前回のあらすじ
豊地城はアクセス抜群!
豊地城の次に向かうのは、小田城。
ここも以前に通り掛かって見つけていた城です。
その案内板がこれ。
これが切通しみたいな場所にあったんですよね。
車で走りながら、こんな小さい碑を発見するなんて、
確実に城センサーの感度が上がってるな!
この小田城、豊地城と同じく、東条谷を支配した依藤さんのお城ですが、豊地城のように事績が明確ではなく、伝承の範囲に留まります。
なんでも、依藤豊秋なる人物が築城したとか。
しかし、築城年代は、はっきりしません。
依藤氏は、備前にいた宇野豊季が文治2年(1186)に依藤野に入部して地名を名字とし、後の室町時代には、播磨守護であった赤松氏の家臣となりました。
その室町時代の嘉吉元年(1441)に、赤松家当主の満祐が将軍足利義教を謀殺して嘉吉の乱という叛乱を起こすわけですが、この時の赤松勢に見える依藤氏の当主が豊房です。
恐らく、豊季以降は豊を通字としていたのでしょう。
しかし、嘉吉の乱以降に見える当主は豊の字を使っていません。
従って、小田城を築城したと伝わる豊秋は、室町時代までの当主か、嫡流筋の人物という可能性が高いと推測できますね。
ただ、伝わるのはそれぐらいで、後は豊地城の支城として使われたのだろうという推測があるだけ。
地方豪族の支城クラスだと、伝わる事績が少なく、歴史を追うのが難しいですな。
現地の城跡ですが、後で資料を色々と調べてみると、主な城郭の範囲は、この碑がある県道から川の方向へ延びる丘陵上が主ではあるものの、県道の反対側も城域ではあったようです。
県道自体が、堀切を利用して切通しにしたっぽいですな。
滋賀の水茎岡山城がちょうどこんな感じで、湖岸道路によって城のある峰がぶった切られていました。
さて、登城。
城址碑の脇を抜けて川の側に進んで行くと、やがて丘陵へ入ることができる道が出てきます。
その道を少し登ると、毘沙門堂がありました。
ここは高さから言えば、3層目の郭になります。
続いて、居住区があったかもしれない広い郭。
標高で言うと、上から2層目になります。
この郭の縁辺には、土塁がありました。
写真右手が郭の縁辺です。
この郭の川方向には、ほぼ同高でもうひとつ郭があったんですが、酷い竹藪で入ることができませんでした。
ただ、そこそこの広さはあるようで、この2層目の高さのいくつかの郭が、小田城の中心だったと思われます。
資料を見ると、その同高の郭の先の川際まで城郭化されていたようですから、もしかしたら、船の水運を利用した船着き場みたいなものがあったのかも知れませんね。
川とは反対側に進んで行くと、食い違い虎口のようなものがありました。
写真では判りにくいですが、現地ではもっと明確です。
堆積物が溜まっているので、地形としては随分なだらかな感じになってはいましたが。
この先から少し登ると、城の最高地点へと到着します。
そこは稲荷社の境内になっていました。
郭としては狭く、恐らくは見張台のような機能を担っていたのでしょう。
小田城は、事績は伝承程度の城ですが、遺構はなかなか残っていて、良い城でした(^^)
せっかく東条谷まで来たということで、少し足を延ばして今度は東条湖へ向かうことに。
東条湖と言えば、厳密にはダム湖なんですが、昔は東条湖ランドという遊園地があったり、別荘地帯もあったりして、単に東条湖と言えば周辺のリゾート地を指します。
しかし、コロナ禍では、各観光施設も軒並み休業中で、閑散としてました。
誰もいませんねぇ
とても静かな湖面でした。
この桟橋の傍らに、東条湖こと鴨川ダムの案内板があります。
何の気なしに東条湖東条湖と言っていましたが、かなり大がかりな工事だったんですね。
神戸市内のライダーの休憩スポットである、呑吐ダムと一体運営されていたなんて、知りませんでした。
この日は天気が良くて良かった(^^)
人は全然見なかったですが。