2013年6月1日土曜日

夢のような、という言葉

日本人というのは、夢のようなという言葉が好きなのかねぇ
中国市場からヤマダ電機と三越伊勢丹が撤退とのこと。
一時は13億人の夢の市場なんて言われたものだが。

反日の国に出て行くということは相応のリスクが潜在的にあるわけで、その極々当たり前のことを経営者はどう評価していたのかが気になる。
まさかとは思うけど、どこぞの新聞に煽られるまま過小評価して飛びついたなんてことはないよな・・・

大昔、北朝鮮は夢のような国と持て囃されていた。
日本国内の左の人々もそれを無邪気に信じて信奉していた。
今の北朝鮮の経済が酷いのは経済政策の失敗による結果論だとしても、政治的にも酷い国というのはもう明らかになっている。
まぁ、それが公になってきたのはここ20年ほどの話ではあるんだけど。
でも、当時それを信奉していた方々から、それに対する反省やその方々が大好きな総括をするという話は聞こえてこない。
少なくとも、間違いを間違いとして認めるようでなければ、人として信用するに値しない。それは政治的に、というわけではなく、隣人にこんな人が居たら、という基本的で単純な人間関係においての話で。まして政治的に、という話であれば、尚更信用なんかできない。

北海道で計画していたソフトバンクのメガソーラー計画が、縮小されるとのこと。
風力や太陽光も、原発事故の後に夢のようなエネルギーと持て囃されていた。
結局、電力システム的に不安定な電力源というのは、常に急減に備えるバックアップが必要で、多くは抱えきれない。
手本とされたドイツでも、電力買い取りシステムは縮小の一途を辿り、補助金で儲かっていた太陽光パネル業者も破綻し、バックアップとしては原発をスタンバイさせている。
原発廃止論者が語る夢の世界とはかけ離れたドイツの現状。

夢の世界を語ることは自由だが、政策として主張するなら現状とのすり合わせがセットにならないと話にならない。
夢のような、という話を聞く度に、そう思う。
かと言って、理想を語らないのもまた良くない。行く先を照らすものは必要なもんだ。
しかし、現在地から行く先までの道を話せる、造れる、そういう人が少ないような気がする。そして、日本人もそういう泥臭い話を軽視している気がする。

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