2013年11月11日月曜日

魚住泊

先日、神戸新聞に明石市魚住の湊の遺物の年代が確定したというニュースが載ってました。

魚住、そう魚住。
個人的には非常に馴染みの深い場所ですな(笑)
なぜ馴染みが深いのかは置いておくとして、ぶっちゃけ、田舎です。
正確にカテゴライズするなら、郊外。
まぁ魚住という言葉から判るように、かつての中心部は海沿いだったんでしょう。
今はJR魚住駅が中心ですけどね。
そのかつての中心だったと思われる魚住の海沿いというのは、旧山陽道の町並みなんかも残ってて、ぶらっと散歩したりサイクリングしたりするのにかなり良いです。

そこに湊があったなんていうのは、自分も魚住城について調べて初めて知りました。
それぐらい、過去に湊があったという面影がない。
でも古代には確かに魚住泊という湊がありました。
この湊を開いたのは、あの有名な行基。
この人、大層な土木家で、全国各地、池を造るわ湊を造るわ寺を造るわ、探せば恐ろしいほどの伝説が出てくるという奈良時代の土木王。
いや、王と言っても鉄鋼王や石油王というような金持ちじゃないんですけどね(笑)
常にボランティア。
さすが坊主!現代の生臭坊主は見習いやがれ!
・・・という鬱憤はさて置き、行基が開いた摂播五泊というのがありまして、そのひとつが魚住泊なんですな。
東から並べてみると、河尻泊、大和田泊、魚住泊、韓泊、室生泊。
現在の地名に直すと、神崎川河口、兵庫港、魚住、姫路的形、室津です。
並べると、その後の格差が酷い・・・
神崎川河口部は言わば尼崎で、大物なんかも含まれます。
「オオモノ」じゃなく「ダイモツ」。
両細川の乱が終結した大物崩れと言うのが有名ですけど、その頃も大きな港湾都市で、今も尼崎の工業地帯として名残を留めてます。
大和田泊は兵庫津、今の兵庫港で、古代から中世にかけても日本有力な港湾都市でした。今も三菱重工、川崎重工のある船の町です。ただ、造船は昔に比べればちょっと勢いが無いですけど・・・
この2つが古代から現代までの現役組ですな。
次が近世まで栄えてた室津と韓泊。
平清盛の大河ドラマでも出てきてましたが、戦国時代には浦上氏の拠点があり、江戸時代にも繁栄してました。
韓泊も瀬戸内の重要な港で、鎌倉時代には兵庫に劣らず繁栄していたという記録が残ってます。
ただ、この2港は山がせり出して風避けになる天然の良港ではあるけど、規模が小さく、後背の平野が少ないという共通点があります。
近代の陸上交通の発達は平野部が有利となり、大規模輸送を可能とした物流手段の進化は船の優位性を奪いました。
こうして近代化に取り残され、いまは鄙びた町になっています。
正確に言えば、隣接する相生港や姫路港にそれぞれ吸われたんでしょうな。
鉄道と接続できない港は栄えることが出来なかった、と。
とは言っても、室津なんかはその頃の遺産で観光地化できてますけどね。

翻って魚住。
嗚呼魚住。
平安時代までの記録はあるけど、そこからが不明瞭・・・
戦国時代には魚住城があり、赤松さんの分家の小寺さんの、そのまた分家の魚住さんが住んでいました。
秀吉が三木城を攻めた時、魚住城に荷揚げされた兵糧が運ばれた話は有名で、三木城の有力な補給線のひとつでした。
包囲する秀吉軍から三木城の新鮮な明石鯛が見えた、なんて話もあります。
ただ、荷揚げということは、港湾施設はなんとかあったようだけど、物流でどの程度の重要性があったかというと、不明としか言いようが無い。
古代に比べれば確実に寂れていたでしょう。
というわけで、摂播五泊の中で、一番早く寂れてしまったのは魚住なのでした。
個人的には好きな所やけど、湊としては需要が無かったな・・・
ちなみに、魚住さんのその後はというと、補給線潰しで数の暴力に曝され、あっけなく落城して滅んでしまいます。
しかししかし、家老だった卜部さんがほとぼりが冷めた江戸時代に魚住へ戻ってきて、酒造業を始めます。
これが今の江井ヶ島酒造の原点。
没落したと言っても酒造業なんか資本が要るから、ある程度の利権は手放さんで済んだんやろな~
この世渡り上手!

話を戻すと、魚住泊というのは地質的なものなのか、壊れ易かったらしく、幾度か修復の記録が残っています。
今回、年代が測定された木材は、港湾の堤防の基礎を構成した部材と見られ、人による加工が見られるもの。
この部材の年代が、10世紀初頭に伐られた木材ということが判明しました。
記録上では、延喜14年(914)に魚住泊の修復が論じられており、この時の修復材とするなら年代が合致します。
これが出土したのは赤根川の河口で、これにより魚住泊の場所もほぼ特定できたとのことです。
なるほど、魚住泊の直系子孫にあたるのは江井ヶ島港か。
しかし、普通の漁港で、
やっぱり面影なし!

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