2018年4月26日木曜日

飛騨富山ツーリング その6

前回のあらすじ
 
高山の外国人環境客の数、パネェ!
 
今回宿泊した臥龍温泉のプランは、朝食に軽食がついたプランでした。
素泊まりの時は6時台には出発するんですが、朝食が付いているとのんびりしてしまいますね。
朝風呂を味わって、腹ごしらえをすると、出発は7時半になりました。
昨日も走った国道41号線を北上し、今日は高山市街を抜けて更に北へ。
すると、高山盆地が終わり、高山国府トンネルを抜けると古川国府盆地に入るんですが、この盆地の南端に1つお城があります。
その名は広瀬城。
名前の通り、豪族広瀬氏の城ですが、金森長近が飛騨に侵攻した際に、実質的な国主であった姉小路自綱が籠った城でもあります。
飛騨の城の中でもややマイナーな城ですが、規模は松倉城などに次ぐ大きさ。
遺構もしっかり残ってて、なかなか良い城ですな。
行き方は簡単で、国道41号線の名張という交差点を曲がり、突き当たり付近の道から山方向へ入るだけです。
文化財保護センターという建物があり、そこから徒歩で向かう事ができますが、多少の悪路も行けるバイクなら、もう少し先まで上っても大丈夫そうでした。
登山道はすごく整備されていて、北西方向に延びる段郭の脇から登って行きます。
まずは、縄張図。
 
 
なかなかの規模ですね。
城の入口の所には、動物除けの柵があり、閉められたままとなっていますが、そこは台のような丸太から飛び越えて城へ突入。
まずは登山道左手に延びてきている段郭を散策します。
ここは社の境内となっていました。
 
 
そして、何やら塚のようなものも。
 
 
何でしょうね。
気になります。
登山道に戻ってしばらく行くと、本丸へ通じる大手道がありますが、その分岐の奥には城主であった田中筑前守の碑がありました。
 
 
道を少し戻って、次は大手道を登って行きます。
道は東の主郭へと通じているのですが、その下には腰郭のような地形がありました。
 
 
広瀬城では、ここ以外にも似たような場所がいくつかあります。
また、飛騨の城は腰郭や帯郭といった細い段が多いですね。
地域的な特色なんでしょう。
ここを過ぎると、広瀬城のひとつのピークである、東の郭群に到着します。
 
 
上は東の郭の虎口ですね。
そして東の主郭部。
 
 
ここは視界も開けてて、気持ち良かったですね(^^)
 
 
広瀬城はちょっと不思議な構造になってまして、この東の郭群から、堀切を挟んでひとつ西に郭があり、ほぼ同高です。
かと言って、一城別郭というほどの独立性は無さそうなんですが、連携も薄そうな感じ。
更に、そこから堀切や馬場のような郭を挟んで更に西にもほぼ同高のピークがあり、ここは恐ろしいほどの畝状竪堀で囲まれていました。
明らかに城の性格が異なるんですよね。
なんか散策してて、統一感の無さに戸惑ってしまいました。
恐らく、姉小路氏時代に大規模な改修があり、広瀬氏時代との構造の違いが際立つことになったんでしょうけども。
 
東の郭で景色を満喫した後は、西へと進んで行きます。
すぐ西、城全体で言えば中央のピークには、再び城址碑がありました。
 
 
更に西に向かうと堀切。
 
 
この堀切は竪堀となって落ち込んでいました。
 
 
更に西に向かうと、やや平坦で広い郭を挟んで西のピークが見えてきます。
ピークは2段構成となっていました。
 
 
ここでの見所はなんと言っても畝状竪堀。
 
 
こんなにはっきりと形が分かる畝状竪堀は久々ですな。
同じ飛騨の篠脇城もんなりエグい畝状竪堀がありましたが、やはり山がちな飛騨の城の特色なのかもしれません。
堀を横から覗くとこんな感じ。
 
 
写真では判りにくいですが、部分的に横堀と相まって障子堀の凹みバージョンのようになっていました。
いや~、高山に行くならこの城はかなりのお勧めですわ。
朝からテンション上がる上がる(^^;)
 
つづく
 
参考:
臥龍温泉
広瀬城
地図付きはこちら
 

2018年4月18日水曜日

飛騨富山ツーリング その5

前回のあらすじ
 
ワタクシはカモシカに監視されてゐる・・・
 
松倉城は姉小路こと三木氏時代の高山の拠点でしたが、天正13年(1585)に秀吉配下の金森長近が飛騨に侵攻し、佐々成政と組む姉小路自頼は敗れて没落しました。
戦後、そのまま飛騨の支配を任された長近は、高山盆地南西の松倉城ではなく、盆地南東の山にあった城を再築して拠点とします。
これが高山城ですね。
ただ、高山城は、江戸時代の金森氏の移封後に徹底的に破却され、今では石垣などの城らしい構造物はほとんど無く、元からそうであったかのように、ほとんど土の城となってしまっています。
説明が無ければ分からないぐらいに。
ちなみに、金森氏の移封は、森林資源や鉱物資源目当てに幕府が直轄にしたという説が有力ですな。
こうして、この高山城の破却後に支配拠点となったのが、北西側の麓から宮川を越えた所にある高山陣屋なんですね。
 
松倉城からは、高山陣屋のほうが近いので、まずは江戸時代後期の政庁機能を担った陣屋へ向かいます。
山を北に下りて飛騨の里通りを抜け、国道158号線の1本南の脇道を東へ行き、飛騨天満宮を左折、八軒町通りから高山陣屋へと到着。
思ったより近かったですな。
バイクの楽しみのひとつですが、こういう地方都市の路地を走るのっていいですね。
土地土地の雰囲気が味わえます。
陣屋に着いてみると、恐ろしいほどの外国人観光客が陣屋前で休憩していました。
噂には聞いていたが、これほどとは・・・
そりゃインバウンドインバウンド言いますわ(^^;)
外国人を掻き分け掻き分け、というほどでもないですが、高山陣屋の門まで行くと、もう見学時間が終わって門が閉められるところでした。
 
  
惜しい!
でも、ちょっと無理を言って、パンフレットだけは貰えました。
ま、建物自体にはあまり興味が無いので、概要を知る事が出来れば満足です。
 
次に向かうは高山城。
高山陣屋からは歩いても行けるぐらい至近です。
まずは、説明板をば。
 
 
山頂付近に堅固な縄張があり、中腹から麓にかけて広い削平地が展開する、典型的な近世平山城ですね。
現在、二ノ丸付近一帯は駐車場などになっています。
下は北側から写したもの。
 
 
その一角には、金森長近の騎馬像もありました。
 
 
織田家中では、四天王や方面軍司令官の武将、それに続く前田利家や佐々成政、池田恒興といった家老ではないが一線級という武将に比べ、ややマイナーながら、要所要所で顔を出す1.5線級の武将ですね。
野球で言えば、代走や守備固めで出てきそうな選手のポジションですが、決して2軍に行くような選手ではないという感じ。
しかし、知名度は低いので、同じ1.5線級でも、稲葉一徹や氏家卜全、森長可、そして信長の側近たちなどよりも知られていないというところでしょうか。
ん~、いぶし銀っぽいですな。
河尻秀隆、津田信澄、織田家の盟友に近い立場の水野信元辺りと同列な雰囲気でしょうか。
とは言え、江戸時代は飛騨一国の主であり、移封までは国持大名の格であったと推測されています。
この騎馬像のある二ノ丸は、広々としてていかにも近世城という雰囲気がありますが、ここから山へ入って行くと、山城の雰囲気が急に色濃くなりました。
まず到着したのは、本丸の北東側下段に位置する東北郭。
 
 
もちろん搦手の守りという役割はあるんですが、大きさからすると、本丸からの馬出、武者溜という性格も強そうな場所です。
 
 
ちょっと見難いですが、東北郭から本丸や反対方向の搦手の縄張を見ると、動線が複雑に曲げられているのがよく解りますね。
ここから上がれば、すぐ本丸です。
まずは、使者之間。
 
 
ここだけは石垣が復元されていました。
そして、本丸御殿の跡。
 
 
ちなみに、本丸御殿は、望楼と一体型という珍しいものだったようです。
破却が無ければなぁと思わずにはいられません。
 
 
この本丸周辺、大手道の方はすごく動線が凝っています。
コントラストを上げてみましたが、見えるでしょうか。
 
 
破却で徹底的に石垣が無くされていますが、残っていれば石垣造の込み入った道だったはずで、相当いい城跡だったのにな~
非常に勿体ない・・・
ちなみに、この本丸付近には、破却を免れた石垣が部分的に残っています。
下は本丸から大手三ノ門へ向かう階段。
 
 
こちらはその三ノ門付近の石垣。
野面でいい感じですね。
 
 
また、石垣が無くても、往時の姿を偲ばせる構造が残っています。
これは、大手三ノ門の下、大手門と大手二ノ門の間にあった南之出丸。
ここも石垣造でした。
 
 
そして大手門跡。
 
 
南之出丸の下の、道の両側に土塁が迫る地形。
門跡かな?
 
 
最後に、白雲水。
岐阜県の名水50選のひとつです。
 
 
いや~、長らく来たかっただけに、満足ですわ(^^)
しかし、気になったのは、高山の宿場町から足を伸ばして来たであろう外国人観光客の姿がちらほらと城跡に見えたことですね。
姫路城みたいな城を日本の城というイメージで捉えてたら、ここを散策しても拍子抜けするんじゃないかと心配になりましたが、解って来てるんでしょうか。
解ってるとしたら、かなりの通やけどねぇ(^^;)
 
今日は、目的地訪問を完全に達成したので、とてもとても満足です。
その満足な気持ちで向かうは温泉の宿。
今日の宿は、高山市の郊外にある臥龍温泉です。
料金的に、健康ランド+宿的な施設かなと思ったら、ロビーから落ち着いた雰囲気があって、いい意味で予想を裏切られました。
食堂も非常に綺麗。
調子に乗ってビールを頼んだら、疲れもあって回る回る(^^;)
いやいや、今日はすごく恵まれた1日でしたわ(^^)
 
つづく
 
参考:
高山陣屋
高山城
臥龍温泉
地図付きはこちら
 

2018年4月12日木曜日

ぶらり高槻

新名神開通で高槻まで足を伸ばしたら、当然、高槻をぶらり、ですよね。
高槻に来たのは10年近く前ですから久々ですし、ブラつかない手は無い。
新名神の高槻I.C.で高速を降りて、そのまま名神高速沿いの道を西へ。
この道はまだ整備が終わってないようで、迂回路みたいな部分があったり、まだまだ工事中でした。
ひとつ目の大きな交差点を左に折れ、1.5車線の県道を南に辿ると、芥川小学校付近に出ます。
そう、目的地は、この芥川の場所にあった芥川城。
今は城址碑だけになっているようですがね。
芥川小学校を見ながら西に走り、JTの研究所方向に折れて紫町公園の筋に入って行くと、スイミングスクールがあります。
その南に城址碑が・・・とバイクの気軽さで入って行ったはいいが、バイクでも戻るのが困難なぐらい、細い路地でした。
仕方がないので、離れた場所にバイクを止めて、徒歩で城址碑に到達。
 
 
城址碑に比べて生垣が大きいので、最初は見落としました(^^;)
城があった当時の西国街道は、今の国道171号線とほぼ並行に走っていたんですが、この芥川城の部分は、街道が南に迂回する形となっています。
ちょうどJTの研究所の南の部分ですが、これは城域によって街道が付け替えられた為と推測されていますね。
今では市街化してどういう城だったのか見当もつきませんが、居館から出発した方形の平城で、西国街道が曲げられた部分から芥川近くまでが城の敷地だったのかなというのが想像できて、愉しいですね。
当然、西の芥川を天然の堀として使い、城の堀にも水を引き込んで水堀を廻らせていたのかもしれません。
 
芥川城を出た後は、先ほどの道に戻って門前橋を渡り、西へ向かいます。
ちょうどあったコンビニで軽食を買い、今城塚古墳へ。
ここが2つ目の目的地です。
ここはその名の通り古墳で、継体天皇の陵という説が有力視されていますが、宮内庁の管理下にはありません。
つまり、天皇陵という可能性が高い古墳ながら、自由に散策できる古墳なわけですね。
更に更に、戦国時代にはお城としても使われたという、複雑な歴史を持った古墳なのです。
 
 
上が全体図。
今は公園化されており、環濠の内堀部分は半分程度しか水を残していません。
まずはその水堀の部分と、当時、並べられていたであろう埴輪。
 
 
そして前方部。
中央やや右の造出の部分も明確ですね。
史跡公園として整備された時に整形し直して葺石で補強したんでしょう。
おかげで、当時はどんな姿だったのか、よく解ります。
 
 
反対の後円部。
埋め立てられた内堀が良い遊び場になっていますね。
この日も子供たちが遊んでいました。
 
 
お城として使われていたという割に、整備の際に後世の余計な部分は戻されたのか、痕跡らしきものはほとんど残っていませんね。
唯一、前方部と後円部の間ぐらいに、堀切らしき窪みがあったぐらい。
これもいつのものかはっきりしません。
 
 
総論としては、
古墳!
でも、高屋城とかもそうですが、堀が備わっていて、周囲より1段高い丘陵なんて、平野部のお城としてはこれ以上無いぐらい適地ですね。
街道も近いし。
城にしたいのもよく解るわ(笑)
さて、散策もひと通りした所でお昼としますか。
例年よりも桜が早かった今年、今城塚公園ではもう桜が5部咲きぐらいになっていました。
 
 
若木なんで、ソメイヨシノじゃなくてジンダイアケボノかな?
もうソメイヨシノの苗木は配布されていないですからね。
これだけ咲いてるのは、ジンダイアケボノの開花時期がソメイヨシノよりも少し早いってのもあるのかも。
何にしろ、こんないい天気の日にプチ花見ができて良かったですわ(^^)
 
参考:
芥川城
今城塚古墳
地図付きはこちら
 

2018年4月9日月曜日

新名神高速試走

なかなかツーリング日記も進んでおりませんが、今年のシーズン始めとして、新名神高速の高槻神戸間が開通したのを記念して、ちょっと試走してきました。
試走したのは、開通から1週間後の3/25。
いつもは、確定申告の打ち上げも兼ねて、3月の中頃にちょっと長距離を走るのですが、今年は新名神開通というイベントが分かっていたので、ちょっと待ちました。
3/25は宝塚北S.A.を中心に渋滞していたようですが、この日は1週間経ったこともあって、通行量はそれほど多くありませんでしたね。
どこでも開通直後はそうですが、コンクリートも新しくてまだまだ白く、走っていて爽快です。
ただ、当初は3車線で予定されていた為か、路肩の外だったり上下線の間だったり、もう1車線分の用地が余っているのは、なんだか勿体ないですね。
トンネルとか橋とか、お金が掛かる部分が2車線用になっているので、拡張はかなり難しそう。
それを見越して設計しているのかもしれませんが。
 
新名神を走っていて気付いたのが、色々と工夫が重ねられているなという点。
開通区間は、割と山間を走るのでトンネルが多いのですが、長いトンネルにはガイドランプというものがありました。
トンネルのライトはLED化されてて明るいのですが、ある程度の速度で併設されている緑のLEDが、誘導するように前へ前へ次々と点灯していくんですよね。
トンネルは自然に速度が落ちて渋滞の原因になりがちですから、宝塚トンネルのようにならない為に、無意識に速度が落ちないような工夫がされています。
また、赤や黄色のLEDの併設されていて、事故や荷物落下など、注意情報を視覚的に伝える機能もあるようですね。
新名神と名高速が繋がる高槻のJCTは、タイトなコーナーの区間になっていて、高槻より先の道が開通するまではしばしば事故が起こりかねない区間になっていますが、こちらには峠のコーナーでよく見られる溝付き舗装と同じように溝が彫られていました。
ただ、刻んだ溝が機械的な等間隔ではなく不規則で変化が付けられており、ハンドルを取られなくなっていたのは有り難かったですね。
バイクにとって、車体を倒してる最中のコーナリング中にハンドルを取られるのは毎回ヒヤっとしますから。
あと、個人的に景色として気に入ったのは、高槻直前のトンネル付近。
元々は採石場だったのか、トンネル入口の山のひと山一面丸ごと擁壁になってるんです。
なんだか日本離れした、要塞的な得体の知れない威圧感がありました。
特撮映画の背景にでも使えそうな感じ。
走ってて、「おぉ、すっげーな!」と声が出てしまいました。
最後に、テレビでも紹介されていた宝塚北S.A.。
 
 
1週間経っても駐車場はいっぱいでしたが、待ち時間はほとんどなく止められました。
中はどこもかしこも人でいっぱいでしたが・・・
いいなと思ったのは、男子トイレの小便器に手洗いが付いていたところ。
そのまま手が洗えますから便利でしたね。
手洗いが、今までのS.A.みたいにトイレの出口に並列に並んでなくて、アイランドキッチンみたいになってるのも、総合的な動線管理なのかもしれません。
S.A.内には、宝塚にちなんだもまもありました。
 

有名なリボンの騎士のフィギュア。
宝塚所縁の手塚治虫の作品ですね。
この他、宝塚歌劇団の衣装とかもありましたが、そちらはちょっとしたパーティードレスみたいで、あまり目立たなかったですね。
宝塚の衣装なんだから、いっぱい羽とか付けてもらわないと!(笑)
また、この日は開通1週間ということもあって、猿回しのイベントもやっていました。
 
 
なんだかんだ言って、開通直後はお祭り感があっていいですね(^^)
 

2018年4月1日日曜日

2018年お花見

今年は桜が早いですな。
今年も近くの公園で花見にお呼ばれしてきました。
 
 
まだ枝先にはつぼみが結構残っていたので、8分咲きといった所でしょうか。
それでもかなり綺麗でした。
ソメイヨシノは、枝先までたわわに花がつきますからね。
満開となればピンクの実がなったように美しい。
今の開き具合だと、それは週中ぐらいでしょうか。
でも、金曜のあたりは天気が悪くなるので、そこで散ってしまって、次の週末はかなり減ってしまうかもしれませんね。
少しでも、長く咲いていてほしいものですな。