しかし、接触や蜜が忌避される対コロナにおいて、バイクという乗物は非常に優れていますね。
なんてったって、行程を工夫すれば、ほぼ誰とも接触しないですから。
そりゃ、中古市場に在庫が無くなっての暴騰や、新車の納車が次期不明というのも納得できます。
ま、半導体不足が原因の半面ではあるんですが。
それは横に置くとして、以前、用事で小野や東条を車で走った際に見つけていた、豊地城や小田城をこの機会に攻めることにしました。
播磨という国は、室町時代には四職に数えられたほどの名門である赤松氏の本拠地で、赤松氏の枝葉や重臣が各地に城を構え、割拠していたんですが、豊地城や小田城というのも、その重臣の一席を占めた依藤氏の城です。
この東播中部において、赤松重臣で後に戦国大名化した家と言えば、織田家との三木合戦で有名な別所氏がありますが、別所氏は嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱後に復興された赤松家において頭角を現した家で、赤松家中では新興勢力と言えるでしょう。
それに対して依藤氏は、それ以前から比較的重く用いられており、家格は別所氏より上であったと思われます。
しかし、戦国時代になると、別所氏の勢力が北の東条谷まで伸び、その煽りで依藤氏は没落してしまうんですね。
国をまとめ上げるほどの戦国大名を生まなかった播磨ですが、細かく見れば、そこには新旧の勢力の衝突があって、小戦国というような歴史も見ることができます。
さて、前置きはこれぐらいにして、まずは豊地城の記録を。
豊地城へのアクセスは、非常に簡単です。
自分は三木城下の旧市街を抜けて南から行きましたが、国道175号線から東条川沿いを東西に走る県道85号線に入ってそのまま進めば、城に到着します。
県道沿いに案内が出ていますし、城址碑も見えますから、非常に楽ですね。
駐車スペースまでたっぷりと確保されています。
土塁には石塁のような痕跡があったんですが、往時は基部が石積みだったのか、それとも後世のものなのか。
依藤氏が没落した後の別所氏時代にも、大きな改修をされているそうなので、石垣があった可能性は高そうです。
土塁のある場所から集落の方向に行くと、城の痕跡があちこちに残っていました。
八幡神社も、往時は郭であり、東側の段差は堀の痕跡です。
平坦な地形で段差があり、低い場所が農地になっているのは、堀あるあるですね。
茨城の小田城が、郭も堀も開墾されて、それはもう見事でした。
発掘調査によると、この堀は外堀とのことです。
土塁のあった場所の東側も同じように1段低い田畑なんですが、そこが内堀にあたるようですね。
この八幡神社の反対側を見ると、保育園の隣に溜池として水堀が残っていました。
豊地城は、地図上で色々と縄張りを推測するよりも、実際に現地を歩いたほうが楽しい城でしたね。
まだ開発が進んでいない田舎の城跡は、こういう楽しみがありますな。
つづく
参考:
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