2016年7月20日水曜日

本荘蓮花寺構居

兵庫県は加古郡播磨町に、本荘蓮花寺構居跡という史跡があります。
構居跡というのは主に中世の屋敷跡や陣跡で、陣跡はもちろん、屋敷も当時の武士の居館ですから堀もあれば土塁もあり、ざっとしたくくりで言えば、ある程度の防戦施設を整えた場所という程度のものでしょうか。
構居は小規模なものが多く、来歴が不明のものがたくさんあります。
そういうのは、その辺りの一村の地主が建てた小さな御屋敷というイメージが近いかもしれませんな。
本荘蓮花寺構居跡もそのような数多の構居のひとつなんですが、ここはほかと違って史料上に登場する場所ではないか、という説があるんですね。
それは、阿閇城、もしくは別府城と呼ばれる城です。
 
この阿閇城は、元々は加古政顕という加古郡から地名を取ったと思われる在地豪族の城でした。
しかし、天正6年(1578)2月に三木城の別所長治が織田家の中国方面軍を率いる秀吉に叛くと、政顕も別所氏に味方することを決め、小城であるこの城を放棄して三木城へ入っています。
すると、海に近いこの城は海上の監視や補給網寸断に都合が良かったようで、秀吉は、兄と対立して宗家とは別行動を採った別所重棟を籠めました。
ここで、毛利軍と別所軍がそこはあかんと共同して奪い返そうとするわけですな。
なんで最初にむざむざ放棄してんねん、と思わない事もないですが、とにかく、放っては置けないと雑賀衆を含む8千という大軍を差し向けてきました。
これに対応したのが、御着城の小寺家家老で後の黒田如水である小寺官兵衛です。
官兵衛は5百の兵を率いて奇策で迎え討ち、毛利・別所連合軍を退けました。
この戦いは、三木合戦における秀吉の補給網潰しの端緒と言えるでしょうか。
これ以降、三木城は凄惨な籠城戦へと突入していくわけです。
 
で、その阿閇城。
場所が不明なんですが、比定地としてはいくつか候補地があります。
本荘蓮花寺構居もそのひとつですが、ほかに別府川沿いの多木化学の工場敷地や、西脇戎神社付近という説もあるようですね。
で、今回、本荘蓮花寺構居の一角での発掘調査の報告展示があるという事で、播磨町郷土資料館に行ってきました。
夏はバイクに乗る機会も減りますから、ちょうど良い理由付けになります(^^)
ちなみに発掘速報展の詳細については、播磨町にページがありました。
 
https://www.town.harima.lg.jp/kyodoshiryokan/honnjyourenngeji.html
 
詳しい内容はそこで確認してもらうとして、蓮花寺東側の堀跡は、幅最大8.2m、深さ最大1.2mで、60°の勾配があったとの事なので、なかなかの規模の堀だったようですね。
幻の阿閇城の跡だった可能性が高まったかもしれません。
別府川沿いの他の比定地に比べると、蓮花寺はやや内陸で海からも川からも少し距離があり、ここが阿閇城だとすると、城の性格がやや変わってくる可能性もありそうです。
いずれにせよ、今後の発掘に期待ですね。
 
余談ですが、この播磨町郷土資料館の前は、かつては鉄道が通っていたという廃線跡でした。
その鉄道というのは、土山駅と別府駅を結んでいた別府鉄道。
土山駅から郷土資料館までが遊歩道、その先は道路の用地になっているんですが、なかなか良い道ですね。
従兄弟の家の最寄駅が土山駅ということで、鉄っちゃんだった幼かりし日に従兄弟とサイクリングに来たことがありますが、その頃は廃線そのままに舗装もされてなかった記憶があります。
これだけ綺麗に整備されているんなら、気候のいい日にちょっとサイクリングしたいですね(^^)
遠い日々に思いを馳せながら・・・
でも年数を数えたらへこむからやめておこう!
 
参考:
播磨町郷土資料館
地図付きはこちら
 

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