凶・・・だと?
ツーリング最終日の4日目は、前日の予報に拠れば次第に雨になるとのこと。
ただ、松本や塩尻辺りは昼近くまで曇りとの予報でしたので、回る所は回って、松本方面へ逃れたいところですな。
この日は、雨に備え、7:00前にホテルを出発しました。
まず寄るのは、松代城とも呼ばれている海津城。
現地の城址碑には海津城とあったので、海津城と呼びましょうか。
あの川中島の合戦でも重要な拠点となった城です。
前回来た22年前は石垣の積み直し工事で、城内の散策はまともにできませんでしたが、それから大河ドラマもあり、色々と整備されているようで、楽しみですね。
松代市街で多少道を間違えましたが、海津城付近に来てみると、前回の時は健在だった長野電鉄の松代駅が、ホームだけを残して廃線となっていました。
なかなか地方の鉄道は、経営が難しいんでしょうね。
この辺りも、地方の過疎化と車社会を感じます。
さて、松代駅近くにバイクを止め、散策開始。
現在の海津城は、三ノ丸と花ノ丸は市街地化していますが、本丸と二ノ丸の大部分が公園として整備されていました。
駅から歩くと、二ノ丸石場門から城内へと入る形となります。
この石場門は、丸みがある構造で、特徴的ですね。
なんとなく丸みがあって、女性的な印象すらあります。
二ノ丸に入り、歩を進めていくと、内堀と本丸の石垣が。
東不明門と前橋ですな。
ここから左手に進んで行くと、二ノ丸南門があり、周辺に案内板があります。
今の海津城で残っている部分は、二ノ丸の大部分と本丸、内堀で、二ノ丸の南にあった三日月堀や三ノ丸、東西の外堀、南西の花ノ丸なんかは、残念ながらありません。
南門の南の馬出や、三日月堀が残っていれば、武田流の名残をもっと強く感じたのかも知れませんね。
二ノ丸南門のすぐ西には、印象的な土塁がありました。
曲線の多かった武田流の縄張の残骸のような雰囲気がありますが、どうなんでしょうか。
役割的には、花ノ丸から三ノ丸を通って二ノ丸南門に押し寄せる敵兵を、堀越しに弓や鉄砲で攻める為の場所ですな。
二ノ丸南門から振り返ると、本丸大手の太鼓門と橋詰門が正面です。
城門は復元ですが、ここからの画は、海津城で最も城らしい雰囲気のある構図でしょう。
ちょうど、御開門の時間。
係の人が開ける作業をしてました。
太鼓門からは入らず、内堀沿いを西へ回ります。
下は内堀と太鼓門の様子。
さらに進むと、面白い埋門がありました。
なんか古墳の石室入口みたい(^^)
この門をくぐった先には、本丸北側の不明門と戌亥櫓台。
なかなか豪壮な石垣です。
さて、いよいよ不明門をくぐって本丸へ。
本丸には、海津城の城址碑がありました。
城のシンボルだった戌亥櫓の石垣へ。
櫓台から城内を見回します。
左手の北不明門方向。
ここから見る石垣は折れが多く、なかなか見応えがあります。
右手に目を向けて、大手の太鼓門方向。
こちらは落ち着いた古城の雰囲気ですな。
最後に、門が無くなっている東不明門から外へ。
東不明門付近の石垣と前橋です。
芝生が前面に敷かれていて、とても整備されている城でした。
天気も、雨粒が数粒落ちてきましたけど、なんとか持って良かった(^^)
海津城からは、松代市街の住宅地をなんとなくの方向感覚で抜け、農道を走り、高速沿いの国道403号線へ。
次なる目標は、妻女山。
言わずと知れた、上杉謙信が陣を敷いた山です。
ただ、甲陽軍鑑には西條山とあり、妻女山というのは、上杉軍の将兵が妻女を偲んだという俗説から付けられた名前らしいですな。
ちなみにその西條山や西条山と呼ばれる山は、この妻女山から南にかなり離れた場所の山で、翌朝に八幡原で決戦を行うにはちょっと遠い。
このことから、妻女山のある山系の主峰にあたる斎場山が陣所だったとの説もありますね。
その説によれば、斎場山の東峰にあたる妻女山は赤坂山と呼ばれ、甘粕景持が陣を敷いていたとされます。
実際はどうだったんでしょうか。
ま、第4次川中島の合戦自体が不詳なので、ロマンのある話ということにしときますか。
妻女山へは、高速沿いの国道から舗装された道が出ており、するすると上って行けば、簡単に着くことができます。
ちょうど、妻女山の展望台のある場所まで舗装されていました。
展望台からは、海津城がよく見えます。
左手に向けば八幡原。
海津城からの炊煙を見、眼下の八幡原へ出陣する決意をしたんでしょうな。
展望台には陣図もありました。
実際の景色を眺めながら陣図を見てみると、臨場感が違いますな。
ただ・・・
早くも雨が!
ゆっくり眺めさせてくれよ(> <)
つづく
海津城
妻女山陣所跡
地図付きはこちら
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