2015年3月26日木曜日

備後ぶらり その4

前回のあらすじ

鞆は良か雰囲気ですわ。
早朝の空気も凛として良かったっす。
 
大可島城の周辺を見て回り、当初の目的だったポニョのモチーフとなった場所も見終えたので、駐車場に戻る際には、こんなところも通りました。

 
ここは対潮楼で有名な福禅寺の近く。
こんな路地が至る所にあるんですよ。
路地マニア垂涎(笑)
名残惜しき鞆の写真の最後っぺ。
 
今回は鞆がメインだったので、これからぼちぼちと帰投したわけですが、行きと違い、山陽道の福山東I.C.への道路案内に従って進むと、真っ直ぐ行くだけで国道182号線に入れました。
臨海部に整備された道で、鞆に行くなら圧倒的に早くて快適ですね。
行きは想定したルートに固執してましたわ。
しかし、この途中、何気なく給油しにGSに入り、いつものように給油したんですが、そこでひたひたパン給油事件が。
どんなネーミングやねん!スープ会社の回し者か?というのは置くとして、いつものように給油口を開け、給油ガンをセットし、跳ね返りの滴防止の為に備え付けの雑巾を宛がったわけです。
そして、給油を終え、雑巾を除けたその時、タンク表面にガソリンが・・・
えっ?と思い、雑巾を見ると、
ガソリンでスープ浸したひたひたパン状態になっとるがな!
これは想定外・・・
タンク表面への飛び散り防止の為の雑巾がまさかガソリンに侵されていたとは!
おかげでタンクのプレクサスのコーティングがそこだけ剥げて色がマダラになるわ、左手のグローブがガソリン臭くなるわ、散々ですわ。
静電気が怖いのでガンを持つ右手のクローブは外すんですが、左手も外しておけばすぐひたひたになってるのに気付いたのに・・・
 
そんなトラブルもありながら、交通量の多くなってきた国道182号線を淡々と北上し、根拠地とする神石高原へ。
以前に探し切れなかった尾首城を探しつつ帰るかな、と思って走っていると、県道9号線の道端に急に城の案内板が。


城の名は新庄城。
これは初耳。
朝食が遅くなるなと思いつつ、案内板を見付けた以上は寄らずにはおられない。
しかししかし、この城、アクセスが藪化していて城の本体がどこにあるのか分からずじまいでした。
段々になって郭の跡かな?と思うような墓地があったりはしたんですが、案内板とは形状が違いすぎて、少なくとも城の中心では無いようです。
でも、明らかに城っぽい地形だったので、もしかしたらやや離れた出丸などの遺構が再利用されたものかもしれません。

 
お墓を撮るのは失礼なのでその墓地の入口の所なんですが、左の郭っぽい削平地が中央の鈎型の土塁で区切られてるように見えますよね。
そう、見えるんです。
この向こう側の墓地も含めると3段の平地。
ん~、遺構くさいんだけどな~
ちなみに、この反対方向は完全に藪化した道で、草を掻き分けて進むと廃屋がありました。
もしかして、城はそこから更に登った先だったんだろうか・・・
 
つづく
 
参考:
新庄城
地図付きはこちら
 

2015年3月20日金曜日

備後ぶらり その3

前回のあらすじ

鞆の町並みはレトロで雰囲気があっていいですわ。
なんとも言えない絶妙な道の狭さが妙に落ち着くね。
 
鞆の町は、ジブリの「崖の上のポニョ」のモデルになった町と言われており、宮崎駿が滞在していたという東南の円福寺の辺りには元々行く予定でした。
で、鞆城の高台から町を見下ろした時、その場所は大可島城の跡地であるということも知りました。
ほうほう、城跡ならば尚の事、行かねばなるまい。

前回の記事で紹介したように、朝の町の路地を一通り満喫した後、鞆のフェリー乗り場へと歩き、その背後にある台地へ。
ここが大可島城の跡です。

 
現在は円福寺というお寺と、民家の敷地になっており、この民家に宮崎駿が滞在していたそうな。
城としては、民家が寺の敷地よりやや高いので、本丸かな?
民家と寺の敷地の大きく2つの郭が存在した城ではなかったかと思われます。
また、台地にあるだけに非常に風光明媚で、鞆の港や町並みが一望できるほか、弁天島や仙酔島もご覧のように眼前に。

 
ちなみに、鞆城築城の際に陸繋島となりましたが、城の在った当時はその名の通り島でした。
陸地からすぐの島、という海賊衆が好物とする立地で、戦国時代には毛利傘下にあった因島村上水軍の拠点でした。

帰ってから調べたんですが、この城では南北朝時代に大きな合戦がありました。
大まかには、四国瀬戸内の制海権を握る南朝方が城を拠点とし、陸側から北朝方が攻め寄せ、北朝方が勝利したという戦いです。
ちなみに、鞆という町は室町幕府と縁が深く、九州から巻き返そうとしていた足利尊氏が建武3年(1336)にこの地で新田義貞追討の院宣を受け、戦国時代には京を追われた最後の将軍足利義昭が毛利氏の保護の下に滞在していたのも、この鞆でした。
その為、室町幕府は鞆に始まり鞆に終わった、と言われることもあります。
なんとも不思議な縁ですね。
それはともかくとして、足利家にとって所縁のある大事な地でもあり、経済的にも重要な湊であった鞆は、南北朝の争奪の地となるのですが、燧灘を往来する南朝勢力の根拠地は伊予であり、その主な支援勢力は、南北両派に分かれて対立していた河野一族のいずれかでした。
この頃の河野家当主通盛は、尊氏に属して伊予守護に就任していますが、後に細川氏に守護職が移り、河野氏が南朝に転じるなど、情勢はかなり流動的だったようです。
この辺りは、全国どこでも南北に分かれて争った家が多く、同じようなもんですな。

この大可島城が拠点化されたのは、足利一族である細川氏によって康永元年(1342)に川之江城が攻められ、伊予の南朝方水軍が救援に失敗してからです。
そこで新たな拠点を求めて、瀬戸内海の対岸に移ったという感じでしょうか。
しかし、北朝もそこは黙っておらず、大可島城攻略に乗り出しました。
そして対峙となるわけですが、四国では細川氏の攻勢が続き、伊予の重要拠点のひとつである世田山城が危機に陥ると、守将であった金谷経氏が主力を率いて四国へ戻り、志願した桒原(桑原)重信のみが残りました。
しかし、こうなっては多勢に無勢。
抗戦空しく落城し、桒原一族は悉く討死したといわれます。
その為、桒原一族の墓もありました。

 
マイナーな城にも、城である以上、相応の歴史があるものですね。
ジブリ好きの人も、歴史マニアの人も、一方ではポニョの1シーンを思い浮かべながら、一方では壮絶なる合戦を思い浮かべながら、この大可島城跡の辺りを散策することができます。
道も狭く、鞆らしい路地の雰囲気も楽しめますしね。
お勧めです(^^)

最後に、大可島城から下りてきた所で見付けた昭和的な仁丹の広告。

 
古い町屋と相まって良い雰囲気でした。
そういえば、学生の頃の先生が仁丹臭くって、ジンタンというあだ名になってたな~(笑)
 
つづく
 
参考:
大可島城
地図付きはこちら
 

2015年3月13日金曜日

備後ぶらり その2

前回のあらすじ

鞆城跡は城の痕跡少なし。
でもめっちゃ景色ええわ~
 
鞆城跡の民俗博物館から南へ下って行くと、途中に稲荷社があり、下り切ればそこはもう鞆の懐かしい感じの町並みです。
ただ、こんな狭い道なのに、意外と車通りが多い。
こりゃ危ないですわ。
市街を迂回する道路の話が出るのも納得。
振り返ってみると、鞆城へは結構な勾配となってることが分かりますね。
稲荷社が腰郭だったんでしょうか。
なんて事は無い写真ですが、なんか気に入ってる構図です。

 
下り切った所には鞆の浦の商家として保存されている建物なんかもあり、雰囲気を味わいつつそのまま海まで抜けると、そこはもう鞆湊。
保存状態が良いという雁木が目に入ってきます。

 
こんなにちゃんとした状態で残っているのは、相当珍しいらしいです。
港湾として生き続けている以上、施設改修の手は入り続けるということなので、時代にそぐわなくなったものは造り替えられる運命にありますからね。
残って尚且つ現役というのは凄い。

この港の周辺には、鞆の町の代表的な風景である細い路地が、昔の風情を色濃く残して入り組んでました。
下の写真で少しは伝わりますかね?
凄く雰囲気が宜しいです(^^)

 
 
何故かアヒル隊長のひな壇(笑)

 
場所によっては人ひとり分の幅しかない路地も。

 
こんな路地、大好物ですわ。
観光地でも、すぐ路地裏の人通りの少ない道に行こうとする癖が(笑)
そんな路地マニアの好奇心をくすぐる路地多し。

昔からの湊町だけに、歴史に所縁のある場所も多いです。
下は、坂本竜馬がいろは丸事件で談判した町屋。


今は普通の旅館として運営されているみたいですね。
下は、政変によって長州派の貴族7人が京都から落去した七卿落ちの際に立ち寄った民家。
保命酒という医用酒を販売していた中村家の住宅で、中村家の廃業もあって太田家の所有となり、今は太田家住宅七卿落ち遺跡という名になっています。

 
しかし、鞆という町は雰囲気がある上にコンパクトで、徒歩での散策とはとても相性が良いですね。
そして、早朝に来て良かった。
観光客がいないというのが、路地マニアとしては最高ですな(^^)
 
つづく
 
参考:
鞆ノ浦
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2015年3月7日土曜日

備後ぶらり その1

ずっと前に記事に上げた、ホタルのついでに訪れた場所場所をひとつ。
ま、かれこれ9ヶ月ぐらい前の話なんですが、バイクもオフシーズンということで、許してつかぁさい(笑)
 
毎年、蛍の頃に訪れているのが広島県は備後地方なんですが、去年は梅雨の時期に全部晴れるという予想だったので、居ても立ってもいられずバイクで出撃しました。
蛍目当てと言っても、当たり前の事ながら昼間はホタルも出ないので、ガッツリとバイクで出掛けられるという寸法。

バイクで出掛けたのは土曜日。
最終目的地は鞆の浦なので、渋滞が予想され、そこから逆算すると、いつものツーリングのように朝5時の起床。
山間だけあって早朝は寒い。
まず、備後を南北に縦断する国道182号線に出て、国道2号線へ入り、県道22号線で鞆へ、という計画。
主要幹線だけで行けるから楽やわ~なんて思ってましたが、帰りにもっと簡単なルートが発覚する、というのは置いておくとしましょう(笑)
国道182号線に入って驚いたのは、バイクの数。
こんな早朝、しかも気温10度ちょっとしかなくて走ると寒いというのに、ライダーがやたらと走ってる。
たしかにこの道は神辺から北に抜けた所にヘアピンがあるし、その北も山間部を抜けていくコーナーが多い道という割にアップダウンが控えめで走りやすい感じ。
備後ライダーの定番ワインディングロードになっているんですかね。
色んなバイクがいて、ちょっと楽しかった(^^)

そんなこんなで、懐かしい神辺を過ぎて福山東に入り、国道2号線経由で芦田川沿いの県道22号線へ。
大きな川の河口部らしい緩慢な流れが、もう海かと見間違うほどですな。
そういえば、この近くに中世に栄えた草戸千軒があったのを思い出しました。
昔の芦田川は瀬戸川とぶつかる辺りから東に大きく湾曲する分流を出しており、この県道22号線が芦田川を越える辺りで再び合流してたんですが、その間の中洲に河口港としての町があったんですな。
それが草戸千軒と呼ばれる町で、中世に栄え、江戸時代に洪水で滅んだことから、日本のポンペイと呼ばれることもあったそうな。
河川改修で分流が無くなったのと、河川幅が拡げられてはいますが、この緩慢な流れを見ていると、河口港としての優れた立地が想像できます。

県道22号線は、途中で芦田川に別れを告げて少し内陸を走り、やがて海沿いへ。
そこからはずっと海沿いで、仙酔島が見えてくると間もなく鞆に到着。
ちなみに、一般には鞆の浦として知られていますが、町の名は「鞆」が正しく、港は「鞆港」、かつての行政区分は「鞆町」です。
鞆の浦の名は、そのまんま鞆という町のすぐ近くの海という意味ですな。
あくまで、正確には、という話ですけども。
つまり何が言いたいかと言うと、ここにあった城は、「鞆の浦城」ではなく、「鞆城」となるわけです。
というわけで鞆城はこちら。

 
何かよく分からん写真(笑)
今は城跡に歴史民俗資料館が建っておりまして、城っぽさはほぼ無い、というわけです。
ただ、資料館の北側には、下のように明らかに古い時代の石垣が残っていました。

 
あと、立地もいいですな。
将軍足利義昭がしばらく居た場所だけに、風光明媚。
城跡からは、鞆の浦と、戦国時代に村上水軍が使っていた大可島城が左手に見えます。

 
もっと城らしい写真が欲しいですか?
これなんかどう?

 
めっちゃ石垣してますな!
でもこれ、復元石垣なんですよね。
資料館建設に伴って出土した基底部を元にした復元。
写真の石垣の隅部の3段目から上が少し色も違ってるし、復元部分かな?
でも雰囲気は出てます(^^)

さてさて、第一目標の鞆城も攻略し、いよいよ次は鞆の浦の散策です。
 
つづく
 
参考:
鞆城
地図付きはこちら
 

2015年2月28日土曜日

クラッチレバー交換

ふと思い立ち、バイクのクラッチレバーを交換してみました。
ツーリング先での転倒対策で可倒式。
そして、よく見る調整機構も付いたやつです。
今のままでも問題ないのですが、もう少し近ければいいかなって感じで。

しかし、しかし。
交換してみて解ったこと。

これ、あかんやつや。

そう、ダメなんです。
調整機構はダイヤルになってたんですが、そのダイヤル部分が握りこむとスイッチボックスに当たる・・・
なんで?
車種対応品ちゃうの?
いやー、対応車種の表記なんて適当なもんですな。
クラッチの遊びを目一杯調整すると、一番開いた状態で握りを一番浅くしたセッティングが一番当たらないんですが、表示切替のスイッチには軽く当たる。
普通に走ってるとトリップメーターが切り替わったり、時計表示も知らない間に変わってたり・・・
しかもこのセッティングでは純正とほぼ変わらん握りの深さ(泣)

調整機構の意味無ぇー!

なんか見た目だけ無駄にカッコ良くなりましたが、やっぱり戻しました。
ツーリングに持っていく予備部品行き。
ある意味、転倒対策にはなったんですがね(苦笑)
しかし、車外品なんて適当だねぇ・・・
 

2015年2月23日月曜日

兵庫城 その5

去る1/31に、兵庫城の発掘調査の現地説明会がありました。
その資料は下で見ることができます。

http://www.city.kobe.lg.jp/culture/culture/folk/estate/hyougotu62-3.html.pdf

いよいよ、発掘調査の本丸たる城の遺構がメインということで、今回は資料に飽き足らず、頑張って現地まで行ってきました。
時間の都合で、説明を聞くことはできませんでしたが。

今回の発掘では、城の二重の堀が検出された事がメインです。
多分、これは元禄期の絵図にもあることから、予定通り。
ただ、本丸への虎口が絵図と違って2ヶ所あったことと、馬出のような感じだった二ノ丸が帯郭のような形である可能性が出てきた事が、新たな発見ですね。
元禄図は、城から行政施設の意味合いが濃い陣屋になってから、かなり経って描かれたものですから、当然のことながら、形が初期から変わっている可能性も高いわけです。
特に二ノ丸や内堀は、東から北に掛けて半周していたとすれば、かなり役割が違い、より軍事的性格が強い場所となりますね。
ただ、その先が運河で無くなっているだけに、検証のしようがないとは思いますが・・・

現地での写真はこんな感じ。

 
これは、良好な感じで100m以上も残っていた外堀の南側の基部。
戦国期らしい野面積で武骨です。

 
これは二ノ丸から内堀と奥の本丸。
右手奥には二ノ丸から本丸への土橋の石垣が見えますね。

説明会の日はとてもとても寒い日だったんですが、思いのほか、人が多く来てました。
バスや地下鉄で行かないと行きにくい場所なんですが、予想以上の注目度だったようです。
いや~、なかなか侮れない!
 
参考:
兵庫城
地図付きはこちら
 

2015年2月14日土曜日

千葉さんのややこしや~

去年の秋に佐賀に行った関係で、最近は肥前千葉氏界隈の事を調べていました。
肥前千葉氏と言えば、佐賀藩祖の鍋島直茂が幼い頃に養子になっていた事で、多少は知られているんじゃないでしょうか。

この肥前千葉氏の誕生のきっかけは元寇です。
肥前小城の領地を、当主である千葉頼胤が持っていた関係で、九州領主として防衛を命じられ、九州へと下ったのが最初。
この頼胤、文永11年(1274)の文永の役に参戦しまたが、戦傷を負い、翌年に没してしまいます。
しかし、依然として元の脅威は去らない。
お役目はそのままです。
そこで、長男宗胤が元服しないまま九州へ下り、父の役目を引き継ぎました。
残された千葉の本領では次男胤宗が留守を守っており、後に惣領を継ぐ事になります。
長男宗胤と次男胤宗。
宗胤胤宗。
・・・。
頼胤死去に伴い子宗胤が九州へ下り頼胤の次男で宗胤の弟である胤宗が千葉の本領に残ったが後に胤宗が惣領となった。
・・・・・・ゲシュタルト崩壊しそう。

いや、まだここまではいい。
この後が問題。
この兄弟のそれぞれの子供は、胤貞と貞胤。
これが惣領を巡って争うんですわ。
胤貞貞胤。
・・・。
頼胤死去に伴い子宗胤が九州へ下り頼胤の次子で宗胤の弟胤宗が千葉に残って惣領となったが宗胤の子胤貞は惣領を取り戻すべく胤宗の子貞胤と対立。胤貞は貞胤の千葉荘を攻め胤貞の上洛後に貞胤は胤貞の千田荘を襲うが後に北朝方に降伏。胤貞が貞胤の護送を任され惣領に復帰すると目されたがその帰路の三河で病没し結局は貞胤が惣領となった。

ややこしや~

事跡を追うのに混乱するわ!(笑)
このややこしさの原因は、北条氏による偏諱にあります。
歴代を並べてみると、

北条氏得宗家
    経時-時頼-時宗-貞時
千葉氏
    時胤-頼胤-宗胤-胤貞
            ∟胤宗-貞胤

足利氏でも、
    泰氏-頼氏-家時-貞氏
となっているように、得宗家からの偏諱の一文字+その家の通字という名が多いですね。
得宗家の通字である「時」は珍しく、通字ではない方の字の偏諱が多いという傾向も見えます。
ちなみに、泰氏の「泰」は、北条経時の祖父でその前の当主でもある泰時からでした。
それからもうひとつ。
戦国時代に慣れていると、大内氏や大友氏なんかはそうですが、その家の通字+偏諱の一文字というパターンが多いのですが、鎌倉時代は逆になっていることが多かったようです。

この法則を千葉氏に当てはめてみると、時胤、頼胤はもちろん、宗胤も惣領としての名となります。
対して、胤宗は字順が逆になっていることから、庶子という扱いでした。
これが胤宗が惣領を継いだ後では、本来惣領筋だった胤貞は庶子としての名となり、貞胤が惣領として扱われたことが解ります。
なかなか、厳密な運用ですな。
惣領かそうでないかはかなり重要だから当たり前か。
でも・・・兄弟で前後の字が逆ってのはややこしいぜ(泣)