2015年10月30日金曜日

津山藩森氏

前回は、乃井野陣屋の三日月藩藩主である森氏について書きました。
が、長くなったので藩祖忠政のところまででしたね。
今回はそのややこしい続きを。

津山藩藩祖の忠政は、あの鬼武蔵で有名な長可の末弟です。
この人も兄に負けず劣らず、兄が信州から撤退する際に敵対した北信濃の一族をわざわざ探し出して処刑するなど、なかなかクセのある人でした。
その為か、施政もかなり苛烈で、川中島藩では一揆が起きていますが、これに対しても圧力をもって対応しています。
慶長8年(1603)には、津山へ加増転封となっていますが、苛烈さを聞いた土豪らが反発し、入国にも策を講じるほどでしたが、これは忠政が一枚上手だったようで、一揆の裏をかいてさっさと入国してしまいました。
こうなると一揆も弱いもので、新領主にお伺いを立てる人間も出て分裂状態となり、一揆は瓦解しています。
この辺りは、なんだか集団心理をよく知ってるような感じですね。

ただ、前回も言ったように、津山藩の家中では刃傷沙汰が多く、ちょっとまとまりに欠ける印象です。
津山城築城の前に院庄に築城を試みていますが、その現場で名古屋山三郎と井戸宇右衛門が口論の末に斬り合いとなり、山三郎は宇右衛門に、宇右衛門は他の藩士に斬殺されています。
これが1件目。
名古屋山三郎と言えば、「なごやさんざ」の名で知られる歌舞伎の祖とされる人物で、妻は同じく歌舞伎の祖といわれる阿国とされています。
とても美男子だったといわれ、芸達者でもあったので、忠政のお気に入りだったようですね。
一方の宇右衛門は、叩き上げの猛者で、長可が東美濃を席巻した際に加治田城の降兵のまとめ役として仕えていますが、元々は大和の出身です。
筒井順慶の家臣として出てくる井戸良弘と同族と思われますが、系図は分かりません。
山三郎自身は、どうも上昇志向の強い人間だったようで、妹が忠政の側室であったことから外戚として権力強化を志向し、忠政もそれに同調したようです。
川中島藩の頃からこの両者には諍いがあったようですが、最終的には忠政が宇右衛門一党の討滅を図り、宇右衛門と同時に別の場所で弟も討たれました。
結果的には上位討ち、という形式ですね。
ただ、暗殺を立案したと思われる山三郎が武のある宇右衛門にさくっと斬られているのが情けないですが。
しかし、まぁなんともきな臭い・・・

この事件後、院庄への築城は縁起が悪いと断念され、津山へ築城することになるのですが、忠政の父可成の正室の弟で、宇右衛門の義兄でもあった重臣林為忠は事件に怒りを発し、後処理をしていた川中島から美作へ向かう途中で出奔してしまっています。
林家は、各務家と共に可成時代から森家を支えた家臣で、土岐家や斎藤家での同僚筋でした。
蜂須賀家における稲田家、細川家における松井家、堀家における奥田家が近いかな。
姻戚でもあり、藩内の鎮め役でもあったわけです。
森家にとってこのような古参筋の武将を失ったのは痛手でした。
代わりに筆頭家老になったのは、同じく元同僚筋の重鎮である各務氏でしたが、可成と長可の時代に森家を支えた元正はすでに亡く、その嫡男元峯が就任しています。
しかし、事もあろうに、鎮めとなるべき元峯が、5年後に家老の小沢彦八を殺害し、止めに入った細野左兵衛も元峯の家臣が殺害するという事件を起こしてしまいました。
これが2件目。
筆頭家老というのに、あまりにもいただけない。
戦国の雰囲気がまだ色濃い時代ですから、家臣の刃傷沙汰は各藩でありましたが、家老などの上級家臣同士で、このような事件が何度も起こる藩というのは稀ですな。
よく取り潰しにならなかったもんです。
以後、忠政もどうにもならんと思ったのか、可成の弟で旗本になっていた可政を招聘し、家政の引き締めを図りました。
この可政は、可成の弟とは言え、父通安の晩年の子の為、甥の長可よりも年下で、しかも長可とは喧嘩別れして出奔していたという経歴があります。
ちなみに、この可政の娘婿で、関成政の長子である武兵衛も森家に仕えていたんですが、やはり忠政と対立して出奔しました。
森家中の出奔、どんだけ多いねん!
とツッコミたくもなりますが、激烈な気性の家系なんでしょうね。

この可政が迎えられた後、津山藩は一応の安定を見るようになりました。
しかし、まだまだ森家には苦難が。
忠政には3人の男子がいたものの、皆、父に先立って早世してしまうのです。
ここで登場するのが関氏。
先ほど、ちらっと出てきた関さんです。
元々は可成と織田家中で同僚だった家ですが、そもそもは土岐氏の家臣筋でもあり、その頃から両家に付き合いがあったのかもしれません。
ともあれ、どういう縁かは不明ですが、可成の娘が関成政の室となり、両家は縁続きとなります。
しかし、成政は長可と同じく小牧長久手の合戦で討死してしまい、室と遺児は母方の実家である森家を頼りました。
この縁で先ほどの武兵衛も森家に仕えていたわけですが、成政の末子、武兵衛の弟に成次という人物がおり、この人物も同様に長じてから森家に仕え、室に忠政の娘、つまりは従兄弟にあたる於郷を迎えています。
そして、この嫡子である長継が忠政の養子となり、津山藩森家を継承するわけですな。
長継は、忠政にとっては外孫にあたります。
子も早世し、内孫もいない。
なかなか綱渡りな継承と言えますかね。
 
あ~長かった。
ようやく三日月藩誕生の分裂のところまで来たわ(^^;)
というわけで、つづく。
 
参考:
津山城
地図付きはこちら
 

0 件のコメント:

コメントを投稿