2025年6月11日水曜日

東信群馬埼玉ツーリング その10

前回のあらすじ
 
地図で見つけてふらりと立ち寄った雉岡城。
想像以上に良いお城でした。
 
続いて訪れるのは鉢形城。
関東の風雲児長尾景春が、叛乱を起こす直前に本拠として築いた城です。
この景春という武将は、野心の塊かという印象すらある人で、俗に言う戦国三梟雄の面々に負けず劣らずの経歴の持ち主。
斎藤道三の親子2代説や、三梟雄の逸話のほとんどが講談ベースというのを考えると、武将単体としては三梟雄よりも強烈な人生を歩んだ武将かもしれません。
Wikipediaでは、景春について割とあっさりした記述になっているんですが、扇谷上杉家をひとりで背負っていた太田道灌との熾烈な戦いや、帰参からの再叛乱、亡命と客死など、ドラマが盛り沢山。
この頃の関東の争乱に色濃く影を落とした武将でした。
誰か詳しい人がwikiを充実させてくれないかな笑
まぁその話は横に置くとして、その後の鉢形城は、山内上杉家の居城にもなり、北条氏時代は、北条氏康の四男氏邦が城主となるなど、北関東の最重要拠点のひとつとなりました。
城主が変わっても重要な城であり続けたんですね。
その過程で城には改修が幾度も加えられ、北条氏時代の大改修で完成した城は、びっくりするぐらいの広さを誇っています。
さて、夕暮れ迫る中、その巨城をいよいよ散策。
まずは案内図。
 
 
案内図だけで、どれだけの巨城か解りますね。
最初は、中心部であったと思われる本曲輪から。
本曲輪は東西で二分されてまして、西の荒川側が城主の居住空間だったようです。
あくまで「伝」ではありますが、伝御殿曲輪という名前が付けられていました。
その伝御殿曲輪には、石垣の痕跡も。
 
 
北条氏の城と言えば土塁のイメージですが、要所は石垣だったんでしょうね。
伝御殿曲輪は、上りながら3段の削平地で構成されています。
その2段目から最高部の1段目の様子。
 
 
最高部の写真右手側に、鉤型に土塁が残っています。
この伝御殿曲輪の最高部と東側の伝御殿下曲輪とは、10m程度の高低差。
 
 
伝御殿下曲輪は、都市公園になっていました。
 
 
続いて、本曲輪から二ノ曲輪方向へ・・・向かう前に深沢川の様子をば。
 
 
主郭部から下りた場所です。
この深沢川によって、主郭部と外曲輪に分かれ、写真で言うと、川の向こうの台地上が外曲輪になるんですが、当初の城は、荒川と深沢川によって城を守るという地形だったんでしょう。
戦国末期の北条氏の拠点は、どこも相当に巨大化して行った印象で、鉢形城も例に漏れず、外曲輪を拡張したことで川を跨ぐ形になったと思われます。
深沢川かも戻って南へ行くと、すぐに二ノ曲輪。
 
 
ここはひたすら視界の広い広場となっていました。
さらに南へ歩けば三ノ曲輪。
 
 
三ノ曲輪の荒川側の突端部は高くなっています。
その高くなった部分は、伝秩父曲輪。
 
 
発掘調査で、門や庭園などが検出されており、ここには門と石積土塁が復元されています。
ただ、何故か写真を撮ってない・・・
この三ノ曲輪周辺には、城らしい造形があり、城跡としての見所が多かったですね。
下は三ノ曲輪馬出。
 
 
馬出の切岸。
見事に逆光ですね。
夕日が眩しい!
 
 
三ノ曲輪には付随する郭がありました。
南西側には、諏訪曲輪だったともいわれる諏訪神社。
 
 
明確に堀によって区画されていました。
大手門と接続する南側には伝逸見曲輪。
こちらも堀の跡が明確ですね。
 
 
最後に、最高部から荒川と断崖の様子。
 
 
なんという後堅固の城なんだと、結構高低感を感じたんですが、写真にするとそうでもないですね笑
それにしても、広いお城でした。
満足です!
 
つづく
 
参考:
 

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