2016年5月3日火曜日

東九州縦走 その7

前回のあらすじ
 
穆佐城はなかなか見事じゃった。
チキン南蛮も旨し!
 
前日は宮崎市の穆佐で時間切れとなりましたが、ツーリングに出かける前は、佐土原辺りまで寄れるなら寄って、門川辺りで宿を、なんて最初は考えてました。
結局、適当な宿が無かったので延岡になったのですが、まぁ最初の見通しの甘いこと(笑)
その結果、陽が落ちてからめっちゃ走らなあかんことになったんですが(^^;)
しかし、神戸から宮崎にはフェリーもあるし、都城やえびのへも行きたいしで、宮崎市近辺はまたいつか行くはず。
ところが、門川や日向市街の辺りになると、高千穂辺りに行く時もちょっとルートから外れるんですよね。
なので、せっかく近くまで来てるし、今回で行ける所はきっちりと行っておきたい。
というわけで、延岡から一旦日向まで戻って行きたい所に寄り、それから帰路に就く事にしました。
その前に、まず寄るのは宿泊地延岡の松尾城。
延岡がまだ県(アガタ)と呼ばれていた時代に、一帯を支配した県土持氏の居城です。
耳川の合戦の前哨戦で大友軍によって一旦落城しますが、その後は大友軍を破った島津家の部将として再び土持氏の城となりました。
九州征伐後も、県の新たな領主となった高橋氏の居城として機能しています。
城の場所は、松山町のすぐ西の丘。
延岡市街から高速道路へと真っ直ぐ延びる土手道から松山橋を渡り、正面に見えてくる本東寺の脇から城へ道が延びています。
松山橋は、県道16号線の五ヶ瀬大橋の1つ西の橋になりますね。
バイクか軽なら行けるだろうという程度の細さではありますが、城までは舗装路が続いており、楽に到達することができます。
ただ、自分は前日の清武城のように途方に暮れかねないような状況を恐れて、歩いて城に入りましたが(^^;)
 
この城へと延びている道の両サイドに、明らかに城と見られる地形が続いており、なかなか大きな城ですね。
本丸とそれに付随する段や二ノ丸はかなり明確ですが、二ノ丸の先に堀切を介して続く地形も明らかに郭で、本丸から折れつつ4郭ほどありました。
下の本丸と二ノ丸の間の堀切を始め、各郭の間の堀切はかなり明確です。
 
 
二ノ丸に入ってみると、結構広く、奥には土塁も残っていました。
そして、中央に小さな社。
 
 
二ノ丸の次は本丸へ。
やや雑草は生えていますが、散策は快適です。
まず、本丸全景。
右の碑の奥にも削平地は広がっています。
 
 
その碑の奥側から撮ったもの。
本丸は結構広い。
 
 
本丸から川側には2段の段郭があり、その上段には遊具がありました。
三角形の典型的な段郭ですね。
更にこの下の段は、城を貫通していた舗装道の終着点になっていました。
 
 
三ノ丸以下の郭は、どうやら私有地になっているようで、入るのは遠慮しましたが、脇から見ても地形が明確です。
また、反対側は完全に杉林となっているのですが、かなり平坦で、こちらは居住区といったところでしょうか。
とても道の周辺だけでは収まらない大きさがありました。
帰ってから色々な調査報告なんかを調べてみると、主郭部だけではなく、本東寺や松山神社辺りや、谷筋1本越えた北側にまで城域が広がっているとか。
確かに本東寺の辺りは、境内や畑地が平坦で、且つ主郭部と標高があまり変わらないですから、城域に取り込んでおかないと防備上かなりの欠点になるというのは、現地を歩けば一目瞭然ですが、谷を挟んだ北側にまで広がっているのはびっくりでした。
城の規模から考えると、土持氏の勢力は想像以上に大きかったのかもしれませんね。
 
松尾城の次は、門川に戻って門川城を目指します。
松尾城から高速はすぐなので、時間短縮の為に延岡I.C.から門川I.C.までビューンとひとっ走り。
下り口から目的の県道に入れるはずでしたが、間違って一端国道10号線に入り、少し戻って県道へ。
この道をそのまま南下すれば、ちょうど門川城へ到着という寸法です。
ま、門川城への登城口が分からず、寸法通りというわけには行かなかったんですがね。
どうもこまごまとしたルート選択ミスが多いですわ(^^;)
地図で見ると、ちょうど五十鈴小学校の南側の丘陵が城跡ですね。
登城口は東側にあり、入口にはドドンと立派な案内板がありました。
 
 
古くは門川伊東氏が一帯を支配し、後に財部土持氏、そして伊東氏の北の境の城となったのが門川城ですが、城がいつ頃築城されたのかは、諸説があるようですな。
財部土持氏が敗れて伊東氏に降伏した際、伊東氏に渡った地名として門川が出てくることから、その頃には城は存在したと思われるのですが、伊東氏による築城という説も有るようです。
この辺り、北日向は史料の散逸が多くて、どうも史実の不明確な城が多いのが残念なところ。
こればっかりは、仕方の無い所ですが。
城へは、上の案内板の脇の道を進むと、二ノ丸と三ノ丸の間に出ます。
ここには、堀と土橋の痕跡がくっきりと。
 
 
三ノ丸は果樹園として使われていたようですが、放棄されたのか、入口数mより奥は凄い藪になっていました。
上の写真の土橋より続く二ノ丸への登り道もやや藪っている感じで、嫌な予感。
到着した二ノ丸はこんな感じでした。
 
 
写真に見える範囲の散策は可能なんですが、その先や左手は藪ってて散策がかなり難しい。
二ノ丸は2段構成のようなんですが、視界が開けず、上段に入ったのか下段に入ったのか不明でした。
この後、写真の右手から上へ行ける登り土塁のような地形があったので、なんとか藪漕ぎしながら上側の郭に突入。
 
 
これ、無理!
進めなかったので、二ノ丸の上段だったのか本丸だったのか判別できず!
予習で見た限りでは、結構快適なお城っぽかったんですがねぇ(^^;)
畑も放棄されてるし、もう手を入れる人がいないのかもしれません。
一時、リアルを追及するとか何とかで、やたらと埃っぽい乾燥した画が歴史ドラマなんかで使われていましたが、湿潤な日本の
「荒廃した景色」というのはこうでしょう。
何処も彼処も草茫々。
幕末から維新に掛けて来日した西洋人は、この湿潤さを見て、日本人にこんな豊かな土地は勿体無いと恨み言を吐いたそうですが(^^;)
下は藪漕ぎでの収穫。
 
 
うわっ!キモっ!
 
つづく
 
参考:
松尾城
門川城
地図付きはこちら


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