2018年5月11日金曜日

飛騨富山ツーリング その8

前回のあらすじ
 
見つけにくい城に到達した時は、また格別な達成感がありますな!
 
古川城を出て、次に向かうは増島城。
天正13年(1585)の金森長近の飛騨制圧後、古川を任されたのはその養子可重で、前回記事にした古川城に入城しました。
しかし、古川城は典型的な中世的な山城で、支配拠点としては不便だったと思われ、可重は翌年に増島城を築いて移っています。
増島城は、飛騨で唯一の平城で、幅広の堀を持った近世平城なんですが、飛騨の戦乱が収まったという確信があったから築いたんでしょうな。
飛騨の盆地は細長く、平城では盆地の境を構成する山々から見下ろされ、城内の様子が丸わかりですから。
この為、それまでは、せいぜい居館程度に留まっていたわけです。
単純に山に築いた方が、物理的な防御力も得やすいですしね。
この増島城が築かれた当時は、飛騨の人にとっては、城の概念が覆された瞬間だったのかもしれませんな。
その増島城の堀は、現在でもきちんと残っています。
 
 
今は、稲荷社の境内となっていました。
 
 
ちなみに、増島城の城域は大部分が古川小学校の敷地になっており、この稲荷社は、小学校に突出したような形になっています。
この日も、子供達が境内で遊んでいました。
その稲荷社の入口にも説明板がありますね。
 
 
稲荷社の石垣を見てみると、左右で違いが見られます。
向かって左側。
 
 
小奇麗な谷積ですね。
城は一国一城令後も旅館として維持されましたが、その後、金森氏の移封によって破却され、稲荷社の境内となりました。
その時に補修されたものかもしれません。
次に向かって右手。
 
 
無骨な野面積ですね。
これは築城当時のものでしょう。
綺麗さは少ないですが、実用性重視の何とも言えない趣がありますね。
この石垣の南面も見事でした。
 
 
なかなか迫力がありますな。
そのまま東側に回ると、やはり谷積の石垣になります。
 
 
城がどのような歴史を辿って来たのか、石垣が最もよく表しているのかもしれません。
 
増島城を後にすると、そろそろ昼時に差し掛かってきたので、国道沿いに見つけた福来亭という中華屋さんで昼ご飯。
田舎は飲食店が少ないですからね。
見つけたら即入っておかないと、コンビニ御飯になってしまいます。
お昼ご飯はこんな感じ。
 
 
店を選ばずに入りましたが、安くてボリューミーでラッキーでした。
お腹も満たされたので、いざ神岡へ。
神岡へは、国道41号線が通じていますが、杉崎駅の近くから山へと入る県道75号線を取りました。
この道は、今の国道41号線が整備される前、神岡と古川を結ぶメインの道路だったようです。
この道すがら、巣山という場所を通るのですが、戦国時代の頃の主街道だった越中東街道は、この県道75号線でもなく、神岡、つまり当時の高原郷からこの巣山に出、巣山から大坂峠へ向かい、県道76号線のルートに出ていました。
時代を経るに従って、古川盆地へ出る場所は、北へ北へ変遷していったわけですね。
高速、大量という時代の要請から、険しいながらも最短距離を取るより、多少遠くても広くて緩やかな道が必要となったわけです。
ところで、大坂峠と言えば、十三墓峠という物騒な別名がありますね。
本能寺の変が起きて再び情勢が流動的となった天正10年(1582)、高原郷の大名江馬輝盛は、織田家と結んでいた姉小路自綱と雌雄を決すべく、この越中東街道を経て古川へ押し出しました。
織田家が跡目争いで混乱している今、姉小路氏には援軍が期待できないと踏んでの事です。
しかし、序盤は優勢だったものの、八日町の合戦で肝心の輝盛が討死してしまい、江馬勢は総崩れとなってしまいました。
この翌日には、高原郷まで一気に攻め込まれ、江馬氏は滅亡してしまうのですから、尋常ならざる崩れ方だというのが解りますね。
軍勢が潰走する中、輝盛に忠誠を誓った側近たちは、もはやこれまでと途中の大坂峠で殉死しました。
その後、その亡骸を地元の住民が祀って墓を建てたことから、十三人の墓、十三墓峠という名が付いたのです。
十三墓という恐ろし気な字面とは裏腹に、哀しい逸話ですな
 
巣山より北の県道75号線は、恐らく江馬勢が潰走したルートにあたるのですが、その途中に政元城という城があります。
前日に、ルートを予習している際に発見したんですが、急遽、寄る事にしました。
政元城は、平治元年12月(1160.1)の平治の乱の時に、源義平の家臣正本主馬が築いたという伝承もありますが、恐らくは伝承のみの話でしょう。
戦国時代に吉村政元が在城していたことから、政元城と呼ばれ、それが泊付けで正本主馬に結びつけられた疑いが濃厚です。
それはともかくとして、吉村氏は、江馬四天王、江馬氏八大家に数えられていることから、相当な重臣であったことはまちがいありません。
主街道を押さえる城の主でもありますしね。
そして、城の麓の大国寺辺りに居館があったのでしょう。
城の麓の寺社は、たいてい居館が出発点になっていますから。
城へは、その大国寺の裏手から登山道が延びていました。
地元の人が丁寧に整備をしているようで、非常に登り易かったですね。
スルスルと登って行くと、まずは段郭が幾段かあり、案内板がありました。
 
 
この近くが本丸です。
本丸はやや変わった感じの構造で、中央に空堀が穿たれ、2つの区画に分かれていました。
 
 
空堀には木橋がかけられています。
ただ、もう朽ちていて、踏むと危なそうだったので、飛び越えました。
 
 
飛び越えた先の、本丸奥部。
 
 
この先、山頂には狼煙台があるようなんですが、完全に藪化していたので、5mほど進んで断念しました。
帰り際、登山道の分岐を南方向に行くと、こちらにも段郭が。
 
 
確認できるだけで3つぐらい削平地があります。
城跡として整備されているのは、全体からすると、意外と小さい面積なのかも知れませんね。
 
つづく
 
参考:
増島城
政元城
地図付きはこちら
 

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