2015年4月28日火曜日

兵庫城 その6

2015年3月末をもって、兵庫城の発掘調査が終了しました。
現在は、発掘した以降の埋め戻し作業が行われています。
埋め戻しとは言っても、イオンの建設が決まってますから、保存の為ではなく原状回復の埋め戻しかな?
所々、掘り出された石材が固めて置かれているのですが、なにか石垣を使って城址のモニュメントでも造るのかもしれません。

発掘調査の最後の土曜となった3月28日、最後の現地説明会があったので、急遽、行ってきました。
貰った資料がそれまでの印刷所に頼んだしっかりした紙ではなく簡単なもので、調査ド終盤の時期の開催というのも考えると、説明会自体が急ごしらえだったように思います。
現場も、埋め戻し作業が進んでいる最中。
なぜ、今回はそのような慌しい感じの説明会になったかというと、兵庫城で天守の痕跡が発見されたからです。
天守の痕跡、というか天守台の痕跡、ですな

織豊時代の石垣構築技術の中に、「胴木」や「犬走り」というものがあります。
胴木は、木材を石垣基壇部に組み込むことによって、弱い地盤の補強と、不同沈下を防ぐ効果がありました。
犬走りは、石垣を二重化することによって加重を分散させる働きがあり、藤堂高虎がよく用いていますね。
これらは、海岸に近い場所や中洲など、地盤が柔らかく不安定な場所の城によく用いられ、胴木は基壇部なのでなかなか目にする機会はありませんが、犬走りは高虎所縁の伊賀上野城や津城で見ることができます。
海際の軟弱な地盤である兵庫城でも、胴木が採用されている訳ですが、これに加え、本丸の一部で石垣が二重になっていたことが発見されました。
つまり、

胴木と石垣二重化が採用された部分は特に補強の必要があった
 ↓
上に何か重いものがあった
 ↓
天守!

ということのようです。
実際の写真はこんな感じ。

 
一重目、二重目の石垣それぞれに胴木が埋め込まれています。
横からだともっと解り易いかな?

 
二重化された石垣がきれいに残ってますね。
そして、手前側の横軸の石垣は普通の一重の石垣。
対比で解り易い(^^)
実際のところは、石垣は一重目を埋設して表面上一重の二重石垣にしたのか、犬走りのように目に見える形の二重石垣だったのかは判らないそうですが、特に補強が施されていたというのは間違いありません。

行政府のようなシンプルな城というイメージがずっと兵庫城にありましたが、二重の水堀があり、天守も備えていたとなれば、かなり堂々とした近世城だっみたいですな。
これに兵庫の湊町を取り込んだ惣構の構造があり、城下町の所々に寺社が配置されていたとなると・・・
西国に対する出兵拠点だったという説に説得力ありですな!
 
参考:
兵庫城
地図付きはこちら
 

2015年4月21日火曜日

クラッチレバー交換 その2

前回交換して戻したクラッチレバー。
1回は交換に挑戦したのに、単純に元に戻すのはちょっとモヤモヤ・・・
というわけで先日、ブレーキクラッチ共に黒いレバーにかえてみました(笑)

ちょっとは変化が出たかな?
今回交換したのは、純正と同形状の社外品。
ブレーキレバーのダイヤルなんかはちょっと形が違いますけどね。
まぁだいたいこんな感じです。

 
ちなみに、前回交換を断念した調整機構付きクラッチはこんな感じ。

 
調整レバー根元の丸い部分がスイッチに当たる。
スイッチャーを少し回転させてずらそうとしてみましたけど、スイッチャーは回転させられない仕様。
レバーをミラーごと回して角度をずらすのは、クラッチが下に遠くなるのでかなり微妙。
ただでさえ、調整機能をフルに使って最も遠いですしね。

さて、これでクラッチ2本、ブレーキ1本の予備ができた訳だが。
つまり・・・
左に2回、右に1回倒せるということかっ!
 

2015年4月16日木曜日

地方紙の記事がねぇ

AIIBについての各記事などを読んでいましたが、地方紙が面白いですね。

4/6付けの山陰中央新報、茨木新聞、宮崎日日新聞のAIIBに関する各論説や社説。
これ、ほとんど同じ!
大きな事件や報道に関しては、内容が似ることはあるかもしれないけど、この3つは記事全体の流れもほぼ同じだから笑ってしまう(笑)
一時問題になったコピペ卒論かい!
時間が経ってるので、該当の論説や社説を今も見れるところと、見れないところがあるけど、中身を見る機会があった地方紙だけで3紙も同じなわけだから、くまなく探せばもっとありそう。

原因はというと、なんでも、共同通信なんかがテンプレートを配信してるらしいですね。
ん~
ん~~
地方紙には、国際情報に精通するだけの人材も予算もなくて、外注の配信に頼るのもわかるけども。
配信テンプレートにデコレーションだけして、はいっ新聞ですって配達されてもな~
高説ぶっても説得力がないわな・・・
 

2015年4月9日木曜日

AIIB

近頃、AIIBへの参加の是非を巡って、マスコミで論評が激しいですな。
その多くは、AIIBに参加すべきという論調。
外交的敗北や失敗、中国外交の勝利といった論調もありますね。
しかし、AIIB自体の詳細については、国にもしっかりとした情報が無く、中国からあまり情報が出てきていない様子。
まとめると、

・中国が40%~50%を出資する。
・出資金はGDP比で各国に割り当てられる。
・アジア地域で75%、その他の地域で25%を出資。
・理事会の開催や理事の権限は不明で、本部は北京に置き、トップには中国人が就任。

といった情報が出ています。
拒否権については、アメリカのマスコミが、中国が拒否権を設定しない方針を固めたと報道しましたが、これを中国は否定しました。
なので、現段階では拒否権の設定をするつもりであろうと思われます。

このような組織、というかまだ全容がはっきりとせず、海の物とも山の物ともわからない組織に参加しないのは失敗という論調は、ちょっと偏りが過ぎませんか?
外務省のデータ(http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000018853.pdf)を参照すると、2013年の実績で、日本は49196億ドル、中国は92403億ドルです。
直近のデータでは約2倍といったところでしょう。
つまり、中国が1兆円出すと言えば、日本は比率から5000億円を出さざるを得ませんが、その出資金に見合った権限があるのかどうかも不明、ということになります。
域外のイギリスなどの先進国が、少ない出資金で儲け話に一枚噛める、というのとはちょっとレベルの違う額ですね。
ま、出資金についても外相が1000億円規模と言っているように、全容さえ明らかではありません。
額が額だけに、ある程度はっきりしてから参加の是非を考えるのが現実的ではないでしょうか。
少なくとも、日本は同じような機能のアジア開発銀行では15%以上の出資比率を持ち、アメリカと協力して総裁を出せる影響力を持っているわけですから、慌てる必要は無いと思うんですがね。

いつものバスに乗り遅れるな理論かな?
マスコミには、そういう煽るような感じではなく、メリットデメリットをもっとしっかり押さえた冷静な議論をして欲しいですな。
 

2015年4月7日火曜日

北斗星とトワイライトエクスプレス

先月の3月は、毎年のことですが、鉄道のダイヤ改正のある月です。
鉄道関係者にとっては、年度始めといったところでしょうか。
今年についての大きなトピックとしては、北陸新幹線の開通と、寝台特急の廃止がありました。
それに関してこんな記事が。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150327-00133297-kana-l14

要約すると、
・寝台特急の廃止は鉄道事業者間の事情によるもので、利用者は関係ない話。
・代わって登場するクルーズトレインは高すぎて代替にならない。
・ヨーロッパには、高速鉄道も安い簡易寝台もある。
・旅の多様性が失われる。
といったところでしょうか。

個人的には、幼い頃は鉄道が大好きで、長じてからはトワイライトエクスプレスに乗ったこともあり、日本海モトとレールにいつか乗ってやるという野望を持っていたということもあって、寝台特急の廃止は凄く残念なんですが、ちょっとこの記事も見方が偏ってるかな?と思わくはない内容ですね。
 
国鉄時代には、寝台特急、寝台急行というのがあって、その代表はやっぱりブルートレインでしょうか。
主に東京・大阪から、九州や中四国方面への寝台特急で、東京~西鹿児島なんて恐ろしい長距離列車もありました。
上の日本海モトとレールもそのひとつで、これは大阪~青森、青函トンネル開通後は北海道まで行くようになったブルートレインの日本海に、バイク積載の車両を足したものです。
確かフェリーより早くて便利だったはず。
東京~大阪の急行銀河というのもありましたね。
一応、ブルートレインは特急の名称なので正確にはブルートレインではないんですが、青の車体で外観は完全にブルートレインでした。
前世代のブルートレインの車両を使ってたはず。
これには乗ったことがあります。
いや~なつかしい!

しかし、これらはごく一部が電車の寝台列車として生き残ってるのみで、ブルートレインとしてはもう今は走っていません。
ブルートレインの末期には、時々新聞記事で見ましたが、どの便もガラガラでした。
最盛期には10両以上で運用されていたと記憶してますが、末期には両数を減らして尚、ガラガラだったんです。
ノスタルジーに浸っても、実需はこんなものでしかありません。
これも時代の流れというところでしょうかね。
新幹線が登場し、高速化し、新幹線網と言えるだけの路線が構築された今、中距離は新幹線と競合し、他方、飛行機にもスカイマークやLCCといった上位2社に対抗し得る存在ができて運賃が安くなり、長距離は航空路線と競合するようになっています。
こうして、寝台特急に需要が無くなってしまったのです。
もちろん、愛好家はそれとは関係なく寝台特急を利用しますが、記事にあるように、それでも北斗星の年間の乗車率は6割程度でしかありません。
日常需要をある程度拾えないと、やはり存続は難しい。
さらに、日常需要はある程度安定しますが、それ以外は季節やブームといった要因で変動しがちでもあり、その上、通過する在来線の非JR化で取り分減少ともなれば、営利企業としては、数十年スパンでの償却を考える車両更新の決断はし難いでしょうね。
残念ですが、理解も出来ます。
鉄道としては多様性が失われるのは間違いないのですが、一般の人から見ると、新幹線や航空路線といった選択肢が増えた結果とも言えるわけですし。

で、この現状で寝台特急を存続させようとすると、クルーズトレインになるわけですな。
愛好者需要に特化した形で。
ななつ星なんかを見ると、料金設定にはちょっと難があるように感じますが、売れてるということは受け入れられているのでしょう。
記事にあったように、個人的には電力の発送電分離のようにオープンアクセスを進めてもらって、JR以外の会社から企画列車が運行されるようになったら、よりいいなと思うんですよね。
第三セクターになってるということは、地元自治体の意向も反映し易く、オープンアクセスには逆にチャンスじゃないかと思いますし、頑張って欲しいですね。
かつての鉄ちゃんとしても、応援したいです。
 

2015年3月31日火曜日

備後ぶらり その5

前回のあらすじ

草ぼーぼーの中を歩き、靴を草の葉と変な実まみれにしながら、辿り着けなかった新庄城を断腸の思いで後にしたのだった・・・
 
次に目指すは5kmほど北東の尾首城。
この城を目指すのは2度目。
つまりは、リベンジなのです。
とは言え、今回も場所がはっきりと分かったわけではなく、せっかくのバイクで小回りも利くから行ってない道を回っておくか、と言う程度。
しかししかし、前回来た時に、さすがにこの先は無いんじゃないか?と引き返したその先に城の案内板が!

 
途中までは、ど~こに連れて行かれるんかね~なんて思いながら走っていました(笑)
狭い山道の上りでUターンなんかに追い込まれた日にはお手上げやな、と。
いや~思い切って突き進んでみて良かった(^^)

ちょっと逆光ですが、尾首城の全景はこんな感じです。


この小山になってる部分が主郭部で、街道筋があったであろう仁吾川はこの向こう側の急斜面の下に流れています。
手前の畑地はなだらかな地形だったんですが、居館や武家屋敷があったところですかね?
広く見れば城の一角に当たるのかもしれません。
この木々が生えている部分の左手には、空堀とも取れる窪みがあり、そこから獣道とも呼べない道を木々に掴まりながら登って行くと、確実に郭となっている部分に出ました。
この全景写真で言うと、城は3郭構成で、左手側に三ノ丸に相当すると思われる最下段、中央が最高部の本丸、右手にその中間の高さの二ノ丸に相当する次段があります。
これが本丸の削平地。

 
木々で遠近感が解り辛いですが、三日月に近い長方形で、長辺が大体25mぐらいと、意外と規模がありました。
ちなみにこの向こう側の次段は完全に藪化していて散策できず。
周辺にも郭がある可能性があるんですが、案内板の類が無かったので全容は不明です。
後は、三ノ丸部分に上り土塁と思われるものがありました。
見所はそれぐらいですかね。
空堀の可能性がある窪みの辺りにもまだ何かあるかもしれません。

まぁでも何年も場所が分からなかった城に辿り着けたのでかなり満足!
いや~えがったえがった。
 
1日目:195.9km
2日目:124.7km
3日目:192.9km  合計:513.5km
 
参考:
尾首城
地図付きはこちら
 

2015年3月26日木曜日

備後ぶらり その4

前回のあらすじ

鞆は良か雰囲気ですわ。
早朝の空気も凛として良かったっす。
 
大可島城の周辺を見て回り、当初の目的だったポニョのモチーフとなった場所も見終えたので、駐車場に戻る際には、こんなところも通りました。

 
ここは対潮楼で有名な福禅寺の近く。
こんな路地が至る所にあるんですよ。
路地マニア垂涎(笑)
名残惜しき鞆の写真の最後っぺ。
 
今回は鞆がメインだったので、これからぼちぼちと帰投したわけですが、行きと違い、山陽道の福山東I.C.への道路案内に従って進むと、真っ直ぐ行くだけで国道182号線に入れました。
臨海部に整備された道で、鞆に行くなら圧倒的に早くて快適ですね。
行きは想定したルートに固執してましたわ。
しかし、この途中、何気なく給油しにGSに入り、いつものように給油したんですが、そこでひたひたパン給油事件が。
どんなネーミングやねん!スープ会社の回し者か?というのは置くとして、いつものように給油口を開け、給油ガンをセットし、跳ね返りの滴防止の為に備え付けの雑巾を宛がったわけです。
そして、給油を終え、雑巾を除けたその時、タンク表面にガソリンが・・・
えっ?と思い、雑巾を見ると、
ガソリンでスープ浸したひたひたパン状態になっとるがな!
これは想定外・・・
タンク表面への飛び散り防止の為の雑巾がまさかガソリンに侵されていたとは!
おかげでタンクのプレクサスのコーティングがそこだけ剥げて色がマダラになるわ、左手のグローブがガソリン臭くなるわ、散々ですわ。
静電気が怖いのでガンを持つ右手のクローブは外すんですが、左手も外しておけばすぐひたひたになってるのに気付いたのに・・・
 
そんなトラブルもありながら、交通量の多くなってきた国道182号線を淡々と北上し、根拠地とする神石高原へ。
以前に探し切れなかった尾首城を探しつつ帰るかな、と思って走っていると、県道9号線の道端に急に城の案内板が。


城の名は新庄城。
これは初耳。
朝食が遅くなるなと思いつつ、案内板を見付けた以上は寄らずにはおられない。
しかししかし、この城、アクセスが藪化していて城の本体がどこにあるのか分からずじまいでした。
段々になって郭の跡かな?と思うような墓地があったりはしたんですが、案内板とは形状が違いすぎて、少なくとも城の中心では無いようです。
でも、明らかに城っぽい地形だったので、もしかしたらやや離れた出丸などの遺構が再利用されたものかもしれません。

 
お墓を撮るのは失礼なのでその墓地の入口の所なんですが、左の郭っぽい削平地が中央の鈎型の土塁で区切られてるように見えますよね。
そう、見えるんです。
この向こう側の墓地も含めると3段の平地。
ん~、遺構くさいんだけどな~
ちなみに、この反対方向は完全に藪化した道で、草を掻き分けて進むと廃屋がありました。
もしかして、城はそこから更に登った先だったんだろうか・・・
 
つづく
 
参考:
新庄城
地図付きはこちら