2017年3月9日木曜日

厄落としツーリング その9

前回のあらすじ
 
三重堀はオツなもの。
 
小山城を後にして、少し北西に行けば、東名高速の吉田I.C.があります。
次の目的地は西の横地城。
県道79号線の地蔵峠越えで西進してもいいんですが、まだまだ寄りたい所があるので、高速で時間短縮を図りました。
乗ったのはひと区間だけで、相良牧之原I.C.で東名高速を降り、南西方向へ。
牧之原台地と言えば茶畑で、降りたその辺り一帯は、もう茶畑だらけ。
横地城方向の南西への適当なアクセス路が無い為、県道以外の道を選ぶと、これが悉く茶畑の農道だったんですね。
天方本城は茶畑農道の突き当たり。
天方城も茶畑農道が公式ルート。
花倉城は超長茶畑農道。
そして、この横地城へ向かう道も、茶畑の真っ只中を進んで行くわけですわ。
いやー、茶畑ツーリングですな。
途中、うっかり茶畑への幅1.5mほどの枝道に入ってしまい、これが緩やかな凸地形の道で、足漕ぎバックすると転倒しかねず、凸の頂上部分のところでUターンした時にはどうなることかと思いましたが、汗だくで恐ろしい回数の切り返しをこなし、事無きを得ました(^^;)
こんなところに軽トラはバンバン入って行くんやから強いよな。
坂でもバックできるのが何より強いわ(笑)
そんなこんなで、茶畑一杯の牧之原台地から急激な坂を下り、1車線の木々に囲まれた道を進むと、横地城の案内がありました。
 
 
この案内板の場所に駐車場があり、ここから直登のような形で城に登れますが、もう少し先のため池の所にも駐車場があります。
下調べでは、二ノ丸にあたる横地神社の下にも駐車可能という事だったので、自分はバイクの機動力を生かして横地神社まで行きました。
ただ、ため池のところから横地神社への道は、ギリギリ車1台分の幅しかなく、しかも曲がりくねっているので、車の運転技術に自信がない人は、そこまで行かないほうが無難かもしれません。
意外と車通りのある道みたいですからね。
すれ違えず、あんな細い道で延々バックするなんて考えるだけでも嫌すぎる・・・
そんなこんなで、バイクを止めたのは横地神社のすぐ下の千畳敷と呼ばれる区画です。
 
 
相当広い場所で、ここは居住空間だったのかもしれませんね。
横地城が健在だったのは戦国時代初頭までですから、当時は居館と詰城という構成が主で、平時から横地氏が居住していたわけではないとは思いますが。
ちなみに、横地城を築いたのは、太平記にも登場する横地家長とされ、南北朝時代の頃とされています。
その後、横地氏は、ほぼ遠江今川家の家臣として活動していたようですが、遠江今川家の没落と遠江での斯波氏の勢力拡大で、応仁の乱の頃に斯波氏に属したようですね。
これに危機感を覚えたのが、遠江今川家の本家筋にあたる駿河今川家の義忠で、横地氏とその一族勝間田氏の討伐を図り、両氏を滅ぼしますが、文明8年(1476)に塩買坂で両氏の残党に襲撃され落命してしまいます。
ただ、横地氏の記録を見ると、この戦い以降も活動が見られ、義忠の子氏親の時代の永正年間(1504-21)の初め頃に落城滅亡し、嫡流の元国は武田に仕えたようですな。
つまり、義忠の討伐は完全なものではなかったというわけです。
また、討死した塩買坂も駿河への退路ではない為、実は義忠の討死は一連の討伐戦の最中に起こった敗死ではないか、という見解にも十分な説得力がありますね。
ちなみに、この義忠の討死後、残された遺児龍王丸とその母北川殿は義忠の従兄弟小鹿範満に家督を奪われかけるのですが、母子を守る為、幕府から伊勢盛時こと北条早雲が派遣され、戦国北条氏創業の切っ掛けとなって行くわけです。
この辺りを見ると、歴史の流れというのは、本当にダイナミックに繋がりますよね。
というわけで、横地城の二ノ丸であった横地神社へ登って行きます。
 
 
なんか写真では平地に見えますが、左側の道と比べると、上り坂というのがわかるでしょうか。
参道とは言え、城の段郭を登って行く道そのものでした。
途中、土塁壕跡という表示もあり、段郭の中の各所に土塁や空堀が確認できます。 
 
 
右手を見れば、断崖ではないものの、かなり急峻な坂が。
竪堀ではなさそうですが、谷筋から攻め上るのは相当厳しそうですね。
 
 
横地氏は、牛淵川や菊川の流域を開発した領主で、居館等の治所は南西側にありました。
つまり、治所の北東に張り出してきている台地を利用した詰城なんですね。
牧之原台地周辺は、地質的なものでしょうが、台地と平地の間が非常に急峻です。
その急峻さを利用していますから、この城の谷筋はびっくりするほど深く険しいんですね。
この城の見所のひとつでしょうな。
更に上がって行くと、頂上部にが社殿あります。
 
 
ここが二ノ丸の最も大事な部分ですが、上から覗くと車道沿いにも削平地があり、往時は今の境内よりももっと規模が大きかったんでしょうね。
ちなみに、この裏手から焼米が出土したそうです。
二ノ丸を散策し終え、横地神社から下りてきて東に進むと、中城の説明板が。
 
 
ここは倉庫等があった場所です。
本丸、二ノ丸とは雰囲気が違い、標高が低いことから、それほど防御力を期待された場所ではなかったのかもしれません。
木戸もあったそうなので、本丸と二ノ丸が一城別郭として機能する為に設けられた郭だったのかもしれませんね。
一応、南側には腰郭のような段郭がありました。
中城から更に道を進んで行くと、金寿城こと本丸があります。
 
 
この案内板の真上が本丸最高部ですね。
 
 
その先っぽには城址碑が。
 
 
この最高部の北側が比較的なだらかで、複数段の郭が構えられていました。
その一角には井戸跡も。
 
 
ここが一番広い郭でしたね。
この左手には、明確に堀切があり、その先にも削平地が確認できます。
また、ここから北西側へも尾根筋があり、武者走りとして通路になっていたようですね。
その先に進んで行くと、二重堀切がありました。
 
 
写真ではちょっと確認し辛いですがね・・・
時期が時期だけに下草が膝を越える部分もありましたが、全体的には散策しやすい城でした。
また、城内から見た城外の崖の険しさ。
これもこの城の重要なテーマですね。
そして、番外編。
 
 
おい、待て!
いや、まぁ、史跡の名前だからいいんだけども(笑)
 
つづく
 
参考:
横地城
地図付きはこちら
 

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