2018年5月6日日曜日

飛騨富山ツーリング その7

前回のあらすじ
 
割とノーマークだった広瀬城。
絶対お勧め!
 
高山盆地から宮川に沿って北西にひとつ山を越えると古川国府盆地に入るというのは前回も書きましたが、国府の名の通り、この古川国府盆地が飛騨で最も早く拓けた場所なでしょうね。
ただ、開拓が進むと、高山盆地の方が広い為、国府もそっちに移ったようですが。
前回の広瀬城は、古川国府盆地の南東端、国府付近を押さえる城でした。
駅名で言えば飛騨国府駅の周辺。
そして、その次の駅が飛騨古川駅で、ここが古川盆地の中心ですね。
この辺り、建物も高くなくて、川沿いの盆地というのがよく解り、肥沃な盆地という感じがします。
南北朝時代に飛騨に国司として入部した姉小路氏は、この古川一帯を基盤として勢力を築いていました。
その後、南北朝の合一が成った後なのかその前なのか、姉小路家は3分裂し、ちょうど古川国府盆地の古川地域を北西から南東にかけて3分割するような形になったと思われます。
本家筋の小島家、向とも小鷹利とも呼ばれる家、そして古川家です。
それぞれの城は、杉崎駅の東側辺り、盆地の北西端、そして中心部の南側と、ちょうど姉小路一門の勢力範囲を三角形で囲むような配置となっていますね。
当初は、それぞれが協力して勢力範囲を守ろうとした意図が窺えますな。
しかしながら、どこの家でも権力を持つ家は本家と分家で争いが多いのですが、やがて姉小路家にも内訌が起こりました。
時に応永18年(1411)のことです。
古川家の尹綱が、小島家と向家を攻撃しました。
この尹綱の乱は、幕府の命で飛騨守護の京極氏が討伐することになります。
こうなっては、尹綱に味方する勢力も少なく、尹綱は敗れるほかありません。
ただ、この後も古川家は遺児の昌家が赦された為、存続しました。
そして、昌家の子基綱の頃には、ほぼ惣領と言えるほどの勢力に回復したようです。
しかし、この後は幼主や頻繁な代替わりが続いて勢力を衰えさせ、戦国時代には台頭した三木氏に抗えず、古川家は享禄4年(1531)に滅亡しました。
その後、この名跡を後に三木氏が相続し、姉小路を称するわけですな。
めでたしめでたし。
いや、終わったらあかんがな。
 
というわけで、古川家が一時本拠としていたという古川城へ。
古川城。
この城には案内がありません。
事前に予習して目星を付けていたんですが、ものの見事に迷いました。
古川の中心部から、県道90号線という立派な道が西へ延びているのですが、その南の高野の集落辺りから道があるかなと思ってウロウロしてみたものの、見つかりませんでした。
そこで、スマホから検索してみたところ、もうひとつ南の道から城に入ることができるとのこと。
少し戻って山側の工場へ向かう道に入り、石がうず高く積まれている横を通り過ぎると肥料工場に着きました。
情報によると、この肥料工場付近から城へ行く道があるようですが・・・
山側へ続く林道はあるものの、どうも違う。
小川を渡った先には峰筋が見えるのですが、直登しなくちゃならない。
そこで、少し戻ってよくよく確認してみると、石がうず高く積まれた山の近くに崩れた廃屋があり、その横に薄っすら獣道が見えました。
新緑の5月ということもあって、訪れる人もまばらな登城道は草にほぼ埋もれていたわけですな。
ここから城へ入って行くと、中腹に削平地がありました。
居住区画ですかね。
 
 
ここから更に登って行くと、いよいよ主郭に到着。
主郭は小段を含め4段構成でした。
下は4段目と3段目の間の虎口。
 
 
4段目が小さいので、馬出みたいなものですかね。
3段目には、この城の名物とも言うべき蛤石と城址碑がありました。
 
 
この3段目は、本丸と二ノ丸の腰郭となって延びています。
3段目の先にやや高低差を持って二ノ丸。
 
 
そして本丸。
 
 
本丸は意外と広いスペースを持っています。
その突端に櫓台。
 
 
本丸の先には、かなりの高低差を持って更に削平地がありました。
典型的な、峰筋に構えられている山城の構成ですね。
 
 
なかなか良い城です。
ちなみに3段目近辺には幾筋か竪堀も確認できました。
下は、そのうちで最も確認しやすいもの。
 
 
左下から延びる筋が綺麗に残っていますね。
西端の削平地から先を確認してみると、先ほどの肥料工場の林道が見えました。
ここから下って行くと辿り着けそう。
膝の高さの浅い藪をかき分けていくと行くと、無事に肥料工場の前の道に到着しました。
解ってしまえばどうということはないんですが、初見ではちょっと難しい城でしたね。
 
つづく
 
参考:
古川城
地図付きはこちら
 

 

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