2017年9月21日木曜日

明智光秀の書状

先週、本能寺の変の後の明智光秀の書状が発見されたとのニュースが出ました。
 
http://news.livedoor.com/article/detail/13600103/
http://www.sankei.com/west/news/170912/wst1709120011-n1.html
 
同じ内容で2本のニュースを例に挙げましたが、やや見方が違っています。
本能寺の変の原因には諸説あり、怨恨説、単独謀反説、黒幕説などがありますが、特に黒幕説には、足利義昭黒幕説というオーソドックスなものから、秀吉、家康、果てはイエズス会といった講談的、小説的な説まであって面白いですね。
今回は、明智光秀が足利義昭を明確に視野に入れていたことを示す史料で、一見、義昭黒幕説がぐっと真実味を帯びてきたようにも思えますが、背景的にはそう素直に考えることもできません。
本能寺の変後、後に対決した光秀と秀吉はあちこちに書状を出しています。
ただ、光秀の書状は、現存する数が少ない。
これは、謀反人とのやりとりの証拠を残さないように処分されたからだと思われますが、例えば細川藤孝に出した書状を見ると、忠興を取り立てる為に謀反を起こした云々というような言葉があります。
後世の立場でものを見ると、
んなわけないやろ!
となるのですが、当時は乱の当事者や利害関係者から、はたまた関係の無い目撃者から、色んな情報が発信されていたことでしょう。
一方の秀吉も、確かめようがないはずですが、信長生存をさも事実のように書いて書状を出していました。
政治的に両者の中間に位置する武将をいかに取り込むか、書状で虚々実々の情報戦が繰り広げられていたのが解りますね。
今と違って、ニュースは伝手のある有力者や間者を通してでしか入手できず、しかも正確とも言えない。
そして、連絡手段は数日遅れる書状しか無いですしね。
書状に書いてあるからといって、それをそのまま信用はできないわけです。
 
話を本筋に戻すと、書状に義昭の存在が示されていても、乱を決意してから連絡を取ったと考えることも可能で、そうなると個人的な恨みだけではなく政治的政策的立場の違いを含む広義の怨恨説と考えることも可能となるわけですな。
古今東西、謀反でそのまま政権を樹立した例は少なく、大抵が傀儡政権を経由していますし、信長でさえ、義昭を利用し、その後は朝廷を利用しました。
光秀も、天下を取ろうと考えれば、これを参考にしないはずはない。
と、なると反信長で思い付く神輿と言えば、義昭が真っ先に浮かびます。
謀反の大義名分としては最適ですね。
しかし、実際の所はどうだったんでしょうか。
義昭の再登板計画が、義昭側から出たものなのか、光秀側の謀反計画ありきで出てきたものか、書面を素直に受け取るには、更に史料の発掘が待たれるというところですかね。


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