2018年5月26日土曜日

ホルダーリプレース

前に持っていたスマホは、京セラのTORQUE G01で、3年も越えたし、そろそろ次の次の後継であるG03に機種変しようかなと思っていた所、ひょんなことからから、取引先に眠っていたG02の新古品を頂き、今年早々に機種変しました。
ブログに載せている写真も、いつのまにやら4:3からワイドになっていますな。
機種変をすると、色々な物を変えないといけなくなります。
車やバイクのホルダーもしかり。
車もバイクも、それまでのホルダーにG02が入るのですが、汎用な車のホルダーに比べて、バイクのホルダーは前の機種に合わせて買ったものなので、ちょっとバランスが悪い。
スマホの横幅はそれほど変わらないんですが、縦がかなり長くなりましたからね。
プラスチックの劣化を警戒して、今のはバーへの取り付け部は金属のものを買いましたが、スマホ自体を挟む部分はプラスチックで劣化が進んでいる可能性もありますし、走行中にバランスを崩したりホルダーが割れたりして、スマホが落ちてしまったら目も当てられない。
というわけで、ツーリングの季節を迎えたこともあり、新品に換えることにしました。
探したのは、G02用のシリコンケースとそのホルダーだったのですが、色々と探してみると、3年前には無かった種類の製品が出ているんですね。
探してたカバーとホルダーの両方を一気に解決するホルダーを発見しました。
上下をシリコンゴムに引っ掛け、バンドでハンドルバー等に固定するヤツです。
 
 
これならある程度、カバー代わりにもなりますしね。
というわけで、設置してみました。
 
 
果たして、ツーリングの御供として相応しい働きをするのか?
乞うご期待!
 

2018年5月22日火曜日

飛騨富山ツーリング その10

前回のあらすじ
 
僅かな平地に拓けた町。
神岡は山間の雰囲気があって良いですな。
 
神岡城を出て、そのまま東方向へ向かうと、国道471号線へと出ます。
次の目的地は江馬氏下館ですが、その前にちょっとお土産を、というわけで、道の駅宙ドーム神岡へ。
駐車場に入ってみると、やたらとバイクが多い。
そんなに471ってメジャーな道なんか?400番台やのに?と思いつつよくよく見てみると、止めるバイク止めるバイク、みんな楕円形のステッカーを貼ってました。
そうか、SSTR!
今日はSSTRの日だったのか。
秋から5月に変わったというのはうろ覚えで知っていましたが、まさか今日とはね。
ほうほうそうだったのかと思いながら道の駅に入って行き、土産物を見てみると、今度はやたらと「君の名は」という文字が目に入りました。
なんでかな?とスマホで調べてみると、三葉の生活していた町が飛騨古川をモデルとしていたみたいですね。
もう今朝寄ってきてもたがな。
知ってたら駅ぐらいには寄ってたのに。
いや、見たいと思いながらまだ見てないから、結局は寄らんかったかな?
ま、それは置くとして、土産も買えたし、カミオカンデの展示も見れたし、満足ですわ。
 
次に向かう江馬氏下館跡の史跡公園は、宙ドームからわずか200mほどのところにあります。
バイクを止め、眩しい陽光の中、芝生が敷かれて綺麗に整備されている公園内を散策すると、とても清々しかったですね。
下は全体図。
 
 
観光客は自分ひとりでしたが・・・
眺めが良くて、当時の殿様気分が味わえます。
 
 
居館も一部が復元されていました。
 
 
この居館の前には堀跡が。
往時はもっと深くて壮観だったんでしょうね。
 
 
復元居館の塀の内側に入ると、復元されていない建物の部分も大きさが明示されていました。
渡り廊下を持ち、4棟の建物があったようです。
 
 
高原郷を見る限りでは、平地は少なく、農産物の穫れ高は期待できません。
飛騨全体ですら、慶長検知で3万8千石です。
その北側の1/4程度、平地だけで言えばそれよりもっと少ないかもしれませんが、それでこの規模の居館ですからね。
どれだけ米以外の収入、山の資源から恩恵を受けていたのかが解ります。
復元居館の方へ行くと、ちょうど大阪からの観光客の方も来られて、人恋しそうな係の人に案内して頂きました。
建物自体は、当地の技術も取り入れられており、往時よりも立派になっているようです。
建物からは、当時の庭園が見えました。
この復元居館で一番の見所かもしれませんね。
 
 
この館跡が発掘される前、農地にこの庭園の岩の頭だけが露出していたようです。
地元の伝承で、殿様の庭園の石として伝わっていました。
その後、神岡鉱山の排水を原因とするイタイイタイ病の公害が発生し、農地がカドミウムに汚染された為、土壌入れ替えの必要が生じたんですが、その際に発掘されて、伝承の正しさが証明されたわけですね。
単純に発掘されたわけではないのが複雑ですが、高原郷の良くも悪くも色んな歴史が籠められている場所かもしれません。
 
江馬氏下館の次は、同じく江馬氏の詰城である高原諏訪城へ向かいます。
人恋し気な係員の方に場所と行き方を聞き、バイクを走らせるとすぐに到着しました。
ただ、ダムへと向かう道の為か、坑口に通じてる道の為か、大型ダンプが頻繁に通るので、そこは注意が必要ですね。
その道脇にバイクを止め、山へと入って行きます。
道から少し入ると、そこはもう段郭でした。
 
 
しめて3段ほどあります。
その2段目と1段目の切岸。
 
 
こういう形って、いかにも城という感じで好ましいですね。
段郭を越えると、土塁付きの武者走りのような地形が続きます。
 
 
土塁は北東方向にあるんですが、どういった用途なんでしょうかね。
往時は今のダムへと向かう川筋から山之村や和佐府へ抜ける街道があったと思われるので、その街道筋に対する防御用、目隠し用の土塁かもしれません。
ここを抜けると、主郭部の下に出ます。
そこには堀切もありました。
 
 
ちょっと判りにくいかな?
少し進むと、竪堀らしきえぐれた地形が出てきました。
 
 
ここを過ぎると、主郭部から北東に続く段郭に入って行きます。
こちらの段郭はざっと見た感じ4段。
登山道が段郭の途中に出るので、ちゃんと散策すればもうちょっとあるかもしれません。
その段郭を過ぎるといよいよ主郭部。
二ノ丸と言うべき次段は、帯郭のような細さでした。
二ノ丸南側。
 
 
そして、東側。
 
 
どちらも見事に同じような感じですね。
帯郭や段郭を多用するのも飛騨の城の特徴ですが、この城は楕円の主郭部の同心円状に帯郭のような次段を置くという、ちょっと変わった構造です。
そういえば、木曽の妻籠城がこんな構造でしたね。
北アルプス繋がりで何かあるんでしょうか。
そして、最高部の本丸。
 
 
城址碑が小さい・・・
江馬氏が地味だからかなぁ
最後に、本丸から神岡町市街の眺め。
 
 
下館もはっきり見えますね。
うん。
飛騨もついに廻り切ったな
満足じゃ!
 
つづく。
 
参考:
地図付きはこちら
 

2018年5月15日火曜日

飛騨富山ツーリング その9

前回のあらすじ
 
古川国府盆地は大きな平坦地。
長閑な長閑な盆地でしたな。
 
山田川沿いの袖川の集落には、県道75号線と国道41号線の交差点があります。
ここで、旧越中東街道が国道41号線のルートになり、その道は神岡町、つまり高原郷へと続いていくわけですな。
その途中、寺林という集落があります。
ここには、政元城と同じく、江馬氏城館跡として国指定の史跡に登録されている1つの館と6つの城の内のひとつ、寺林城がありました。
堀之内から寺林にかけては、勾配を持った地形が続くんですが、高原郷へと出て行く街道の坂を監視するように、楔のように打ち込まれていたのが寺林城というわけですね。
寺林城というからには寺林の集落からだろうと、国道41号線から寺林地区へ右折し、緩やかな坂が続く田園を抜けていくと、突き当りの三叉路に着きました。
しかし、この辺りに何も城跡を示す表示がない。
右に曲がってみても、左に曲がってみても、表示は見つけられませんでした。
なかなか手強い・・・
しかし、今日は富山まで出なくてはいけません。
時間を考えると、じっくり探している時間はありませんでした。
止むを得ぬが、残念!
 
国道に戻って寺林から結構な坂を下って行くと、いよいよ神岡の市街に到着です。
国道から斜めに右折し、昭和的な雰囲気が色濃い今町通りから西里通りを抜けると、西里橋で神岡の中心を流れる高原川を渡り、神岡の中央公民館が見えてきました。
周辺は、坂ばかりのような町といった感じです。
下呂温泉の駐車場付近もこんな感じでしたね。
そういえば、長崎の亀山社中の近くもこんな感じでした。
坂のある風景ですな。
ここでトイレ休憩をし、地図を確認。
神岡城こと高原郷土館は近いぞ。
中央公民館からは、公民館の東側の、車じゃすれ違えないほどの細い道を通って神岡中学校方向へ進んで行ったんですが、中学校の西側は階段になっていたので、中学校の隣の神岡城へは行けませんでした。
なので、中学校の外周をぐるっと廻って神岡城へ到着。
神岡城は、中学校のお隣さんです。
いざ、神岡城へ・・・と行く前に、隣の鉱山資料館へ。
 
 
神岡鉱山がもう閉山してしまっているせいか、鉱山資料館の展示内容がかなり古いのは残念でしたが、逆手に取ると今では貴重なものかもしれませんね。
鉱山が熱かった頃の、当時の雰囲気を保管しているタイムカプセルとも言えます。
その鉱山資料館から神岡城の全景。
 
 
ここは、戦国時代には東町城と呼ばれた城があり、飛騨侵攻の総大将だった武田家重臣山県昌景の命で江馬氏によって築かれたとされています。
 
 
神岡城は、その遺構を利用して建てられていますが、写真をよく見てもらうと判るんですが、石垣部分は目が斜めの谷積のようになっているので、間違いなく当時のものではありません。
立地は、群馬に見られる武田系の城と同様に典型的な崖城ですし、それらの城も武田時代は土の城ですしね。
石垣は考えにくい。
こから20年ほど後の金森氏時代でも無さそうです。
増島城の石垣は豪壮な野面の高石垣でしたが、目はちゃんと横に通ってましたからね。
神岡城が建てられる前は、開墾されて畑だったのかそれとも住宅地だったのかは知りませんが、この石垣は少なくとも江戸時代後期以降のもので、一番可能性が高いのは神岡城が建てられた時に積まれたというところでしょうか。
ただ、城跡としては、下のように割と幅広の空堀が明確に残っているので、他の施設として整備された跡というのを考えると、思ったよりも散策して楽しかったです。
 
 
改めて、神岡城の前景。
 
 
内部から神岡市街。
 
 
上にも書きましたが、川筋の典型的な崖城です。
川筋の街ってのも、景色としていいですな(^^)
次に、同敷地内にある旧松葉家。
 
 
中には飛騨地方の民俗文化を知れる数々の品がありました。
特にびっくりしたのは神棚と仏壇。
どっちも贅を凝らしたもので、どこかの豪農のものでしょうね。
飛騨は天領でしたから、年貢も安かったはず。
その資本の蓄積を感じると共に、神仏の有難味、豪農本家の資本の重厚さというのが、なんだか凄く伝わってきました。
 
つづく
 
参考:
寺林城
東町城
高原郷土館
地図付きはこちら
 

2018年5月11日金曜日

飛騨富山ツーリング その8

前回のあらすじ
 
見つけにくい城に到達した時は、また格別な達成感がありますな!
 
古川城を出て、次に向かうは増島城。
天正13年(1585)の金森長近の飛騨制圧後、古川を任されたのはその養子可重で、前回記事にした古川城に入城しました。
しかし、古川城は典型的な中世的な山城で、支配拠点としては不便だったと思われ、可重は翌年に増島城を築いて移っています。
増島城は、飛騨で唯一の平城で、幅広の堀を持った近世平城なんですが、飛騨の戦乱が収まったという確信があったから築いたんでしょうな。
飛騨の盆地は細長く、平城では盆地の境を構成する山々から見下ろされ、城内の様子が丸わかりですから。
この為、それまでは、せいぜい居館程度に留まっていたわけです。
単純に山に築いた方が、物理的な防御力も得やすいですしね。
この増島城が築かれた当時は、飛騨の人にとっては、城の概念が覆された瞬間だったのかもしれませんな。
その増島城の堀は、現在でもきちんと残っています。
 
 
今は、稲荷社の境内となっていました。
 
 
ちなみに、増島城の城域は大部分が古川小学校の敷地になっており、この稲荷社は、小学校に突出したような形になっています。
この日も、子供達が境内で遊んでいました。
その稲荷社の入口にも説明板がありますね。
 
 
稲荷社の石垣を見てみると、左右で違いが見られます。
向かって左側。
 
 
小奇麗な谷積ですね。
城は一国一城令後も旅館として維持されましたが、その後、金森氏の移封によって破却され、稲荷社の境内となりました。
その時に補修されたものかもしれません。
次に向かって右手。
 
 
無骨な野面積ですね。
これは築城当時のものでしょう。
綺麗さは少ないですが、実用性重視の何とも言えない趣がありますね。
この石垣の南面も見事でした。
 
 
なかなか迫力がありますな。
そのまま東側に回ると、やはり谷積の石垣になります。
 
 
城がどのような歴史を辿って来たのか、石垣が最もよく表しているのかもしれません。
 
増島城を後にすると、そろそろ昼時に差し掛かってきたので、国道沿いに見つけた福来亭という中華屋さんで昼ご飯。
田舎は飲食店が少ないですからね。
見つけたら即入っておかないと、コンビニ御飯になってしまいます。
お昼ご飯はこんな感じ。
 
 
店を選ばずに入りましたが、安くてボリューミーでラッキーでした。
お腹も満たされたので、いざ神岡へ。
神岡へは、国道41号線が通じていますが、杉崎駅の近くから山へと入る県道75号線を取りました。
この道は、今の国道41号線が整備される前、神岡と古川を結ぶメインの道路だったようです。
この道すがら、巣山という場所を通るのですが、戦国時代の頃の主街道だった越中東街道は、この県道75号線でもなく、神岡、つまり当時の高原郷からこの巣山に出、巣山から大坂峠へ向かい、県道76号線のルートに出ていました。
時代を経るに従って、古川盆地へ出る場所は、北へ北へ変遷していったわけですね。
高速、大量という時代の要請から、険しいながらも最短距離を取るより、多少遠くても広くて緩やかな道が必要となったわけです。
ところで、大坂峠と言えば、十三墓峠という物騒な別名がありますね。
本能寺の変が起きて再び情勢が流動的となった天正10年(1582)、高原郷の大名江馬輝盛は、織田家と結んでいた姉小路自綱と雌雄を決すべく、この越中東街道を経て古川へ押し出しました。
織田家が跡目争いで混乱している今、姉小路氏には援軍が期待できないと踏んでの事です。
しかし、序盤は優勢だったものの、八日町の合戦で肝心の輝盛が討死してしまい、江馬勢は総崩れとなってしまいました。
この翌日には、高原郷まで一気に攻め込まれ、江馬氏は滅亡してしまうのですから、尋常ならざる崩れ方だというのが解りますね。
軍勢が潰走する中、輝盛に忠誠を誓った側近たちは、もはやこれまでと途中の大坂峠で殉死しました。
その後、その亡骸を地元の住民が祀って墓を建てたことから、十三人の墓、十三墓峠という名が付いたのです。
十三墓という恐ろし気な字面とは裏腹に、哀しい逸話ですな
 
巣山より北の県道75号線は、恐らく江馬勢が潰走したルートにあたるのですが、その途中に政元城という城があります。
前日に、ルートを予習している際に発見したんですが、急遽、寄る事にしました。
政元城は、平治元年12月(1160.1)の平治の乱の時に、源義平の家臣正本主馬が築いたという伝承もありますが、恐らくは伝承のみの話でしょう。
戦国時代に吉村政元が在城していたことから、政元城と呼ばれ、それが泊付けで正本主馬に結びつけられた疑いが濃厚です。
それはともかくとして、吉村氏は、江馬四天王、江馬氏八大家に数えられていることから、相当な重臣であったことはまちがいありません。
主街道を押さえる城の主でもありますしね。
そして、城の麓の大国寺辺りに居館があったのでしょう。
城の麓の寺社は、たいてい居館が出発点になっていますから。
城へは、その大国寺の裏手から登山道が延びていました。
地元の人が丁寧に整備をしているようで、非常に登り易かったですね。
スルスルと登って行くと、まずは段郭が幾段かあり、案内板がありました。
 
 
この近くが本丸です。
本丸はやや変わった感じの構造で、中央に空堀が穿たれ、2つの区画に分かれていました。
 
 
空堀には木橋がかけられています。
ただ、もう朽ちていて、踏むと危なそうだったので、飛び越えました。
 
 
飛び越えた先の、本丸奥部。
 
 
この先、山頂には狼煙台があるようなんですが、完全に藪化していたので、5mほど進んで断念しました。
帰り際、登山道の分岐を南方向に行くと、こちらにも段郭が。
 
 
確認できるだけで3つぐらい削平地があります。
城跡として整備されているのは、全体からすると、意外と小さい面積なのかも知れませんね。
 
つづく
 
参考:
増島城
政元城
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2018年5月6日日曜日

飛騨富山ツーリング その7

前回のあらすじ
 
割とノーマークだった広瀬城。
絶対お勧め!
 
高山盆地から宮川に沿って北西にひとつ山を越えると古川国府盆地に入るというのは前回も書きましたが、国府の名の通り、この古川国府盆地が飛騨で最も早く拓けた場所なでしょうね。
ただ、開拓が進むと、高山盆地の方が広い為、国府もそっちに移ったようですが。
前回の広瀬城は、古川国府盆地の南東端、国府付近を押さえる城でした。
駅名で言えば飛騨国府駅の周辺。
そして、その次の駅が飛騨古川駅で、ここが古川盆地の中心ですね。
この辺り、建物も高くなくて、川沿いの盆地というのがよく解り、肥沃な盆地という感じがします。
南北朝時代に飛騨に国司として入部した姉小路氏は、この古川一帯を基盤として勢力を築いていました。
その後、南北朝の合一が成った後なのかその前なのか、姉小路家は3分裂し、ちょうど古川国府盆地の古川地域を北西から南東にかけて3分割するような形になったと思われます。
本家筋の小島家、向とも小鷹利とも呼ばれる家、そして古川家です。
それぞれの城は、杉崎駅の東側辺り、盆地の北西端、そして中心部の南側と、ちょうど姉小路一門の勢力範囲を三角形で囲むような配置となっていますね。
当初は、それぞれが協力して勢力範囲を守ろうとした意図が窺えますな。
しかしながら、どこの家でも権力を持つ家は本家と分家で争いが多いのですが、やがて姉小路家にも内訌が起こりました。
時に応永18年(1411)のことです。
古川家の尹綱が、小島家と向家を攻撃しました。
この尹綱の乱は、幕府の命で飛騨守護の京極氏が討伐することになります。
こうなっては、尹綱に味方する勢力も少なく、尹綱は敗れるほかありません。
ただ、この後も古川家は遺児の昌家が赦された為、存続しました。
そして、昌家の子基綱の頃には、ほぼ惣領と言えるほどの勢力に回復したようです。
しかし、この後は幼主や頻繁な代替わりが続いて勢力を衰えさせ、戦国時代には台頭した三木氏に抗えず、古川家は享禄4年(1531)に滅亡しました。
その後、この名跡を後に三木氏が相続し、姉小路を称するわけですな。
めでたしめでたし。
いや、終わったらあかんがな。
 
というわけで、古川家が一時本拠としていたという古川城へ。
古川城。
この城には案内がありません。
事前に予習して目星を付けていたんですが、ものの見事に迷いました。
古川の中心部から、県道90号線という立派な道が西へ延びているのですが、その南の高野の集落辺りから道があるかなと思ってウロウロしてみたものの、見つかりませんでした。
そこで、スマホから検索してみたところ、もうひとつ南の道から城に入ることができるとのこと。
少し戻って山側の工場へ向かう道に入り、石がうず高く積まれている横を通り過ぎると肥料工場に着きました。
情報によると、この肥料工場付近から城へ行く道があるようですが・・・
山側へ続く林道はあるものの、どうも違う。
小川を渡った先には峰筋が見えるのですが、直登しなくちゃならない。
そこで、少し戻ってよくよく確認してみると、石がうず高く積まれた山の近くに崩れた廃屋があり、その横に薄っすら獣道が見えました。
新緑の5月ということもあって、訪れる人もまばらな登城道は草にほぼ埋もれていたわけですな。
ここから城へ入って行くと、中腹に削平地がありました。
居住区画ですかね。
 
 
ここから更に登って行くと、いよいよ主郭に到着。
主郭は小段を含め4段構成でした。
下は4段目と3段目の間の虎口。
 
 
4段目が小さいので、馬出みたいなものですかね。
3段目には、この城の名物とも言うべき蛤石と城址碑がありました。
 
 
この3段目は、本丸と二ノ丸の腰郭となって延びています。
3段目の先にやや高低差を持って二ノ丸。
 
 
そして本丸。
 
 
本丸は意外と広いスペースを持っています。
その突端に櫓台。
 
 
本丸の先には、かなりの高低差を持って更に削平地がありました。
典型的な、峰筋に構えられている山城の構成ですね。
 
 
なかなか良い城です。
ちなみに3段目近辺には幾筋か竪堀も確認できました。
下は、そのうちで最も確認しやすいもの。
 
 
左下から延びる筋が綺麗に残っていますね。
西端の削平地から先を確認してみると、先ほどの肥料工場の林道が見えました。
ここから下って行くと辿り着けそう。
膝の高さの浅い藪をかき分けていくと行くと、無事に肥料工場の前の道に到着しました。
解ってしまえばどうということはないんですが、初見ではちょっと難しい城でしたね。
 
つづく
 
参考:
古川城
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2018年5月2日水曜日

南北首脳会談

さる4/27に、韓国と北朝鮮の南北首脳会談が行われました。
連日、韓国メディアや日本のメディアでも報じられており、注目度の高さが窺えます。
個人的な感想としては、
若いのに意外としゃがれた声やな
というところなんですが、それは置くとして、韓国メディアや、それを踏まえて報じる日本のメディアに、楽観論があるようでやや心配です。
単純な話、海千山千の北朝鮮王朝がそんなに簡単に折れるか?ということですね。
簡単に折れるなら、今までの瀬戸際外交でそこまで頑張るわけはないと。
南北首脳会談での融和ムードは、韓国文大統領の盟友だったとも言うべき
廬元大統領の時代にもありましたし、6ヶ国協議が有効だった頃にもありました。
そこで何が得られたか。
核開発の継続と、約束の反故です。
このまま進展すれば言う事無しですが、過去の経緯をメディアは押さえておかなければなりませんね。
それができていない気がします。
ただ、韓国のメディアに関しては、これは意図的かもしれません。
文大統領は親北ですから、政権の成果として自分に有利な情報、有利な憶測を流します。
メディアにも色がありますから、自分の好みに合う色を選んで報じる。
情報には、常にそういう発信者の立ち位置がありますが、今回は特に確認が必要でしょうな。
  
一連の今回の外交劇の感想としては、同じ方法なら地力をモノを言うんやな、という当たり前で普遍的な事が思い浮かびますね。
トランプ大統領は、やり手ビジネスマン特有の、勝負する時には早くかつ徹底的にやるという方法を外交に持ち込んでいますが、今回の融和劇には、その政策上にある経済制裁が効いているというのがあるんでしょう。
一時は、両首脳のブラフ合戦のような様相を呈していました。
ブラフ路線は、他が折衷案的な方法を採る場合には有効ですが、同じ路線なら地力の大きいほうが勝ちます。
言うなれば、トランプ大統領は金正恩委員長と同じ舞台に立った。
これが大きかったのではないでしょうか。
同じ舞台でガチにやり合えば、地力から勝負は見えていますからね。
過去の米大統領は、そういう方法がスマートではないという価値観があったように思います。
だから振り回された。
一方、トランプ大統領は、スタイルに拘らずどん欲に果実を獲りに行ったわけです。
実にビジネスマンらしいですね。
 
これから先、本丸とも言うべき米朝首脳会談が待っています。
どうなるのか、行方が気になりますな。