ふと思い立ち、バイクのクラッチレバーを交換してみました。
ツーリング先での転倒対策で可倒式。
そして、よく見る調整機構も付いたやつです。
今のままでも問題ないのですが、もう少し近ければいいかなって感じで。
しかし、しかし。
交換してみて解ったこと。
これ、あかんやつや。
そう、ダメなんです。
調整機構はダイヤルになってたんですが、そのダイヤル部分が握りこむとスイッチボックスに当たる・・・
なんで?
車種対応品ちゃうの?
いやー、対応車種の表記なんて適当なもんですな。
クラッチの遊びを目一杯調整すると、一番開いた状態で握りを一番浅くしたセッティングが一番当たらないんですが、表示切替のスイッチには軽く当たる。
普通に走ってるとトリップメーターが切り替わったり、時計表示も知らない間に変わってたり・・・
しかもこのセッティングでは純正とほぼ変わらん握りの深さ(泣)
調整機構の意味無ぇー!
なんか見た目だけ無駄にカッコ良くなりましたが、やっぱり戻しました。
ツーリングに持っていく予備部品行き。
ある意味、転倒対策にはなったんですがね(苦笑)
しかし、車外品なんて適当だねぇ・・・
2015年2月28日土曜日
2015年2月23日月曜日
兵庫城 その5
去る1/31に、兵庫城の発掘調査の現地説明会がありました。
その資料は下で見ることができます。
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/folk/estate/hyougotu62-3.html.pdf
いよいよ、発掘調査の本丸たる城の遺構がメインということで、今回は資料に飽き足らず、頑張って現地まで行ってきました。
時間の都合で、説明を聞くことはできませんでしたが。
今回の発掘では、城の二重の堀が検出された事がメインです。
多分、これは元禄期の絵図にもあることから、予定通り。
ただ、本丸への虎口が絵図と違って2ヶ所あったことと、馬出のような感じだった二ノ丸が帯郭のような形である可能性が出てきた事が、新たな発見ですね。
元禄図は、城から行政施設の意味合いが濃い陣屋になってから、かなり経って描かれたものですから、当然のことながら、形が初期から変わっている可能性も高いわけです。
特に二ノ丸や内堀は、東から北に掛けて半周していたとすれば、かなり役割が違い、より軍事的性格が強い場所となりますね。
ただ、その先が運河で無くなっているだけに、検証のしようがないとは思いますが・・・
現地での写真はこんな感じ。
これは、良好な感じで100m以上も残っていた外堀の南側の基部。
戦国期らしい野面積で武骨です。
これは二ノ丸から内堀と奥の本丸。
右手奥には二ノ丸から本丸への土橋の石垣が見えますね。
説明会の日はとてもとても寒い日だったんですが、思いのほか、人が多く来てました。
バスや地下鉄で行かないと行きにくい場所なんですが、予想以上の注目度だったようです。
いや~、なかなか侮れない!
参考:
兵庫城
地図付きはこちら
その資料は下で見ることができます。
http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/folk/estate/hyougotu62-3.html.pdf
いよいよ、発掘調査の本丸たる城の遺構がメインということで、今回は資料に飽き足らず、頑張って現地まで行ってきました。
時間の都合で、説明を聞くことはできませんでしたが。
今回の発掘では、城の二重の堀が検出された事がメインです。
多分、これは元禄期の絵図にもあることから、予定通り。
ただ、本丸への虎口が絵図と違って2ヶ所あったことと、馬出のような感じだった二ノ丸が帯郭のような形である可能性が出てきた事が、新たな発見ですね。
元禄図は、城から行政施設の意味合いが濃い陣屋になってから、かなり経って描かれたものですから、当然のことながら、形が初期から変わっている可能性も高いわけです。
特に二ノ丸や内堀は、東から北に掛けて半周していたとすれば、かなり役割が違い、より軍事的性格が強い場所となりますね。
ただ、その先が運河で無くなっているだけに、検証のしようがないとは思いますが・・・
現地での写真はこんな感じ。
これは、良好な感じで100m以上も残っていた外堀の南側の基部。
戦国期らしい野面積で武骨です。
これは二ノ丸から内堀と奥の本丸。
右手奥には二ノ丸から本丸への土橋の石垣が見えますね。
説明会の日はとてもとても寒い日だったんですが、思いのほか、人が多く来てました。
バスや地下鉄で行かないと行きにくい場所なんですが、予想以上の注目度だったようです。
いや~、なかなか侮れない!
参考:
兵庫城
地図付きはこちら
2015年2月14日土曜日
千葉さんのややこしや~
去年の秋に佐賀に行った関係で、最近は肥前千葉氏界隈の事を調べていました。
肥前千葉氏と言えば、佐賀藩祖の鍋島直茂が幼い頃に養子になっていた事で、多少は知られているんじゃないでしょうか。
この肥前千葉氏の誕生のきっかけは元寇です。
肥前小城の領地を、当主である千葉頼胤が持っていた関係で、九州領主として防衛を命じられ、九州へと下ったのが最初。
この頼胤、文永11年(1274)の文永の役に参戦しまたが、戦傷を負い、翌年に没してしまいます。
しかし、依然として元の脅威は去らない。
お役目はそのままです。
そこで、長男宗胤が元服しないまま九州へ下り、父の役目を引き継ぎました。
残された千葉の本領では次男胤宗が留守を守っており、後に惣領を継ぐ事になります。
長男宗胤と次男胤宗。
宗胤胤宗。
・・・。
頼胤死去に伴い子宗胤が九州へ下り頼胤の次男で宗胤の弟である胤宗が千葉の本領に残ったが後に胤宗が惣領となった。
・・・・・・ゲシュタルト崩壊しそう。
いや、まだここまではいい。
この後が問題。
この兄弟のそれぞれの子供は、胤貞と貞胤。
これが惣領を巡って争うんですわ。
胤貞貞胤。
・・・。
頼胤死去に伴い子宗胤が九州へ下り頼胤の次子で宗胤の弟胤宗が千葉に残って惣領となったが宗胤の子胤貞は惣領を取り戻すべく胤宗の子貞胤と対立。胤貞は貞胤の千葉荘を攻め胤貞の上洛後に貞胤は胤貞の千田荘を襲うが後に北朝方に降伏。胤貞が貞胤の護送を任され惣領に復帰すると目されたがその帰路の三河で病没し結局は貞胤が惣領となった。
ややこしや~
事跡を追うのに混乱するわ!(笑)
このややこしさの原因は、北条氏による偏諱にあります。
歴代を並べてみると、
北条氏得宗家
経時-時頼-時宗-貞時
千葉氏
時胤-頼胤-宗胤-胤貞
∟胤宗-貞胤
足利氏でも、
泰氏-頼氏-家時-貞氏
となっているように、得宗家からの偏諱の一文字+その家の通字という名が多いですね。
得宗家の通字である「時」は珍しく、通字ではない方の字の偏諱が多いという傾向も見えます。
ちなみに、泰氏の「泰」は、北条経時の祖父でその前の当主でもある泰時からでした。
それからもうひとつ。
戦国時代に慣れていると、大内氏や大友氏なんかはそうですが、その家の通字+偏諱の一文字というパターンが多いのですが、鎌倉時代は逆になっていることが多かったようです。
この法則を千葉氏に当てはめてみると、時胤、頼胤はもちろん、宗胤も惣領としての名となります。
対して、胤宗は字順が逆になっていることから、庶子という扱いでした。
これが胤宗が惣領を継いだ後では、本来惣領筋だった胤貞は庶子としての名となり、貞胤が惣領として扱われたことが解ります。
なかなか、厳密な運用ですな。
惣領かそうでないかはかなり重要だから当たり前か。
でも・・・兄弟で前後の字が逆ってのはややこしいぜ(泣)
肥前千葉氏と言えば、佐賀藩祖の鍋島直茂が幼い頃に養子になっていた事で、多少は知られているんじゃないでしょうか。
この肥前千葉氏の誕生のきっかけは元寇です。
肥前小城の領地を、当主である千葉頼胤が持っていた関係で、九州領主として防衛を命じられ、九州へと下ったのが最初。
この頼胤、文永11年(1274)の文永の役に参戦しまたが、戦傷を負い、翌年に没してしまいます。
しかし、依然として元の脅威は去らない。
お役目はそのままです。
そこで、長男宗胤が元服しないまま九州へ下り、父の役目を引き継ぎました。
残された千葉の本領では次男胤宗が留守を守っており、後に惣領を継ぐ事になります。
長男宗胤と次男胤宗。
宗胤胤宗。
・・・。
頼胤死去に伴い子宗胤が九州へ下り頼胤の次男で宗胤の弟である胤宗が千葉の本領に残ったが後に胤宗が惣領となった。
・・・・・・ゲシュタルト崩壊しそう。
いや、まだここまではいい。
この後が問題。
この兄弟のそれぞれの子供は、胤貞と貞胤。
これが惣領を巡って争うんですわ。
胤貞貞胤。
・・・。
頼胤死去に伴い子宗胤が九州へ下り頼胤の次子で宗胤の弟胤宗が千葉に残って惣領となったが宗胤の子胤貞は惣領を取り戻すべく胤宗の子貞胤と対立。胤貞は貞胤の千葉荘を攻め胤貞の上洛後に貞胤は胤貞の千田荘を襲うが後に北朝方に降伏。胤貞が貞胤の護送を任され惣領に復帰すると目されたがその帰路の三河で病没し結局は貞胤が惣領となった。
ややこしや~
事跡を追うのに混乱するわ!(笑)
このややこしさの原因は、北条氏による偏諱にあります。
歴代を並べてみると、
北条氏得宗家
経時-時頼-時宗-貞時
千葉氏
時胤-頼胤-宗胤-胤貞
∟胤宗-貞胤
足利氏でも、
泰氏-頼氏-家時-貞氏
となっているように、得宗家からの偏諱の一文字+その家の通字という名が多いですね。
得宗家の通字である「時」は珍しく、通字ではない方の字の偏諱が多いという傾向も見えます。
ちなみに、泰氏の「泰」は、北条経時の祖父でその前の当主でもある泰時からでした。
それからもうひとつ。
戦国時代に慣れていると、大内氏や大友氏なんかはそうですが、その家の通字+偏諱の一文字というパターンが多いのですが、鎌倉時代は逆になっていることが多かったようです。
この法則を千葉氏に当てはめてみると、時胤、頼胤はもちろん、宗胤も惣領としての名となります。
対して、胤宗は字順が逆になっていることから、庶子という扱いでした。
これが胤宗が惣領を継いだ後では、本来惣領筋だった胤貞は庶子としての名となり、貞胤が惣領として扱われたことが解ります。
なかなか、厳密な運用ですな。
惣領かそうでないかはかなり重要だから当たり前か。
でも・・・兄弟で前後の字が逆ってのはややこしいぜ(泣)
2015年2月10日火曜日
自己責任と役割
最近、ISILによって日本人が殺害されるという事件がありましたが、必ず出てくるのが自己責任論。
自分は、危険地帯に立ち入るのは自己責任だと思う方ですが、各メディアやネットを見ると、なんか色々一緒くたになってる気がします。
まず、整理すると、外国の情報というのは、一般人では個人ベースで得られる情報はそんなに多くなくて、現地や隣国に置かれた大使館や領事館等による情報収集によって得られる部分が多いはずです。
この大使館等の運営資金は税金。
つまり、その国が安全か否か、という情報の収集と発信は政府の責任です。
ここまでは当たり前の話。
で、この先。
その危険であるという情報を知った上で行動するのは、どこに責任の所在があるのか。
ここは、やはり行動した本人に掛かる部分ではないですかね。
今回、政府は湯川さんに関しては把握してなかったようですが、後藤さんに関しては把握しており、3回も渡航自粛要請をしている。
また、かなり前からシリアやイラクに関しては退避勧告も出している。
これは、危険情報の中では最も重いランクです。
更には、後藤さんも自己責任というのを強調した動画を撮っていました。
本人の自覚もあったわけですね。
しかし、この自己責任論と、救出云々の話はまた違う話です。
国には、国民、つまり国籍保有者の生命と財産を守る義務があります。
その過程がどうであれ、つまり責任の所在がどこにあろうとも、救出はしなければなりません。
やらざるを得ないわけです。
それが国としての義務、役割だから。
自己責任だからほっとけばいい、という訳にはいきません。
政府の責任だから救え、というのもまた違います。
責任は観念論みたいなものですが、役割というのは実務です。
好悪善悪は脇に置き、どこに責任があろうが、発生したものにはしっかりと対処するのが当たり前なんです。
この辺り、きっちりと分けておいて欲しいですね。
自分は、危険地帯に立ち入るのは自己責任だと思う方ですが、各メディアやネットを見ると、なんか色々一緒くたになってる気がします。
まず、整理すると、外国の情報というのは、一般人では個人ベースで得られる情報はそんなに多くなくて、現地や隣国に置かれた大使館や領事館等による情報収集によって得られる部分が多いはずです。
この大使館等の運営資金は税金。
つまり、その国が安全か否か、という情報の収集と発信は政府の責任です。
ここまでは当たり前の話。
で、この先。
その危険であるという情報を知った上で行動するのは、どこに責任の所在があるのか。
ここは、やはり行動した本人に掛かる部分ではないですかね。
今回、政府は湯川さんに関しては把握してなかったようですが、後藤さんに関しては把握しており、3回も渡航自粛要請をしている。
また、かなり前からシリアやイラクに関しては退避勧告も出している。
これは、危険情報の中では最も重いランクです。
更には、後藤さんも自己責任というのを強調した動画を撮っていました。
本人の自覚もあったわけですね。
しかし、この自己責任論と、救出云々の話はまた違う話です。
国には、国民、つまり国籍保有者の生命と財産を守る義務があります。
その過程がどうであれ、つまり責任の所在がどこにあろうとも、救出はしなければなりません。
やらざるを得ないわけです。
それが国としての義務、役割だから。
自己責任だからほっとけばいい、という訳にはいきません。
政府の責任だから救え、というのもまた違います。
責任は観念論みたいなものですが、役割というのは実務です。
好悪善悪は脇に置き、どこに責任があろうが、発生したものにはしっかりと対処するのが当たり前なんです。
この辺り、きっちりと分けておいて欲しいですね。
2015年2月5日木曜日
両毛・新潟ツーリング その12
前回のあらすじ
蔵王堂城、栃尾城、順調!
天気も良くて気持ちよし。
栃尾から向かうのは与板。
与板の本与板城も13年前のリベンジで、その時は城の案内図のある麓までは行ったけど、登城せずじまい。
長岡に泊まって、新潟へ向かう途中で寄ったっけ。
懐かしいですわ。
ただ、栃尾から与板方向には目ぼしい国道が無いので、現地で県道を確認しながら西方向へ直線的にルートを選択していきます。
田舎でこういうルート選択の仕方をすると、信号が少なくて停車時に確認するということもできないので、感覚的な方向と直感で選択することになるんですが、これ以上無いというぐらいのベストな選択をする場合と、いつの間にやら逆方向みたいな選択になる場合があります。
まさにギャンブル!
いや、そこは止まって確認せい(笑)
今回は、そういう意味では、ほぼ当たりでした。
途中に見附があるので、その案内表示を参考に道を辿り、県道19号線に出て見附を通過し、南へ緩やかに曲がっているのが解ってすぐ軌道修正。
そして、産業団地から国道8号線に。
後は、与板へは県道20号線しかないので楽勝です。
なんか勝った気分(笑)
誰に?
改めて与板の地図を見てみると、兼続お船ミュージアムとか、幟とか、例の大河ドラマの影響なのか、観光地化が進んだ様子。
前に来た時には、そんな観光地の雰囲気なんてカケラも無かったのに、大河ドラマの影響って凄いもんだ。
肝心の本与板城はと言うと、ここにも幟が立ってましたが、草は刈られておらず、下草が生え放題。
本丸たる実城は楽に散策できましたが、二ノ郭と三ノ郭は遊歩道部分以外がやや藪化しつつある状態です。
そして南郭は、行けなくはないが草木を払う装備が要る状態でした。
大河ドラマやってる頃は綺麗に整備されてたんですかね。
でも人が多いとゆっくり散策できないし、痛し痒し。
ちなみに、与板には本与板城と与板城の2城あって、本与板城から与板城へ与板の主城が移されたと考えられていますが、その時期や並存したかなどはあまりよく判っていません。
13年前に登った与板城は、本与板城よりも急峻で、もっと山城という感じでしたね。
そういう意味では、ある程度状況が切迫した背景があったのかもしれません。
城を散策してみると、実城には何故か城址碑が2つありました。
その1。
その2。
この碑の後ろにある盛り上がりは土塁です。
実城は四周をほぼ土塁が囲っていたようで、非常に良好に残ってる部分もありました。
続いて二ノ郭。
藪化しつつある部分とすっきり下草の無い部分があるけど、何故なのか。
次は三ノ郭。
何故か二ノ郭よりも下草が無くて散策し易かったという(笑)
城へアクセスする道路がちょうど工事中で、途中でバイクを置いて城に行ったんですが、工事が終わってから城内の整備に取り掛かる予定だったのかもしれません。
でも季節が季節なんで、整備してもすぐ草だらけになりそう・・・
あと、13年前の案内板のイメージの場所が無かったんですが、城へ行くルートは別にもあるんですかねぇ
与板からは、再び国道8号線近くまで戻って、中之島見附I.C.から北陸道でビューンとひとっ飛び。
いや、まだだ、まだ終わらんよ。
金色じゃない青いマシンで呟いても様になりませんが、まだリベンジは終わらない。
13年前に薄暮の中で撤退した柏崎がある!
柏崎I.C.まで北陸道で走って、国道8号線に下り、西へ行けば目的地はすぐそこです。
例の如く、1度行き過ぎて米山台でターンして来ましたが(笑)
目的地とは、枇杷島城!
宇佐美定行のモデルと言われる宇佐美定満の居城です。
城跡は、前に訪れた当時は柏崎農業高校、現在は柏崎総合高校と呼ばれる高校になっていて、はるか昔は土塁なんかが残っていたらしいですが、今は城址碑しかありません。
その城址碑が目当て。
それしかないんですが、その碑さえ見れればちゃんと行った気になるという(笑)
で、撮ってきました。
これ以上無い満足ですわ。
これで、13年前に鵜川を眺めて佇んでいた自分自身も浮かばれることでしょう。
いや、死んでませんけども。
ついでにその鵜川。
往時は曲がりくねった川で、枇杷島城の堀の役目を果たしていました。
今は河川改修で直線的になってますけどね。
まだ3日目の昼時ですが、ここで今回のツーリングは撤収。
こっから高速をぶっ放しても、帰宅は夜。
新潟遠いっす!
帰りは京都ナンバーの軽と大阪ナンバーのマークXとで、抜きつ抜かれつの同じペースで走行。
全く知らない同士ながら、妙に親近感が湧きます。
そのランデブーも敦賀I.C.で終了して、こちらは下道へ。
この日没間近の時間、京都大阪を通るのは危険。
草津や瀬田の渋滞が待っている。
昔は天王山トンネルという如何ともし難い渋滞大王が居ましたが、トンネル4本化以降は大人しいもので、あの頃に比べたらどうってことはないけどもね。
若狭の辺りも、舞鶴若狭道が全通して北陸道と接続すれば、もう少し早く通過できるかな?
待ち遠しいですな(^^)
全通したら、北陸へ行こう!
1日目:621.8km
2日目:403.5km
3日目:765.9km 合計:1791.2km
参考:
本与板城
与板城
枇杷島城
地図付きはこちら
蔵王堂城、栃尾城、順調!
天気も良くて気持ちよし。
栃尾から向かうのは与板。
与板の本与板城も13年前のリベンジで、その時は城の案内図のある麓までは行ったけど、登城せずじまい。
長岡に泊まって、新潟へ向かう途中で寄ったっけ。
懐かしいですわ。
ただ、栃尾から与板方向には目ぼしい国道が無いので、現地で県道を確認しながら西方向へ直線的にルートを選択していきます。
田舎でこういうルート選択の仕方をすると、信号が少なくて停車時に確認するということもできないので、感覚的な方向と直感で選択することになるんですが、これ以上無いというぐらいのベストな選択をする場合と、いつの間にやら逆方向みたいな選択になる場合があります。
まさにギャンブル!
いや、そこは止まって確認せい(笑)
今回は、そういう意味では、ほぼ当たりでした。
途中に見附があるので、その案内表示を参考に道を辿り、県道19号線に出て見附を通過し、南へ緩やかに曲がっているのが解ってすぐ軌道修正。
そして、産業団地から国道8号線に。
後は、与板へは県道20号線しかないので楽勝です。
なんか勝った気分(笑)
誰に?
改めて与板の地図を見てみると、兼続お船ミュージアムとか、幟とか、例の大河ドラマの影響なのか、観光地化が進んだ様子。
前に来た時には、そんな観光地の雰囲気なんてカケラも無かったのに、大河ドラマの影響って凄いもんだ。
肝心の本与板城はと言うと、ここにも幟が立ってましたが、草は刈られておらず、下草が生え放題。
本丸たる実城は楽に散策できましたが、二ノ郭と三ノ郭は遊歩道部分以外がやや藪化しつつある状態です。
そして南郭は、行けなくはないが草木を払う装備が要る状態でした。
大河ドラマやってる頃は綺麗に整備されてたんですかね。
でも人が多いとゆっくり散策できないし、痛し痒し。
ちなみに、与板には本与板城と与板城の2城あって、本与板城から与板城へ与板の主城が移されたと考えられていますが、その時期や並存したかなどはあまりよく判っていません。
13年前に登った与板城は、本与板城よりも急峻で、もっと山城という感じでしたね。
そういう意味では、ある程度状況が切迫した背景があったのかもしれません。
城を散策してみると、実城には何故か城址碑が2つありました。
その1。
その2。
この碑の後ろにある盛り上がりは土塁です。
実城は四周をほぼ土塁が囲っていたようで、非常に良好に残ってる部分もありました。
続いて二ノ郭。
藪化しつつある部分とすっきり下草の無い部分があるけど、何故なのか。
次は三ノ郭。
何故か二ノ郭よりも下草が無くて散策し易かったという(笑)
城へアクセスする道路がちょうど工事中で、途中でバイクを置いて城に行ったんですが、工事が終わってから城内の整備に取り掛かる予定だったのかもしれません。
でも季節が季節なんで、整備してもすぐ草だらけになりそう・・・
あと、13年前の案内板のイメージの場所が無かったんですが、城へ行くルートは別にもあるんですかねぇ
与板からは、再び国道8号線近くまで戻って、中之島見附I.C.から北陸道でビューンとひとっ飛び。
いや、まだだ、まだ終わらんよ。
金色じゃない青いマシンで呟いても様になりませんが、まだリベンジは終わらない。
13年前に薄暮の中で撤退した柏崎がある!
柏崎I.C.まで北陸道で走って、国道8号線に下り、西へ行けば目的地はすぐそこです。
例の如く、1度行き過ぎて米山台でターンして来ましたが(笑)
目的地とは、枇杷島城!
宇佐美定行のモデルと言われる宇佐美定満の居城です。
城跡は、前に訪れた当時は柏崎農業高校、現在は柏崎総合高校と呼ばれる高校になっていて、はるか昔は土塁なんかが残っていたらしいですが、今は城址碑しかありません。
その城址碑が目当て。
それしかないんですが、その碑さえ見れればちゃんと行った気になるという(笑)
で、撮ってきました。
これ以上無い満足ですわ。
これで、13年前に鵜川を眺めて佇んでいた自分自身も浮かばれることでしょう。
いや、死んでませんけども。
ついでにその鵜川。
往時は曲がりくねった川で、枇杷島城の堀の役目を果たしていました。
今は河川改修で直線的になってますけどね。
まだ3日目の昼時ですが、ここで今回のツーリングは撤収。
こっから高速をぶっ放しても、帰宅は夜。
新潟遠いっす!
帰りは京都ナンバーの軽と大阪ナンバーのマークXとで、抜きつ抜かれつの同じペースで走行。
全く知らない同士ながら、妙に親近感が湧きます。
そのランデブーも敦賀I.C.で終了して、こちらは下道へ。
この日没間近の時間、京都大阪を通るのは危険。
草津や瀬田の渋滞が待っている。
昔は天王山トンネルという如何ともし難い渋滞大王が居ましたが、トンネル4本化以降は大人しいもので、あの頃に比べたらどうってことはないけどもね。
若狭の辺りも、舞鶴若狭道が全通して北陸道と接続すれば、もう少し早く通過できるかな?
待ち遠しいですな(^^)
全通したら、北陸へ行こう!
1日目:621.8km
2日目:403.5km
3日目:765.9km 合計:1791.2km
参考:
本与板城
与板城
枇杷島城
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