2023年7月14日金曜日

ぶらり三田

晴雨雨雨晴のオセロ模様に潰された昨年秋のツーリング休暇。
せめて日帰りでもと、1日目の晴れは備前西部に出かけました。
5日目も行くぜ!というわけで、ちょっと時間が空きましたが、今回は三田をぶらりとした時の記録をば。
 
神戸に住む自分にとっては、三田は近いような遠いような土地です。
学生時代の友達が住んでいたので、割と身近なはずなんですが、神戸から行くとなると、意外と遠いんですよね。
そこまで走るなら篠山まで行こうか、なんてことになりがちで、近くて遠い場所です。
その三田にはお城があるんですが、なんたかんだと行きそびれたままでした。
今回は、いい機会かと、その三田城へ。
三田へは、呑吐ダムから山越えで淡河を経由するという、神戸では有名な快走ルートを通っていきます。
このルートは走り屋さんも多く、警察の方にとっても良い営業ポイントになっているので、はしゃぎ過ぎず慎重に。
淡河からはひたすら直進して、道場までまっしぐらです。
道場あたりの国道176号線は、有馬川沿いのルートで視界も広く、走っていて心地の良い道ですね。
そのまま国道176号線を北上していくと、三田市街に入るんですが、三田の城下町をベースとする旧市街を通るわけではないので、左折して神戸電鉄の線路をくぐって旧市街へ入りました。
でも、三田城を明確に示す案内はありません。
仕方がないので、少し早い昼食を摂りながら、下調べです。
現地に来てから下調べと言うのも、近場ツーリングならではでしょう。
気ままな旅ですな。
昼食を終え、三田城の場所も判ったので、その有馬高校方向へ。
しかし、武庫川沿いから見上げると、結構な崖ですな。
これは防御も堅そうです。
三田城は、有馬高校と三田小学校の辺りにありました。
三田小学校の校門には、城址碑が建っています。
 
 
三田城は、築城時期や築城者はどうも不鮮明のようですが、戦国時代後期にはしっかり機能していたようです。
色々と支配者は変遷しますが、豊臣政権末期は山崎氏、関ヶ原の合戦後は有馬氏、そして松平氏を挟んで海賊大名の九鬼氏が城主でした。
ただ、幕末まで無城大名の家格だったので、城とは名乗れなかったようですね。
この城址碑のある三田小学校が、そのまま陣屋本体の敷地だったようです。
ただ、三田城における陣屋は、大手門からすぐというのもあって行政府的な機能だったんではないでしょうか。
山崎氏時代の天守は北の崖側にあったそうですから、実質的な本丸は有馬高校の中央から東部っぽいですね。
その有馬高校の前には、水堀も残っていました。
 
 
そして、反対側には空堀も。
 
 
三田城の縄張図はこんな感じです。
 
 
三田藩の藩主であった九鬼氏は、志摩の海賊から出発した海賊大名で、戦国時代は織田家の水軍を担いました。
それが三田という内陸部に移封されてしまったんですが、操船技術を伝えるべく、城の脇の御池という池で訓練したと伝わります。
その御池は、三田大池として今も健在でした。
 
 
再開発もされずに今も在るというのは、なんだか生き証人みたいですね。
 
三田には、三田城以外にもいくつかお城があるんですが、以前に発掘調査に行けなかった城を記事にしたことがありました。
 
 
それが、蒲公英城の別名を持つ松原城です。
城跡の場所は非常に分かりやすく、神戸電鉄神鉄道場駅のすぐ東側です。
今はどうなっているか、行ってみました。
下が2022年秋の状況です。
 
 
完全に造成工事中ですね・・・
しかし、鉄路と城跡の間に窪みが。
 
 
写真の手前が凹んでいます。
鉄路より西側は鉄路より高い鹿の子台という住宅地となっていて、城のあった当時はただの山だったんでしょうけど、そこから続く丘陵を断ち切った堀切や空堀の跡でしょうか。
堀切だったら、わずかな痕跡を発見できて嬉しいんですが・・・
 
日帰りツーリング用に、近場のスポットは残してあって、今回は意外と満足感はあったんですが、気候の良い時期は、やっぱり長距離ツーリングに行きたいですね。
もうちょっと晴れ力を鍛えなくては!
 
参考:
 

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