2015年7月17日金曜日

阿蘇・佐賀ツーリング その13

前回のあらすじ

直鳥城、これぞ佐賀平野の城の姿!
 
直鳥城を出発し、次に向かうのは下高橋城。
下高橋城は福岡県大刀洗の城です。
というわけで、佐賀県とはここでお別れ。
名残惜しくはあるけど、目標の城々に行けたから満足ですわ(^^)
秋の佐賀平野。
秋の黄色い色模様の景色がひたすら遠くまで続く本当に起伏の無い平地。
そして、急に盛られたような脊振の山塊で区切られるコントラスト。
佐賀って感じですね(^^)
前回はそれに加えて気球も浮かんでました。
気球もただっ広い平野にはよく似合う。
平野の景色は、琵琶湖の湖東と佐賀平野が自分の中ではトップ2。
ただただ広くて心が穏やかになりますな(^^)

直鳥城から国道264号線、国道385号線と分かりやすい道を辿って長崎道の東脊振I.C.へ・・・向かう前に腹拵え。
区切りのいい時に食べておかないと、
また昼飯が午後3時にコンビニで
という状況にしてしまう悪癖があります。
ついでにI.C.手前でバイクも腹拵え。
これで最後の出陣準備完了!
東脊振I.C.からは、長崎道を東進し、大宰府-鳥栖-久留米という大動脈をサクッと通過して筑後小郡I.C.へ。
ここから南に数km進んで行けば、道沿いに城はあります。
ただ、中央分離帯のある道なので、下高橋の交差点で一旦右折し、更にすぐに右折して集落へ入り、元の中央分離帯の道に戻る感じで城へ。

 
下高橋城の城跡は神社になっているので、場所はすごく分かり易いですね。
この城は、筑前などで繁栄した大蔵一族のひとつ、高橋氏の居城ですが、その事跡はあまりはっきりとしていません。
築城時期も、南北朝時代の説があったり、現地では戦国時代に築かれたとあったり、諸説があるようです。

 
大まかには、元々の高橋氏の居城は上高橋城で、この下高橋城に移り、後に宝満山の城へ移るという変遷をしました。
そして、当主としては、大蔵氏系の長種が嗣子無く没し、大友氏の一族である一萬田氏から鑑種を迎えたことははっきりとしていますが、その年代には幅があり、天文年間(1532-55)の末か永禄2年(1559)とされています。
で、下高橋城から宝満山への本拠地移転が鑑種の時代とされているので、天文末年、もしくは永禄2年以降となるわけですが、現地の説明板には弘治年間(1555-58)の移転となっていました。
つまり、永禄2年家督相続説だと、矛盾ができてしまうわけです。
ん~この辺りは年代がちょっと曖昧なんやろねぇ
また、色々史料を当たってみると、下高橋城へ移ったのは室町時代の教種の時だったとか、上に出てくる長種が宝満屋形と呼ばれた、つまり宝満山に本拠を置いていたというのも出てきて、正に諸説紛々。
鑑種の家督相続によって家の地位や役割が変わり、それに応じるのと人心一新も兼ねて下高橋城、そして宝満山へと本拠を移したと見るのが一番解り易いけど、実際はどうだったんでしょうね。

話が長くなりましたが、城自体は、神社を囲う溝が堀だったのかなという程度で、目ぼしい遺構はありませんでした。
ただ、神社すぐ横の集落の道が、バイクで良かったわ~と思うほど軽自動車でもギリギリという細さなのに対し、神社西側の道が異常に広く、それでいてどこにも繋がっていないというのが、堀跡ちゃうん?堀跡ちゃうん?という想像力が掻き立てられて楽しかったです(笑)
これがその道。

 
立派な道なんですが、この先は集落の道に繋がっててかなり細く、この後ろ側は田んぼでブチッと途切れてるんですよねぇ
 
下高橋城の次は、やや北にある山隈城へ向かいます。
神社からそのまま中央分離帯のある県道53号線に戻って北上し、筑後小郡I.C.をそのまま過ぎて北へ。
2kmほど進めば城山公園の案内が見えてきます。
この公園の後背の山にあるのが山隈城。
標高は131m。
この公園には、13年前にも立ち寄っていますが、城には登りませんでした。
走ってたら偶然に城山公園というのを見つけて寄ってみた、という状態で、完全に麓からの登山になるということを知り、陽が沈む前に秋月城と益富城に寄ろうと思っていたので諦めた城です。
あの時も天気が良かったですね。
城山は花立山とも呼ばれるようで、当時のツーリングマップルには花立山の方が載っていたと記憶しています。
花を立てた山。
風流な名前ですね。
何か由来がありそうです。
ちなみに、城の名である山隈は、山の東側の地名で、城が健在だった頃はこちらに城に付随する城下町的な集落があったんでしょうな。
また、大刀洗川の源流もその辺りとなっています。

前回登れなかったこの城、今回は失敗を防ぐべく、念入りに予習してきました。
城山公園という名前なので、ついつい公園から登るものと思いがちですが、よくよく調べてみると、山の北西側からほぼ山頂まで通じる車道があったのです。
これはラッキー!
日程的に帰りが気になる時間でもあり、本気登山を回避できるというのはありがたい。
というわけで、城山公園の北の工業団地の脇を通り、北西側から登山道へ。
ちなみに、城への案内は全く無かったので、この道を使いたい人はスマホの地図を頼りにするのが一番確かかと思われます。

湧水が路面を濡らす急峻な坂を駆け上がり、駐車場に着くと、そこはもう頂上のすぐ下で、城の三ノ丸でした。
バイクを止め、さて散策するかと思った瞬間、突然、ゴーーーという音が鳴り出しました。
何?何の音?と周りを探ると、どうやら山頂付近が貯水施設になっているようで、この日は断続的に放水を行っている様子。
湧水が濡らしたと思っていた濡れた路面は、溜められた水が放出され、溝から溢れた為だったようです。
なんのこっちゃ。
さて、山隈城の方ですが、城が最初に活用されたのは南北朝時代で、延文4年(1359)に少弐頼尚が筑後川での戦いの際に本陣を置いた事に始まります。
そして、頼尚はここから更に味坂の陣へと移り、城から南西に宝満川を越えた先の大保原で南朝方と大激戦に及びました。
10万の兵が戦ったという筑後川の戦いです。
しかし、頼尚は戦いに敗れてしまい、一旦この城に退却し、兵をまとめて大宰府に退くました。
この後、大宰府も南朝方の攻撃によって陥落していることから、その頃には山隈城も南朝方が掌握したと思われます。
時代が下った戦国時代には、山隈城は大友氏が支配し、大友氏が衰退すると秋月氏の支配へと変わったようですが、いずれも戦時の軍事的拠点としては使われたものの、平時の拠点ではなかった様子。
秀吉の九州征伐後には、筑前に入部した小早川氏も支城として整備していますが、縄張自体は頂上部の本丸と北西の峰筋に張り出した二ノ丸、やや広い北東側の三ノ丸という構成で、小規模かつ中世的なままです。
恐らく、小早川氏は領境の監視場所として再利用するだけで、それほど手を入れなかったんではないでしょうか。
頂上部の山隈城本丸はこんな感じです。

 
上の写真中央左寄りに、立派な城址碑も見えます。
下はそのアップ。
後ろにある説明板は、小郡市のものでした。
この山は市境となっているので、本丸の下には筑前町の説明板もあります。
共同で建てないところは、縦割り行政の弊害か!?(笑)

 
頂上から城山公園方向の眺め。
秋晴れで心地よいですな。

 
本丸の北西方向に伸びる二ノ丸は、いかにも城跡という感じ。

 
同じく北東方向の三ノ丸。
三ノ丸は駐車場もあるので、全体としてはこの倍くらいあります。
この愛宕社の向こう側にも小さな2条の堀切を挟んで段郭がありました。

 
城自体は小規模だったけど、いかにも山城らしい縄張で、リベンジもできたので満足満足(^^)
これで心置きなく帰れますな。
 
帰りは、大宰府から九州道で帰ってもよかったんですが、その辺りは通った事もあるので、少しでも違う道をと、冷水トンネルを抜けて飯塚直方経由で九州道へ向かいました。
時間があれば冷水峠の峠道のほうも行ってやろうかと思ってましたが、寝坊もあって時間が押したのでスルー。
九州道に入ってからは、そのまま関門橋、中国道、山陽道と乗り継いで約500kmの旅路。
距離だけ見たら遠いな~
でも御殿場まで行くのと変わらないと思ったら、どうということはないという感覚。
この春には、昼からもっと長い距離を帰ってもいるし。
しかし、経験しているってのは大きいですね。
見通しがつくというのは色々決める上でかなり大きい。
ただ、今回は相棒のような、同じペースの車には出会いませんでした。
岡山県下だけは、京都ナンバーのSUVについていったけど。
同じペースの車ってのは、退屈な長距離では密かに励みになるんやけどねぇ
最後におまけの写真。
快晴なる関門橋。

 
そして、布刈から門司港方向。

 
天気が良くて眺めが素晴らしかった(^^)
 
1日目:40.2km
2日目:368.7km
3日目:656.1km  合計:1065.0km
 
参考:
下高橋城
山隈城
関門橋

地図付きはこちら
 

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