2016年1月25日月曜日

伊勢湾周遊 その10

前回のあらすじ

羽豆岬到達!
三河湾の双角を制覇!
 
羽豆岬に到着したのが大体12:30頃。
30分ほどブラブラ散策して出発したのは13時過ぎのお昼時でしたが、ブランチをたらふく詰め込んだので昼休憩無しで知多半島西岸を北上していきます。
この知多半島、名古屋都市圏からほど良い距離なので、ライダーが多い。
相当な数のバイクとすれ違いました。
しかし・・・
族車が多い。
なんで?
暴走族の聖地なん?
それともちょこちょこ話題に上る旧車會の方達ですか?
族車って車通りの多い道でタラタラ走ってるイメージなんで、族車のツーリングってびっくりしました。
カルチャーショックですね。
んー、これも名古屋走りの一端なのか。
あんなバイクで距離を走るのはしんどいと思うんやけど・・・
ただ、道は確かに気持ちよかったですね(^^)
野間灯台の辺りまでは海際で砂浜も多く、一足先に夏のような雰囲気がありました。
野間灯台を過ぎると、国道247号線はやや内陸部を通るようになり、セントレアが近付いてくると4車線となって主要幹線道路の趣が強くなっていきます。
この辺り、海岸沿いに1本、割とスッと伸びている県道がありますが、もしかしたら旧国道ですかね?
こちらも趣ありそうな道なんで、走って見たいですが、今回は残念ながら時間がありません。
セントレアを過ぎてしばらくすると、次の目的地である大野城が右手に見えてきます。
大野城自体は山の上にあった城なんですが、一帯が宅地開発されていて、今は青海山団地の端っこの公園となっていました。
こんな込み入った所の城は、昔なら見つけるのも一苦労でしたが、事前の予習とスマホの詳細地図で迷う事も無くなりましたな。
時代は確実に進んでおりますわ・・・

大野城は、知多半島の西側を支配した佐治氏の居城です。
佐治氏は、そもそもは近江国甲賀郡の出身で、知多郡の分郡守護であった一色氏に仕えて入部したといわれ、以後、水軍を率いて海運を押さえ、勢力を拡げました。
出身は山奥ですが、九鬼氏のような海賊大名のひとつと言えるでしょう。
地図をよく見てみると、城の北側の前山川沿いに大門、城下、屋敷、大屋敷といった地名が並んでおり、城下町を北に構え、川沿いに船を係留していたのではないでしょうか。
そして、その前山川を辿ると矢田川に合流し、その先に大野湊がありました。
佐治氏の領地は3万石とも6万石ともいわれますが、この大野湊が佐治氏の経済的基盤だったと思われます。
麓の地名の散り具合を考えると、経済的にも、単純に規模としても、なかなか大きい城と城下だったのでしょうね。
現在の大野城は、城山公園として整備されています。
駐車場は南北の2ヶ所にあるようですが、今回は住宅地の奥の込み入った所にある南側の駐車場に止めました。
ただ、下が砂利で傾斜もあって、というバイクには向かない駐車場でしたけども(^^;)
その駐車場から入ると、まず目を引くのが土塁に囲まれた削平地。
山上の城の空堀としては広すぎる気もするので、郭跡でしょうか。

 
ここから下の段には帯郭らしき場所があり、最高部の北側にある遊具広場や多目的広場も郭跡を利用したものと思われます。
遊具広場から主郭部に上がると、すぐ横に城址碑があり、模擬櫓の展望台もありました。

 
両方入ったので、なかなかいい構図(^^)
本丸全体の広さは下のような感じです。
模擬櫓が圧迫してる部分はありますが、山城の本丸としては標準的な大きさですかね。

 
模擬櫓の内部には、城に関する資料が並べられていました。
景色もなかなかよろしい。

 
中央に見えている森の部分が、次の目的地となる大草城ですね。
これだけ至近な位置関係。
その展望台の向かいには佐治神社があり、佐治氏が祀られていました。
大きさから言って、往時はここに小さな天守か物見櫓があったのでしょう。

 
散策することはしなかったですが、城下へと続く北側の中腹は開発されていないようで、色々と探ればまだまだ遺構の類がありそうですね。
 
大野城の次は、先ほど展望台から見えていた大草城へ。
上でも書きましたが、大野城から北北西1.3kmという近さです。
国道155号線を走ると、左手にたくさんの幟が見えますが、これは地蔵寺の幟。
大草城はそのお隣です。
目印にはちょうど良かった。
大草城は、先の大野城に入城した織田長益が新たに居城として築いた城です。
しかし、大野城の廃城時期と同様、築城前後の詳しい事跡がはっきりしていません。
長益の入部時期としては、佐治信方討死後の天正2年(1574)に佐治一成の後見として入部したという説、同10年(1582)の本能寺の変の後という説、同12年(1584)の小牧長久手の合戦後に佐治氏が大野から追放された後という説、があります。
後見説では一成の成人独立間近の天正9年(1581)に築城に着手したということになっており、他は入部後に築いたとされていますから、天正9年から同14年までの期間のどこかで築城工事が始まったというわけですね。
そして、天正18年(1590)の織田信雄改易に伴って秀吉の御伽衆となり、摂津に移った為、未完にして廃城となりました。
しかし、地形的な工事はほぼ終わっており、土塁や水堀が非常に良く形を残しています。
主郭部分は完成間近だったんじゃないでしょうか。
見たところ、総石垣にするつもりも無いような感じですしね。
 
丘陵南側の駐車場にバイクを止め、少し坂を登るとそこが本丸です。
本丸はグラウンドになっており、一角に模擬櫓の展望台が建っていました。
そこに説明と縄張図があります。
 
 
近世城郭らしい方形の郭の組み合わせですね。
グラウンドで遊ぶ子供達を横目に、ぶらぶらと散策していきます。
西側の入口は、土塁というのがよく分かる地形ですね。
 
 
少し進んで二ノ丸に行くと、土塁が非常に良く残っていました。
奥側の縁辺が盛り上がっているのが見えます。
 
 
ちなみに、撮影したこの部分はかつては水堀だったようで、やや窪んでいました。
堀が埋め立てられているのは、この部分だけみたいですね。
この土塁の上に登ると、端が広くなっています。
おそらく隅櫓の場所だったのでしょう。
 
 
ただ、この辺りを含めてぐり石などの類は見られなかったので、石垣はあったけど壊された、というような感じではないですね。
石垣の工事が入る前だったのか、そもそも総石垣にするつもりが無かったのか。
大体の築城工事は、本丸から工事に入り、地形を整えて城郭構造を造り終えると、本丸は上物の作事へ移行し、普請部門は二ノ丸の工事に取り掛かります。
大草城では二ノ丸の地形(チギョウ)と呼ばれる普請まではほぼ終わっており、恐らく本丸は作事に移っていたと思われますが、本丸近辺に石垣の詰石などの痕跡が見えません。
表面の大石は転用されることが多いですが、小さい詰石を全て持って行くということはあまりないので、石垣がかつてあったならそういう石が散乱してることが多いんですがね。
どうなんでしょうか。
二ノ丸の外側に下りて行くと、水堀がきちんとした形で残っています。
 
 
この外側の三ノ丸方向は民家が建っていましたが、ちゃんと切岸は残っており、三ノ丸もある程度工事が進んでいたようですね。
未完ということもあって、歴史上は無名なお城なんですが、近世城郭遺構としてはなかなか良い城でした(^^)
 
この後、時間があれば桑名城と長島城にも寄ろうかと思ってたんですが、どうも時間切れとなりました。
東から神戸へ帰ると、夕刻には京阪神に帰る車の集中によって栗東や瀬田、高槻で混雑します。
桑名城や長島城に寄る1時間半のロスが、帰宅時間の3時間押しというような状況すら有り得るわけで、ここが判断の分かれ目かと。
ま、この日は雨で直帰も想定に入っていたことを考えると、これだけ回れただけでも十分満足ですわ(^^)
こうして、東海I.C.から伊勢湾岸道に入り、長島や桑名を遠目に見つつ新名神経由で名神へ。
途中、大津S.A.で休憩を挟んだ際に、駐車場の中で誰も止めていない端っこに反対向きに止めてたのに、休憩から帰ってくるとツーリンググループがまるで知り合いのようにすぐ隣に奥に向かって止めており、集団の中で自分のバイクだけ空気読まない奴のように反対向きだったりして、微妙に死んだ魚の目になったりしましたが、重大なトラブルは無く、無事に中国道西宮北I.C.に到着。
この時点でまだ18時過ぎだったので、なんとなく大沢温泉に入って帰りました。
この最後の締めの温泉、ヤバいです。
次の日の疲れの残り方が天と地ほど違う。
ヤバい。
これは癖になりそうや(^^;)
 
1日目:431.4km
2日目:367.6km  合計:799.0km 
 
参考:
地図付きは愛知はこちら兵庫はこっち
 
 
 

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