2015年7月10日金曜日

阿蘇・佐賀ツーリング その12

前回のあらすじ

13年越しの佐賀の野望、ここに完結!
 
佐賀城を後にして、次に向かうのは蓮池城。
本当なら早朝に行けてたはずなのに・・・
という自分への失望は、取り合えず横に置くとすっか(^^;)
この城は、佐賀藩の藩祖たる鍋島直茂所縁の城ですな。
佐賀市街からは距離にして5kmほど、道も長閑な快走路である県道20号線をずっと東に行けば到着します。
しかし、城跡は蓮池公園になっているとは言え、あまり城跡らしさはありませんでした。
蓮池城は、かつては関東の名族小田氏の分かれである肥前小田氏の居城で、小田氏が龍造寺隆信に滅ぼされた後は龍造寺一門が城主を務め、後には鍋島直茂が城主に就いたという城です。
一癖も二癖もある武将ばかりで、ここの城は城主の年表を辿っていくだけで面白いですね(^^)
また、龍造寺時代には一門が勢揃いで、相当重要視されていたというのも解り易い。
城自体も、鍋島時代に建てられた天守が、1度目は名護屋城に、2度目は佐賀城に移築されたといわれ、城郭史においても外せない城でしょう。
ただ、元和元年(1615)の一国一城令で廃城になった後、佐賀藩の支藩が陣屋を置いた為、そちらの色が濃い城跡となっています。
ま、公園自体は明治9年の開園と早かったものの、後に佐賀江川の改修で真っ二つにされており、陣屋自体の色も薄いんですがね・・・

現地にあった城についての図はこれだけでした。

 
この近くには、往時のものと見られる石垣も。

 
佐賀江川を渡った南側には、旧佐賀江川だった水路がありました。
戦国時代にはこの川筋が城の堀代わりだったわけです。

 
城の周辺は色々と形を変えやすい平野部ですから、佐賀江川改修後に旧流路は大半が辿れなくなってしまってますが、地図を見れば痕跡は確認できます。
ちょっと雑ですが、足りない部分を補足してみました。

 
大体こんな感じかな?
割と南の方は適当ですが(笑)
蓮池城の別名は小曲城なんですが、地図を見るとすごく納得。
戦国時代はこの湾曲部分の内側が中核だったようです。
それに対して、江戸時代は蓮池神社辺りが中心だった模様。
時代によって城の用途が異なれば、立地が同じでも随分と傾向が違うものですな。
ちなみに、改修前は中津江川の合流地点からも南に大きく湾流しており、こちらは大曲と呼ばれていたそうな。
大歩危小歩危みたいなものか(笑)
地名にも歴史ありです。
 
一応、蓮池城で佐賀の予定は終わり。
本日の予定は福岡県であと2城。
東脊振I.C.から高速やな、と北上して国道264号線に出た所、すぐに直鳥城跡という文字が。
なぬ!?
案内が出てきたのが急すぎて案内の方向に右折できず、しかも一瞬見間違いかとも思ったけど、一旦城原川を越えてからUターンして戻ってくると、やっぱり直鳥城の文字。
これは、寄らねばなるまい、と昨日も言った気がするが、やっぱり寄ら(ry

国道を曲がって民家の傍を抜けると、すぐそこはもう城跡でした。
直鳥城は、昨日寄った蒲池城や柳川城所縁の蒲池氏の分家、犬塚氏の居城です。
犬塚氏は、分家した後、いくつかに分かれていますが、力のあった西、東、直鳥の三家を三犬塚と呼びました。
当然ながら、直鳥城は直鳥犬塚氏の居城です。
犬塚氏は肥前ということもあって、宗家と違い少弐氏の家臣だったようですが、戦国時代中期頃になると少弐氏の没落と龍造寺氏の台頭、大内氏没落後の大友氏の肥前進出によって各家で対応が分かれたようです。
この大友氏と龍造寺氏の対立の中、代理戦争的に東と西の犬塚氏が対立し、混乱の中、両家の当主が斬り死にするという事態となります。
互いに斬り合ったのか、片方が斬った後に自刃したのか、真相は藪の中ですが、犬塚一族が混乱に陥る中、事態を収拾したのは、この直鳥城主だった犬塚鎮家でした。
鎮家は、その名を見ると大友宗麟の諱である義鎮から偏諱を受けているのが判るように、この頃は大友方で、直鳥城から西犬塚家の蒲田江城に入って龍造寺軍と対峙しました。
しかし、元亀2年(1571)には龍造寺軍に敗れ、筑後へ落ち延びています。
直鳥城も、この時に放棄されたと思われ、そのまま廃城になったんでしょうね。
その後、鎮家は龍造寺氏に帰順し、南肥前攻略戦で活躍して大村弾正、百武志摩守、上瀧志摩守と共に、両弾二島のひとりに数えられる猛将となりました。

直鳥城の概要はこんな感じですが、この城、佐賀平野のクリークを利用した城として、そのままの形を残しているのが何よりいいですね。
あちこちにこんな水路が入り組んでいます。

 
しかし、本丸は結構な広さ。

 
全体の鳥瞰図はこんな感じです。
廃城後もそのまま集落の農地として使われ、地形が保存されたのが良かったですね。

 
あの立派な佐賀城も、龍造寺氏草創期の村中城の時は、こんなクリークの城だったと推測されています。
多分、佐賀平野の城はこんな形がスタンダードだったんでしょう。
そういう意味で、直鳥城は色々と想像しながらの散策が楽しい城でした。
 
つづく
 
参考:
蓮池城
直鳥城
地図付きはこちら
 

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