2022年9月29日木曜日

東条谷をぶらり その2

前回のあらすじ
 
豊地城はアクセス抜群!
 
豊地城の次に向かうのは、小田城。
ここも以前に通り掛かって見つけていた城です。
その案内板がこれ。
 
 
これが切通しみたいな場所にあったんですよね。
車で走りながら、こんな小さい碑を発見するなんて、
確実に城センサーの感度が上がってるな!
この小田城、豊地城と同じく、東条谷を支配した依藤さんのお城ですが、豊地城のように事績が明確ではなく、伝承の範囲に留まります。
なんでも、依藤豊秋なる人物が築城したとか。
しかし、築城年代は、はっきりしません。
依藤氏は、備前にいた宇野豊季が文治2年(1186)に依藤野に入部して地名を名字とし、後の室町時代には、播磨守護であった赤松氏の家臣となりました。
その室町時代の嘉吉元年(1441)に、赤松家当主の満祐が将軍足利義教を謀殺して嘉吉の乱という叛乱を起こすわけですが、この時の赤松勢に見える依藤氏の当主が豊房です。
恐らく、豊季以降は豊を通字としていたのでしょう。
しかし、嘉吉の乱以降に見える当主は豊の字を使っていません。
従って、小田城を築城したと伝わる豊秋は、室町時代までの当主か、嫡流筋の人物という可能性が高いと推測できますね。
ただ、伝わるのはそれぐらいで、後は豊地城の支城として使われたのだろうという推測があるだけ。
地方豪族の支城クラスだと、伝わる事績が少なく、歴史を追うのが難しいですな。
 
現地の城跡ですが、後で資料を色々と調べてみると、主な城郭の範囲は、この碑がある県道から川の方向へ延びる丘陵上が主ではあるものの、県道の反対側も城域ではあったようです。
県道自体が、堀切を利用して切通しにしたっぽいですな。
滋賀の水茎岡山城がちょうどこんな感じで、湖岸道路によって城のある峰がぶった切られていました。
さて、登城。
城址碑の脇を抜けて川の側に進んで行くと、やがて丘陵へ入ることができる道が出てきます。
その道を少し登ると、毘沙門堂がありました。
 
 
ここは高さから言えば、3層目の郭になります。
続いて、居住区があったかもしれない広い郭。
標高で言うと、上から2層目になります。
 
 
この郭の縁辺には、土塁がありました。
 
 
写真右手が郭の縁辺です。
この郭の川方向には、ほぼ同高でもうひとつ郭があったんですが、酷い竹藪で入ることができませんでした。
ただ、そこそこの広さはあるようで、この2層目の高さのいくつかの郭が、小田城の中心だったと思われます。
資料を見ると、その同高の郭の先の川際まで城郭化されていたようですから、もしかしたら、船の水運を利用した船着き場みたいなものがあったのかも知れませんね。
川とは反対側に進んで行くと、食い違い虎口のようなものがありました。
 
 
写真では判りにくいですが、現地ではもっと明確です。
堆積物が溜まっているので、地形としては随分なだらかな感じになってはいましたが。
この先から少し登ると、城の最高地点へと到着します。
そこは稲荷社の境内になっていました。
 
 
郭としては狭く、恐らくは見張台のような機能を担っていたのでしょう。
小田城は、事績は伝承程度の城ですが、遺構はなかなか残っていて、良い城でした(^^)
 
せっかく東条谷まで来たということで、少し足を延ばして今度は東条湖へ向かうことに。
東条湖と言えば、厳密にはダム湖なんですが、昔は東条湖ランドという遊園地があったり、別荘地帯もあったりして、単に東条湖と言えば周辺のリゾート地を指します。
しかし、コロナ禍では、各観光施設も軒並み休業中で、閑散としてました。
ま、だから静かな東条湖周辺を見たくて来たんですが(^^;)
 
 
誰もいませんねぇ
とても静かな湖面でした。
この桟橋の傍らに、東条湖こと鴨川ダムの案内板があります。
 
 
何の気なしに東条湖東条湖と言っていましたが、かなり大がかりな工事だったんですね。
神戸市内のライダーの休憩スポットである、呑吐ダムと一体運営されていたなんて、知りませんでした。
この日は天気が良くて良かった(^^)
人は全然見なかったですが。
 
 
参考:

2022年9月23日金曜日

為替介入

昨日、日銀が為替介入を実施しましたね。
このタイミングかと、びっくりしました。
自分も含めてですが、150円がラインかなと思ってた人も多かったんじゃないでしょうか。
何なら、口先介入だけで、実弾は使わない可能性すらあると思ってました。
ですが、FRBが利上げ継続の強い意志を示し、日銀は緩和継続と、改めて立場の違いが明確になり、円安基調が明確になったところで、強力な冷や水をぶっ掛けに掛かったというところでしょう。
日米の利率差がありますから、これで完全に方向性が変わるなんてことはないとは思いますが、過熱感は多少下がったようですね。
実弾をいくら使ったかは不明ですが、ドル円の為替は1日の取引量が50兆円を超えますから、そう易々と何発も打てるわけではありません。
が、実需以外の投機目的で円安のロングポジションを採った組織や個人は、場合によっては大火傷したかもしれませんね。
為替は怖いですな。
戦う相手が、時に国家になりますから。
1時間で5円も動くなんて、ね。
しかし、単純に取引として考えた場合、この前の介入が円高防止の介入で80円前後ですから、円換算で1.8倍強。
大儲けやん! 
 

2022年9月15日木曜日

東部反攻

ウクライナ情勢が、新たな局面を迎えています。
両陣営のプロパガンダや、いわゆる大本営発表などもあるので、実際はどうなのかと続報を見ていましたが、ウクライナ東部でのウクライナ軍の大規模な反攻は本当のようですね。
ロシア自身も、イジューム撤退を認め、暗に敗北を認める発表をしているほどですし。
しかし、戦線が膠着した状態から、これほど短期間に支配領域を奪還した例は、戦史を見てもなかなか無いんじゃないでしょうか。
通常、戦線が膠着する状態というのは、両陣営が防衛線を構築して一定の場所に留まっているわけですから、相手側をかなり上回るような、戦線突破が可能な戦力が必要となります。
さらに、当然ながら後詰もあるわけですから、その援軍をも撃ち破れる戦力が必要なわけですね。
しかし、ロシアもウクライナも戦力の確保には苦労していますから、相当ハードルが高く、なかなか膠着を破るのが難しかったわけです。
そこに登場したのが、アメリカが供給したHIMARS。
高機動で、素早く展開し、アウトレンジから精密射撃を行い、素早い移動で発射地点への相手の攻撃をかわすという、兵は迅速なりを体現した多連装ロケット砲です。
孫氏の時代の「兵は迅速なり」というのとは運用的な意味は違いますが、本質は同じですね。
素早い移動で虚を突き、主導権を握る。
と言っても、ウクライナ軍は8月からこれを盛んに南部で運用していました。
東部ではなく、南部。
誰が作戦を立てたかは知りませんが、絶妙ですね。
しかも、前線となっているヘルソン州だけではなく、範囲を広げてクリミア半島までHIMARSで攻撃したといわれます。
こういう状況では、いよいよ南部で反攻するというのをロシアも信じてしまったのかもしれませんね。
本当かどうかは分かりませんが、東部から戦える戦力を抽出して南に展開させたと言われています。
これにより、東部に残されたのは、練度の高くない部隊と、後詰の薄い戦線でした。
そこへウクライナ軍が機甲部隊で戦線を突破した、というわけですな。
お手本のような陽動作戦です。
後詰が薄くなっていたロシア軍は、破られた戦線に戦力を投入して押し戻すことができませんでした。
こうなると、戦いと言うのは雪崩を打って潮目が変わります。
戦線を東に突破したウクライナ軍が南北に展開すると、破られた戦線の南北に布陣するロシア軍は包囲殲滅に遭いますから、死地を脱しようと我先に後退し、それがさらにその南北のロシア軍に伝染するという、まさに戦線崩壊状態となるわけですな。
今回の戦いで、ロシア軍はこの4ヶ月で得た戦果の多くを失うことになりました。
また、我先にと撤退した結果、足の遅い輸送部隊を組むことができす、戦車や戦闘車両、装備品や食料といった物資がそのまま残置されましたから、戦力も大きく低下したと見られます。
まだまだ先は見通せませんが、この戦いが今後のキーポイントになったのは間違いないでしょうね。
 

2022年9月9日金曜日

東条谷をぶらり その1

ツーリングの記録をずっと放置しているんですが、コロナ禍の中にあった昨年に、誰にも接しないよう日帰りで近場をぶらりとした時の記録をば。
しかし、接触や蜜が忌避される対コロナにおいて、バイクという乗物は非常に優れていますね。
なんてったって、行程を工夫すれば、ほぼ誰とも接触しないですから。
そりゃ、中古市場に在庫が無くなっての暴騰や、新車の納車が次期不明というのも納得できます。
ま、半導体不足が原因の半面ではあるんですが。
 
それは横に置くとして、以前、用事で小野や東条を車で走った際に見つけていた、豊地城や小田城をこの機会に攻めることにしました。
播磨という国は、室町時代には四職に数えられたほどの名門である赤松氏の本拠地で、赤松氏の枝葉や重臣が各地に城を構え、割拠していたんですが、豊地城や小田城というのも、その重臣の一席を占めた依藤氏の城です。
この東播中部において、赤松重臣で後に戦国大名化した家と言えば、織田家との三木合戦で有名な別所氏がありますが、別所氏は嘉吉元年(1441)の嘉吉の乱後に復興された赤松家において頭角を現した家で、赤松家中では新興勢力と言えるでしょう。
それに対して依藤氏は、それ以前から比較的重く用いられており、家格は別所氏より上であったと思われます。
しかし、戦国時代になると、別所氏の勢力が北の東条谷まで伸び、その煽りで依藤氏は没落してしまうんですね。
国をまとめ上げるほどの戦国大名を生まなかった播磨ですが、細かく見れば、そこには新旧の勢力の衝突があって、小戦国というような歴史も見ることができます。
 
さて、前置きはこれぐらいにして、まずは豊地城の記録を。
豊地城へのアクセスは、非常に簡単です。
自分は三木城下の旧市街を抜けて南から行きましたが、国道175号線から東条川沿いを東西に走る県道85号線に入ってそのまま進めば、城に到着します。
県道沿いに案内が出ていますし、城址碑も見えますから、非常に楽ですね。
駐車スペースまでたっぷりと確保されています。
 
 
そして、説明版。
 
 
城址碑の背後に見えるのが、残っている土塁ですが、その大きさは見事ですね。
土塁を近くから見ると、より圧巻!
 
 
土塁には石塁のような痕跡があったんですが、往時は基部が石積みだったのか、それとも後世のものなのか。
 
 
依藤氏が没落した後の別所氏時代にも、大きな改修をされているそうなので、石垣があった可能性は高そうです。
土塁のある場所から集落の方向に行くと、城の痕跡があちこちに残っていました。
八幡神社も、往時は郭であり、東側の段差は堀の痕跡です。
 
 
平坦な地形で段差があり、低い場所が農地になっているのは、堀あるあるですね。
茨城の小田城が、郭も堀も開墾されて、それはもう見事でした。
発掘調査によると、この堀は外堀とのことです。
土塁のあった場所の東側も同じように1段低い田畑なんですが、そこが内堀にあたるようですね。
この八幡神社の反対側を見ると、保育園の隣に溜池として水堀が残っていました。
 
 
豊地城は、地図上で色々と縄張りを推測するよりも、実際に現地を歩いたほうが楽しい城でしたね。
まだ開発が進んでいない田舎の城跡は、こういう楽しみがありますな。
 
つづく
 
参考:
 

2022年9月4日日曜日

日本ロジステック

少し前の話ですが、8月30日に日本ロジステックが民事再生法の適用を申請しました。
単なる民事再生の申請であれば、売上400億円規模の大きい会社という点はあるものの、そんなに珍しい話ではないのですが、ニュースに出ていた申請の経緯がちょっと珍しくて印象に残っていたんですよね。
経緯としては、不正請求が発覚し、その詳細を調べている間に主要取引先に口座を差し押さえられ、売掛金の支払いも拒否されたことから、資金繰りがどうにもならなくなったようです。
そんなことあんねんな、と。
その後、続報が出てきて大まかな流れが判明したんですが、日本ロジステックが楽天モバイルに水増し請求をしていたのが破綻の根本の原因で、その不正の規模がかなり大がかりでした。
この部分だけを聞くと、日本ロジステックが全面的に悪いように聞こえますが、ややこしいのはこの先で、この水増し請求が、楽天モバイルの社員と日本ロジステックの社員との共謀によって起こされたというわけなんですね。
そして、被害額も桁違いで、46億円とのこと。
さらに、その楽天モバイルの従業員が支配していた法人を介して資金を流していたというから、驚きです。
経済ヤクザ顔負けの用意周到さやん!
ただ、楽天モバイルが被害者ではあるんですが、従業員の管理不行き届きでもあるわけなので、法律的には全く問題ないですし会社を守る為には当たり前の措置ではあるんですが、少しモヤっとする感覚がありますね。
どっちも管理不行き届きなのに、片方の措置で片方が破綻に追い込まれているわけですから。
しかし、46億円は大きい。
不正に加担した従業員の賠償能力はたかが知れてると思われるので、年間売上400億円規模で46億円となると、日本ロジステック賠償はできるんでしょうか。
主要取引先の楽天モバイルの売上は無くなるでしょうしね。
再生前提の民事再生とは言え、今後も困難が予想されますな。