2015年12月21日月曜日

伊勢湾周遊 その6

前回のあらすじ

吉田城は都市型のいいお城跡。
明石城に通じるものがあった。
三河湾スカイラインは勿体無し!
 
三河湾スカイラインを抜ける頃、陽は完全に夕日の状態に。
ぼちぼち、今日はもう城は巡り納めか・・・なんて思いつつ、坂野峠から東へ真っ直ぐ向かい、上ノ郷城へ。
まだこの明るさなら行ける!

上ノ郷城は、鵜殿氏の居城でした。
鵜殿と言えば、日本一面積の小さい村というので、和歌山県の鵜殿村が有名でしたが、今は市町村合併で残念ながら無くなっています。
日本一小さい村というでっかい看板があったのは、今でも覚えていますね。
ああいう日本一の○○というのは、なぜかそそるものがありますな(笑)
それは置くとして、その鵜殿村を本貫とする鵜殿氏は、もともとは熊野別当の家系という伝承がある豪族ですが、三河国には熊野大社の神領や荘園がいくつかあったようで、家系云々はともかく、その現地管理者から出発したのでしょう。
三河湾と伊勢湾、熊野の地理的な近さというものを感じますね。
熊野の辺りは険阻ですが、陸路ではなく海路であれば、伊勢湾に入ってしまうと交通はかなり容易で、人的物的交流も盛んだったようです。
いつ頃にこの地に来たのかは不明ですが、南北朝時代には豪族として頭角を現し、戦国時代には三河に進出した今川家に従って重用されました。
当主が長持の時には、あの今川義元の妹婿となっていますが、これは東三河の今川与党として重要視された結果でしょう。
ちなみに、某歴史シミュレーションゲームのN長のY望にも、今川家臣として登場してきます。
あのゲームに登場するということは、かなり重臣と言えるでしょうな。
七条兼仲みたいに、事跡がはっきりしないローカル武将なのにポンっと出る場合もありますがね(笑)
話を鵜殿氏に戻すと、今川家の姻戚となった長持の子長照も同様に重用され、というか、つまりは義元の甥なのでそれは当然の事なんですが、三河においての活動が史料に見えます。
また、後の桶狭間の合戦直前には、今川家にとって対織田戦線の最重要拠点である大高城将でもありました。
後の家康である松平元康が、兵糧運び入れで賞されたのもこの時。
しかし、皮肉にも、大高城で出迎えた長照と、運び入れた若き日の家康は、直後の義元の討死によって、やがて激突する運命となります。
戦後、今川家から独立を志した家康と、親族の立場から今川家に留まった長照。
やがて、岡崎城を拠点に自立した家康は、西三河を席巻し、今川家の勢力圏にあった東三河へと侵攻します。
この上ノ郷城もその矢面に立ち、長照が迎え討ちますが、その頃は今川家の後ろ盾も弱く、上ノ郷城は落城し、長照は討たれました。

その上ノ郷城は、三河湾スカイラインの描く弧の中心辺りにあります。
蒲郡駅から真北、赤日子神社に駐車スペースがあるのですが、周辺は農村特有の道の細さで、大きな車では行きにくいかもしれません。
その駐車スペースには、案内図がありました。

 
そこから狭い道を歩くと、堀跡といわれる熊ヶ池があります。

 
更に、そこから北へ進んだ所が主郭部。
この熊ヶ池から主郭部の間には、居館があったともいわれています。
主郭部へ足を踏み入れると、まず目に入ってくるのが大きな土塁と空堀で、その土塁上に城址碑がありました。
下の写真中央部にある木の幹のような真っ直ぐのものが城址碑です。
土塁と空堀がはっきりしているのもいいですね(^^)

 
城址碑のある場所から堀を越えて一段上の場所に本丸があります。
その本丸の入口には腰郭のような4m四方程度の郭があり、かつては大手門があったんでしょうか、左手に石垣も見えますね。

 
最後は本丸。
2段構成になっていたことがよく判ります。

 
最後、と書いたけどもう1枚、こっちの方が土塁と空堀のコントラストがはっきりしてていいかな?

 
現地の縄張図を見ると、空堀ではなく郭跡だった可能性もあるようです。
ただ、建物跡なのか掘り込まれていたのか、発掘してみないと分からないんでしょうね。
 
上ノ郷城の後は、もう1城寄る予定だったんですが、出発する頃には陽が落ちてしまってました。
やばい・・・
急いで蒲郡西I.C.付近に戻って県道を南下し、国道247号線へ。
おぉこんな所にボートレース場が!なんて思いつつ、左折して臨海部へ走り、形原漁港へと到着。
この漁港の南の山が形原城です。
まだ明るさが残ってた!
現在の形原城は、古城稲荷の境内地となっていますが、それは城跡のごく一部に過ぎないようです。
実際、残っている部分は、城としてはかなり狭いですしね。
地図を見ると、稲荷社の辺りが東古城ですが、その北西に北古城、南西に南古城という地名が残っており、これらも城域だったと思われます。
更に南西の馬場も、城内と言うには遠いですが、外郭だったのかもしれませんね。
とりあえず、
この辺、東西南北多いな!
というのが地図を見た印象ですが(笑)
ざっと見ただけで、古城、稲生、戸甫井、馬場、馬相、上野、上松、根崎、御屋敷、名田、欠ノ上、湿見、中畑、鞍掛・・・
これらに東西だったり南北だったりが付いています。
そんなに細分化せんでもよかろう、と思うぐらい。
これも地域の特色なんでしょうね。
話を形原城に戻すと、この城は、十八松平のひとつとして江戸時代の大名として生き残った形原松平氏発祥の地。
形原松平氏と言えば、高槻藩、丹波篠山藩、丹波亀山藩といったように関西で藩主を務めており、意外と自分にとっても近しく感じる家だったりします。
大元を辿れば、松平氏3代信光の子与副から始まっており、割と古い時代に分かれた松平一門ですね。
ちなみに、この松平氏を調べて行くと面白いのですが、2代ごとに英主が出ています。
初代親氏が、土豪である松平氏の養子となって源姓松平氏の歴史が始まるわけですが、流浪の身分であった親氏に松平信重が松平郷を譲ろうと思えるぐらいですので、ひとかどの人物だったのでしょう。
親氏の子親泰は、親氏を手伝った事や岩津進出を果たしたことから、ぼちぼち活躍したと思われます。
ま、この初代と2代は存在が疑われてたりもするので、どちらもはっきりしていないと言えばはっきりしていないんですがね。
次が、上にも出てきた3代目の信光で、親氏の子という説もあるのですが、この信光の時代に大きく松平氏が発展しました。
松平郷は兄信広が継いでいることから、信光自体は分家だったと思われるんですが、岩津を継ぎ、やがて平野部の安祥にまで勢力を拡げています。
これが分家発展の1回目。
信光の跡を継いだのは親忠だったのですが、この人もぼちぼちの活躍をしたようですね。
ただ、惣領は信光の長男に譲られたと三河物語には記されており、分家だったと思われます。
これが正しければ、分家発展の2回目ですな。
この親忠の子が5代の長親で、この人物は今川軍を率いた北条早雲と戦って撃退するなど、やはり英主でした。
彼は三男だったのですが、兄達は在京していた、つまり惣領の役割は兄達が担っていたようで、地元の有力者として力を蓄えたのでしょう。
分家発展3回目。
しかし、この長親の子信忠は暗愚で、家臣から、頼むから隠退して!と言われるほど。
その為、信忠の隠退で7代目の清康が登場してきます。
松平清康と言えば、知る人ぞ知る三河の英雄。
13歳にして家督を継ぎ、岡崎へ進出して西三河を平らげ、更には東三河にも侵攻して僅か6年にして三河統一を成し遂げました。
そして、尾張にも進出し、織田信秀の弟信光の守山城を攻めたのですが、その最中、家臣に斬られてしまいます。
享年25。
これが森山崩れです。
ここで死ななければ、数ヶ国の主になったかもしれないというほどの武将でした。
非常に惜しい。
この後、松平家は苦難の時を迎えます。
清康の子広忠はまだ幼く、叔父信定が岡崎城を押領し、広忠は流浪の挙句に今川義元の後ろ盾を得て復帰しますが、後の家康である嫡男竹千代を人質に取られ、やがて自分も家臣に討たれてしまいました。
この人が8代目。
そして、9代目の家康の登場となるのです。
簡単に整理すると、

・初代親氏-流浪の身から松平郷を譲られる。
・2代親泰-初代のお手伝い。岩津進出。
       ~ 伝説の境目 ~
・3代信光-惣領は松平郷松平氏の信広。岩津松平氏。念願の平野部安祥へ進出して戦国大名の礎を築く。
・4代親忠-惣領は長兄?安祥松平家として惣領名代か。
・5代長親-戦国大名化。三男の分家ながら実力的惣領。北条早雲と対決し撃退。
・6代信忠-ボンクラさん。さっさと隠退させられる。
・7代清康-三河統一の英雄。遠征中に凶刃に斃れる。
・8代広忠-岡崎を追われ流浪。後に復活するも今川配下。
・9代家康-江戸幕府創設。

こんな感じですか。
1代目は伝承に近いので何とも言えませんが、2代ごとの3・5・7・9代目はガッツリ英主ですね。
そして、江戸時幕府創設後も、3代家光、5綱吉が目立つ存在となっています。
こちらは功罪共に深しといった感じですが・・・
それと、本宗家筋の松平郷松平氏から見ると、家康は分家の分家の分家にあたるんですが、ここは織田家と相通じるものがありますな。
織田家も、本家筋たる岩倉織田家の分家の清須織田家の更に分家の清須三奉行の家ですしね。
その岩倉織田家も、越前の総本家から分かれて尾張に来たっぽいので、嫡流から見た信長は、分家の分家の分家ということになるわけです。
長子相続が建前の武士の世ですが、世が乱れると、実力のある分家がのし上がってくるということがよく解りますな。

話が恐ろしいほど逸れましたが、現在の形原城は、古城という趣はあるものの、城跡として残っているのは非常に小さい範囲にとどまっています。
城跡の全景はこんな感じで、比高は10mほど。
この場所が既に10mほど上った場所なので、海からは20mほどの高さでしょうか。

 
2段の削平地が残っており、下段は広場、上段には社殿があります。

 
その一角に城址碑。

 
遺構と呼べる物は少ないですが、古城の趣はある城でした。
とりあえずは、ここまで明るさが残ってて良かった(^^)
午前4城、午後4城の予定は無事終了。
天気も崩れなくて何よりですわ。
明日は朝から雨の予定やし、ホテルでゆっくりやねぇ
 
つづく
 
参考:
上ノ郷城
形原城
地図付きはこちら
 

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