2016年1月14日木曜日

伊勢湾周遊 その8

前回のあらすじ

やだー雨って言ったじゃないですかぁー・・・
 
昨日の予報から一転して青空が見える晴れの下、更に南東へ進んで西尾城へと向かいます。
西尾城は、古くは西条城といい、西条吉良氏の居城でした。
ただ、吉良氏時代の城の歴史は割と曖昧なようです。
その後、家康の今川家からの独立があり、徳川軍が三河を攻略していく中で西条城も徳川家の城となりました。
そして、城主となった徳川家臣松平正親によって西尾に改められたといわれていますが、これにも時期的に諸説があるようです。
江戸時代には、この辺りのいくつかの城の中で、近世城郭として残ったのが西尾城でした。
そんなこんなで、城は今の西尾市街の中心にあり、分かり易く迷う心配がありません。
城に到着したのは9:30を過ぎた頃。
復興櫓があるので、開館時間としてはちょうど良いかもしれませんな。
駐車場にバイクを止め、まずそこから一番に見える天守台の石垣へ。

 
この石垣は復元なんですが、天守が二ノ丸にあったという珍しい城でした。
二ノ丸に天守があったというのは、徳島城なんかが有名でしょうか。
そういえば、横手城は確か復興天守が二ノ丸に建てられてたなぁ
何故本丸ではなかったのか大いなる疑問だけど。
他の城は置くとして、天守台からの眺めは、なかなか情緒のあるものでした。
本丸の丑寅櫓も見えますね。

 
写真の左手にあるのが、同じく復元された二ノ丸鍮石門です。
その正面側。

 
鍮石門を抜けて旧近衛邸の脇から水堀を見つつ本丸に入ると、一角には城の守護神であった御剱八幡宮があります。
本丸という中枢ですし、代々の藩主に崇拝された事でしょう。

 
この位置から視線を右に向けると、本丸表門の跡があります。

 
本丸表門があり、その脇から復元されている三層の丑寅櫓に入る、という構造ですね。
この石垣は往時のものと見られ、野面で不規則な積み方に野趣がありますが、野面積にしては割と整っています。
これは、この地方の石材の特徴なのかもしれません。
この石垣の後ろにチラッと見えているのが丑寅櫓です。
二ノ丸に天守が建てられる前には、本丸に天守があったようで、本丸の櫓の中ではこの丑寅櫓が最も規模が大きかったことから、初代天守もこの位置にあった可能性が高そうですな。
一説に、旧天守は隅櫓としてそのまま活用されたとも言われるので、改修などによる建て替えが無ければ、江戸時代の丑寅櫓はかつての天守ということになるんですが、今では現物が失われているので、確認はできそうにありませんけども。
本丸から再び水堀の場所を過ぎると、そこは姫丸という郭です。
夫人の住居など、奥向きの建物があった区域でしょうか。
この姫丸から二ノ丸方向の境には、姫丸門というのがありました。
今はただの道路ですが・・・

 
この門跡の後ろの建物は、西尾市資料館です。
いつも朝の城巡りというのは、資料館の開館時間になっていない事が多いのですが、この日はちょうど開館してすぐでした。
怪我の功名やね(^^;)
城に関する企画展もあり、西三河の各城についての詳細もあったので、満足度が高かったです。
ちなみに、入館無料。
西尾城は、こじんまりとしてますが、全体としてなかなか良い城ですわ(^^)
 
西尾城の次は、そのまま東南方向へ。
西尾の古い名は前出のように西条ですが、矢作川の西の条理地割のある土地、という程度の意味ですかね。
今の矢作川は川幅の広い放水路が本流となっているので、西尾の更に西ですが、昔は西尾の東に流れる矢作古川が本流でした。
それとも、条という漢字自体に、条理区画された荘園という程度の意味まで含まれていたのでしょうか。
一帯は吉良荘でしたから、吉良荘の西部という意味の名前だったのかもしれません。
それはともかくとして、西条に対する東条は、矢作川の旧本流を挟んで反対側にあり、川の少し手前に今川があります。
そう、御所が絶えなば吉良が継ぎ吉良が絶えなば今川が継ぐ、と言われた東西の吉良氏や今川氏の本貫の地でした。
由緒正しき土地ですな。
ただ、今川館の正確な位置は判っておらず、碑は館の推定地に建てられていました。
西尾中学校のすぐ南。
グランドの向かい側ですね。
周囲はいかにも農道という細い道しかなく、車で来る人は注意が必要かもしれません。

 
柵で囲まれた中には、今川了俊の墓もありました。

 
今川氏の宗家筋に当たるは足利氏は、八幡太郎として知られる源義家の孫義康が足利氏を称したことに始まり、更にその孫義氏が承久3年(1221)の承久の乱の際に三河守護職となって三河と縁を持つこととなります。
義氏は、足利の家督を次男泰氏に譲り、庶長子の長氏には吉良荘を与え、長氏は吉良を称しました。
これが吉良氏の始まりですね。
ちなみに、この庶長子だったという事が、吉良氏が足利氏に次ぐ血統とされる所以です。
吉良氏の祖となった長氏は、嫡子満氏に吉良を継がせ、次男国氏には父義氏から装束料として譲られていた今川荘を譲りました。
こうして、国氏が今川の地名を姓とし、足利氏から吉良氏、吉良氏から今川家が分かれたのです。
で、この墓の了俊は、と言うと、この国氏の曾孫に当たる人物で、南北朝時代に九州探題となって島津氏以外の九州諸豪族を従わせた優れた武将でした。
その島津氏が了俊と決定的に対立した水島の変なんかを見ると、なかなかアクの強い人物だったようですけどね。
しかし、その頃の今川氏の本拠は、現在の浜松から磐田へと移って行っており、既にここにはありませんでした。
そう、ここは了俊とは無関係なのです。
え?墓あるやん。
調べてみてびっくりですが、関係なかった(笑)
実際、了俊の九州探題後の役職も遠江や駿河の守護やしね。
関係無いんよな~
自分ら後世の人間から見ると、今川氏は駿河や遠江の大名ですが、それはもう了俊の頃には確立されてたんですな。
だからと言って、発祥地の価値が揺らぐものではありませんがね(^^)
ちなみに、この了俊の墓を建立した人は江戸時代中頃の西尾藩士だったようで、地元今川村の歴史を調べ、大事にしたんでしょうな。
無名とは言え、立派な歴史家ですわ。
 
つづく
 
参考:
西尾城
西尾市資料館
今川館
地図付きはこちら
 

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