもそれなり。
そして、説明板。
 
 
次いで縄張図。
断層面の崖ギリギリに築城されているのがよく解りますね。
 
 
順に城を巡って行きます。
次は本丸外郭。
 
 
ここは、恐らく城内で一番広い郭ではないでしょうか。
ここから高低差を持って接続している東ノ丸。
 
 
北側へ回って北ノ丸と北二ノ丸。
写真は北二ノ丸です。
周囲には空堀がありましたが、明確ではありませんでした。
 
 
次に西に回って西一ノ丸。
 
 
その先の西二ノ丸。
 
 
全体としては、城への遊歩道はきちんと整備されていて、非常に散策しやすかった城でしたね。
ただ、1歩外れると全くの藪で、郭の外の空堀とか切岸とかどんな感じになっていたのかは、ほとんど確認できませんでした。
そこは、やや残念でしたが、全体としては郭が明確でなかなか良かったです。
 
日暮れの時刻が迫る中、白鳥城のある呉羽丘陵を西側に下り、そこから北上すると国道8号線のバイパスへと出ます。
そのバイパスをひたすら東進し、富山市街を抜け、滑川市を過ぎて行くと、魚津がすぐに見えて・・・来る予定でしたが、これがなかなか遠い。
バイパスで流れも快調なんですが、侮れない距離がありました。
目当ての魚津城に着いたのは陽も落ちかけた頃。
ここでの目的は、もちろん魚津城です。
魚津城は、16年前にさんざん市街地をぐるぐる回って見つけられなかった城でした。
ただ、今回は予習バッチリで、1回通り過ぎたものの、すぐに到着。
予習バッチリで1回通り過ぎんのかい!
というセルフツッコミは置くとして、魚津城は上杉勢と織田勢の熾烈な籠城戦があった場所ですが、今は残念ながら遺構は全く見られません。
城跡は小学校になっており、小学校の駐車場に周辺の案内板と説明板がありました。
 
 
 
校門のすぐそばに城址碑があります。
 
 
最近、小学校周辺というのはセキュリティが厳しく、小学校へ入るには許可が要るので大変です。
ただ、こういう地方都市というのは旅行者に親切でして、高知の久礼城でもそうでしたが、通りすがりの人が何かと便宜を図ってくれるんですよね。
本当にありがたい話です。
ま、写真を撮るだけなんで、ほんの10秒ほど入るだけなんですがね。
しかし、魚津の市街地も随分と印象が変わりましたな。
16年前は、もうちょっと商店街が商店街として存在感があって、道も旧市街らしく狭苦しかったイメージがあるんですが、訪れてみると、どの地方都市もそうですが、やっぱり商店街が衰退しているようで、存在感がかなり薄れてしまっていました。
反対に、道は整備されたのか割と広々としており、ちょっとした街だったのが、郊外の風景に変わってましたね。
これも時代の流れなんでしょう。
 
この日は、魚津城ですべての予定を完了。
あとは、宿を取っている入膳へ。
素泊まりの予約だったので、入膳の国道沿いにあったローカルなファミリーレストランで食事を摂りましたが、この店には若い学生さんが結構いて、この辺りの若者スポットなんやなぁと感じました。
ただ、聞き耳を立ててみると、どうも進学で街を出て行く人が多いようですね。
大阪でも地方から出てくる人は多いですが、確かに大学も少ないし、通学できないとどうしようもないわな・・・
地方が大学を誘致しようとする根本原因は、こんなとこなんでしょうね。
進学で出て行くと、そのまま就職して帰ってこないというパターンも多いからね・・・
しかし、高校生ぐらいだと、自転車が移動手段の中心やから、郊外型の店舗だと結構自転車を漕いで集まるんでしょうな。
自分もその頃は、10kmぐらいなら自転車で移動してた気がする。
地方の現状はともかく、昔を思い出して、なんか微笑ましかったですな(^^)
 
続く
 
白鳥城
魚津城
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